本文へスキップ

TEL. 075-611-2790

〒612-8039 京都市伏見区御香宮門前町184



ショートメッセージ2014年5月

5月25日(復活節第6主日)  ―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
(ヨハネによる福音書15章5節)

 イエス様は十字架へと向かわれる直前に、弟子たちに対しこの言葉を語られました。ご自分が死へと向かうその中で、弟子たちに対してどうなって欲しいのか、その思いを語られていくのです。弟子たちはどのような気持ちでイエス様の言葉を聞いていたでしょう。悲しみや恐れ、不安のただ中にいる彼らに対してイエス様が語った言葉が、「わたしにつながっていなさい」というものでした。
 この言葉だけを聞くと、イエス様と手をつなぎなさいとか、細い糸でつながっていなさい、というニュアンスにも取ることができますが、原語の意味はもっとダイナミックなものでした。文語訳聖書ではこのように訳されていたことを覚えている方もおられると思います。
 「人もし我におり我また彼におらば、多くの実を結ぶべし」
 我におり、彼におる。そのように訳されているのですね。この新共同訳聖書で「つながる」と訳されている言葉は、本来は「その場にいる、そのままいる、とどまる」という意味です。ですから5節の後半は、「人がわたしにとどまっており、わたしもその人にとどまっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」となるわけです。
 わたしたちは時に木の幹、イエス様から離れ、自分の力で生きていこうとします。イエス様にとどまらずに、一人で歩いて行こうとします。十字架のイエス様を見捨てた弟子たちがそうであったように。弟子たちがご自分から離れていくことを、イエス様はご存知でした。だから最後の説教の中で伝えたかったのです。わたしにとどまっていなさい。わたしもあなたがたにとどまっているから。その約束は今、わたしたちの元にも届きます。だから大丈夫、安心しなさいという宣言と共に。

5月18日(復活節第5主日)  ―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)

 「我は道なり、真理なり、命なり」。桃山基督教会の礼拝堂には、この言葉が書かれた額が掛けられています。この聖書の箇所は、日本聖公会では葬送式や逝去者記念式においても読まれます。
 このヨハネによる福音書の場面を少し説明します。イエス様はご自分がいよいよ十字架につけられるということを知った時に、弟子たちに対して語ります。弟子たちを愛され、その足を洗われたイエス様。しかしそのすぐ後で弟子の一人が裏切ることを予告され、ペトロがご自分から離れていくことも告げられます。
 その後で説教を聞く弟子たちの心の中は、どうだったでしょう。恐れ、不安、悲しみがすべてを支配し、心を静めることなどできずに、「何故?」「どうして?」という思いをもって、イエス様が語り出すその言葉に耳を傾けていたのかもしれません。
 わたしたちも時にイエス様に疑問をぶつけます。悲しみを、不安を、祈りの言葉として投げかけるのです。「どうしてですか、イエス様」、「何故なんでしょうか」。ヨハネ福音書14章に出てくるトマスとフィリポの言葉は、わたしたちの言葉そのものなのではないでしょうか。
 そのわたしたちに、イエス様はご自分の進む道を示されます。その道は十字架への道でした。しかしそれは同時に真理へと、そして命へと向かう道でした。そしてイエス様自身が道である、わたしたちが通るべき道であることを教えられたのです。
 イエス様は身をもって弟子たちを、そしてわたしたちを不安から安心へと、絶望から希望へと招き入れてくださいます。「大丈夫、安心していいよ、わたしを通っていきなさい」、その言葉がわたしたちの耳にも届いているでしょうか。

5月11日(復活節第4主日)  ―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
(ヨハネによる福音書10章3節)

 今日は桃山基督教会では、親子礼拝をおこないました。子どもたちがおうちの方と一緒にたくさん来てくれました。その中で、羊と羊飼いについて、お話をしました。
 羊という動物をみなさんはご存知でしょうか。羊はそんなに早く走れません。また目が悪く、前を進む羊にくっついて歩いていきます。さらに羊は道を覚えることができず、迷子になってしまうともうどうしようもない、ガタガタ震えるしかないのです。
 でもそんな羊たちが安心して草を食べ、のんびりと暮らすことができるのは、羊飼いがいるからなのです。羊飼いは羊たちを、青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせます。そして正しい道へと導いていくのです。
 わたしたちにとって、羊飼いとは誰でしょう。小さな子どもたちにとって、それはお母さんなのかもしれないですね。今日は母の日ですが、お母さんはみなさんのためにご飯を用意し、お風呂を準備し、安心して眠る場所を与えてくれます。でも、もしお母さんが病気になったり、お出かけしていたり、ご用事でいなくなってしまったときに、みなさんは一人ぼっちになってしまうのでしょうか。
 そうではありません。わたしたちには、素晴らしい羊飼いがいます。それはイエス様です。イエス様はわたしたち一人ひとりを養ってくださり、守ってくださり、進むべき道を示してくださいます。それは何も子どもに限ったことではありません。大人になってもイエス様はいつも一緒にいてくださいます。そしてわたしたち一人一人の名前を呼んでくださるのです。

5月4日(復活節第3主日)  ―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
(ルカによる福音書24章32節)

 イエス様が復活したその日の夕方、二人の弟子たちはエルサレムから60スタディオン(約11q)離れたエマオという村に向かいます。その理由は何も書かれていません。しかし彼らの「暗い顔」を見ると、そこには失望、絶望、嘆き、悲しみといった感情が見て取れます。弟子たちは自分たちを導いてくれるはずのイエス様が十字架により死んでしまったことに、深い喪失感を覚えたのではないでしょうか。また、もしかすると今度は自分たちに手を下すかもしれないユダヤ人たちを恐れたのかもしれません。復活の朝に婦人たちは、イエス様の遺体が消え空っぽになった墓の報告をします。さらに天使たちによって伝えられた「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」というイエス様の復活を弟子たちに告げます。しかし弟子たちは、これらの話を「たわ言のように」思い、エマオへと向かうのです。
 わたしたちは日常の中で、時に傷つき、悲しみの中に、絶望の中に沈められることがあります。そして日常から離れ、何かを求めてその場から退くのではないでしょうか。弟子たちがエルサレムからエマオへと向かったように。
 けれどもイエス様は、その弟子たちの前に現れ、共に歩んでくださいました。弟子たちの目は遮られ、それがイエス様だとは分からなかったそうです。しかし、聖書の説き明かしを聞き、パンを裂かれた時に、彼らの目は開かれます。それがイエス様だとわかったのです。
 そしてわたしたちも自分のエマオに向かうときに、聖書のみ言葉に心を燃やし、パンとぶどう酒によってイエス様の存在に気づくのではないでしょうか。わたしたちのエマオ、それはわたしたちの集う教会なのかもしれません。




バナースペース

日本聖公会 桃山基督教会

〒612-8039
京都市伏見区御香宮門前町184

TEL 075-611-2790
FAX 075-611-2790