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ショートメッセージ2014年6月

6月29日 聖霊降臨後第3主日  ―印刷用PDFはこちら

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自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
(マタイによる福音書10章39節)

 聖書を読んでいると、わたしたちの日常生活を否定するような言葉に出会い、戸惑うことがあります。今日の箇所(マタイによる福音書10章34〜42節)を読んでいましても、そのような思いを持つ方は多いのではないでしょうか。  ここには「ふさわしくない」という言い方が三度出てきます。どのような者がイエス様にふさわしくないのかといいますと、「わたしよりも父や母を愛する者」、「わたしよりも息子や娘を愛する者」、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者」だと書かれています。
 この「ふさわしくない」という言葉は「値しない」という意味であり、父や母、息子や娘を愛することは、イエス様の弟子には値しない、と読むことが出来ます。ではわたしたちはどうすればよいのかと感じることもあるかもしれません。
 しかしここでイエス様が言われているのは、わたしのことを第一に考えなさい、ということなのです。イエス様の十字架の場面にはその母マリアが一緒にいたように、イエス様自身、母子の関係を絶ったわけではありませんでした。まず母を愛しなさい。そしてそれ以上にイエス様にすべてを寄り頼みなさいと言われているのではないでしょうか。
 そしてイエス様は、わたしたちに自分の十字架を背負って従うようにと招かれます。従うとは後ろについていくこと。イエス様がわたしたちの前に立って、わたしたちのために道を示してくださいます。自分の力だけで歩いていくことができない時にも、イエス様が先導して進んでくださる。自分の十字架の重荷に耐えきれずに歩みを止めてしまっても、イエス様がそばに駆け寄ってくださり、肩を貸してくださる、背負ってくださる。
 自分の生き方を捨て、イエス様にすべて寄り頼むときに、わたしたちは新しい命を得、新しい生へと進んで行けるのです。

6月22日 聖霊降臨後第2主日  ―印刷用PDFはこちら

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だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
(マタイによる福音書10章31節)

 今日の箇所(マタイ10:16-33)におけるキーワードは、「恐れるな」です。恐れてはならない、恐れるな、恐れるなと、ここには三か所、恐れを否定する表現が出てきます。恐れるとはどういうことでしょうか。
 この語はもともと「逃げる」という語と語源が一緒だそうです。つまり恐れるということは、心が逃げる、身体ごと逃げる、離れて行くというニュアンスにも取れるようです。イエス様は何度も弟子たちに「恐れるな」と告げました。しかし弟子たちはそれを聞いても恐れ、十字架につけられるイエス様を見捨て、心にも鍵をかけてしまいます。わたしたちはどうでしょう。イエス様の「恐れるな」という言葉はどのようにわたしたちの心の中に響いているのでしょうか。
 わたしたちは様々な場面で恐れます。どうしたらよいのか途方に暮れ、目の前の現実から逃げ出そうとするのです。でもそのような時にもイエス様の声が聞こえます。「恐れるな」と。しかしわたしは思うのですね。「恐れるな」。このイエス様の言葉は果たして「恐れなんかなくしてしまえ」という単純な命令なのかと。
 ここで「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」という言葉にも目を留めたいと思います。あなたがたは人々なんか恐れなくてもよい。神さまを恐れなさいとイエス様は言われます。神さまを大いなる存在として認め、神さまに軸足をおいて歩んで行く。そのことを本当に考えなさいと。わたしたちは恐れなくてもよいものを恐れてしまい、本当に恐れなければならない神さまの存在を無視してしまってはいないでしょうか。
 感じますでしょうか。わたしたち一人一人の内に、聖霊が与えられていることを。神さまの力に満たされ、神さまがいつも共に歩んでくださっていることを。
 イエス様は今も言われます。「恐れるな」と。この言葉は決して否定的な意味ではありません。励ましなのです。恐れることなんて何もない。神さまを信頼しなさい。わたしはいつも共にいるのだからというメッセージなのです。その言葉を受け止めながら、共に歩んでまいりましょう。

6月15日 三位一体主日(聖霊降臨後第1主日)  ―印刷用PDFはこちら

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だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイによる福音書28章19〜20節)

 今日の箇所は大宣教命令とも呼ばれるところです。十字架の死によってイエス様は墓に葬られましたが、復活されました。そしてまず婦人たちの前に現れ、そして28章16節以下では弟子たちに会ったという記事が載せられています。
 ここまでの道のりを考えてみますと、弟子たちはガリラヤからイエス様に従い、共に食べ、歩き、いつも一緒にいました。今まで相手にされなかったような人たちを含め、多くの人にたくさんの教えを語り、病気の人たちや弱くされた人たちの傍らに寄り添うイエス様を間近で見ていたのは、弟子たちでした。きっとイエス様のことが大好きで、イエス様にずっとついていくと心に決めていたことでしょう。イエス様が十字架につけられる前までは。
 イエス様が十字架につけられる前、ゲツセマネで逮捕されたとき、弟子たちも一緒にいました。しかし彼らは逃げていきました。逮捕され、連れられていくイエス様を見捨てて。一番弟子として絶対にイエス様について行くと豪語していたペトロなどは、三度もイエス様を知らないとまで言うのです。
 その彼らに、復活したイエス様は現れました。そして、ご自分から離れていった弟子たちに対して言われたのが、今日の聖書の言葉です。
 わたしは今、神さまの愛をすべての人に伝えたいと思っています。まだ神さまを知らない人に、神さまはあなたを愛している、とても大切に思ってくださっているということを、知ってほしい。それはわたし自身が経験しているからなのです。何度も何度も裏切り、神さまから離れていったわたしさえをも、神さまは愛してくださっていることを。そして、「わたしはいつも共にいる」と約束してくださっていることを。
 だから今日もわたしは、神さまを賛美せずにはおられません。どうぞご一緒に、わたしたちと共に神さまがいつもいてくださることを喜びましょう。


6月8日 聖霊降臨日  ―印刷用PDFはこちら

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イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
(ヨハネによる福音書20章21節)

 今日は聖霊降臨日です。イエス様は告別説教の中で弟子たちに対し、聖霊を与える約束をされていました。ところが弟子たちは、「イエス様は復活なさった」というマグダラのマリアの話を信じることもなく、家の戸に鍵をかけて、ブルブル震えていたのです。
 わたしたちが鍵をかける時、それはどのような時でしょうか。安心している時でしょうか、不安な時でしょうか。人を招き入れたい時でしょうか、人を拒絶したい時でしょうか。人に自分の姿を見せたい時でしょうか、それとも人には絶対に自分の姿を、本心を見せたくない、そんな時でしょうか。
 しかし、その中にいつもイエス様は来てくださいます。わたしたちが辛い時、悲しい時、苦しい時、その最中に来てくださり、こう言われるのです。「あなたがたに平和があるように」と。
 「あなたがたに平和があるように」、この言葉は原文では「あなたがた」という代名詞と「平和」という名詞があるだけです。動詞はありません。つまり、こういう訳仕方もできるのです。「あなたがたに平和がある」。
 平和とは争いのない世界という意味ではなく、神さまに守られた、神さまのみ手の内にあるということ。神さまに根差した安らかな状態を、ここでは平和と呼んでいます。つまりイエス様は弟子たちにこう言っているのではないでしょうか。
 「怯えるな、怖がるな、安心しなさい。あなたがたには平和がある。神さまのお守りがあるんだ。だから大丈夫なんだ」と。そしてその声は、今、わたしたちにも聞こえているはずです。イエス様の息とともに。


6月1日 復活節第7主日(昇天後主日)  ―印刷用PDFはこちら

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永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(ヨハネによる福音書17章3節)

 イエス様は十字架にかけられる直前、弟子たちの前で神さまに祈られました。それがヨハネ福音書17章の祈りです。その中でイエス様は、永遠の命について語られます。永遠の命と聞くと、わたしたちは不老不死であるとか、ずっとこの世に生き続けることを想像しますが、ここでいう永遠の命はそれとは違うようです。「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」、これこそが永遠の命であるというのです。
 それではまことの神、そしてイエス・キリストを「知る」というのはどういうことなのでしょうか。日本語においても「知る」という言葉には様々なニュアンスがありますが、聖書の原語であるギリシア語やヘブライ語においても、単なる知識として「知る」だけではなく、感覚的であるとか、あるいは関係性の中で「知る」ことをも意味します。つまりその相手と人格的関係を持っている、あるいは親しい交わりの内にあるということなのだそうです。
 たとえば旧約聖書に出てくる「アダムは妻エバを知った」(創世記4章1節)は、肉体的な関係が生まれたことを意味します。しかしその行為そのものが重要なのではなく、真の愛においてその行為に先行する心と精神と魂の交わりがあってこそ、この「知る」という言葉が本来の意味をもつのです。
 ここで言われている神を知ること、イエス・キリストを知ることは、知識の中で知る、頭で理解するよりも、神さまを、イエス様を自分の親しい友人のように、長年共にいるお連れ合いのように、そして親と子どものように、何も話さなくても何を考えているのかがわかる関係にあるということなのです。
 イエス様は招かれます。わたしたちがイエス様を知り、永遠の命へと入ることができるように。わたしたち一人ひとりをよく「知って」いるからこそ、イエス様はわたしたちの心にそれぞれ違った形で語られています。その声にどうぞ耳を傾けて、イエス様を心の中に迎え入れてください。


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