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ショートメッセージ2014年8月

8月31日 聖霊降臨後第12主日  ―印刷用PDFはこちら

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イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
(マタイによる福音書16章23節)

 先週の箇所で、わたしたちはイエス様に「幸いである」と言われたペトロの姿を見ました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、その問いに対しペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのです。
 ペトロは喜んだことでしょう。メシア、救い主である神の子がすぐ横にいる。病人をいやし、慰めの言葉を告げ、たくさんの人をわずかな食料で満たしてくれる。その方とこれから一緒に歩んで行けるとしたら、もうこれで大丈夫。何も怖いことはない。これからはいつも自分のことを守ってくれるだろうと思ったのかもしれません。
 しかしイエス様が目指したのは、ペトロの向いた方向とは、まったく違いました。ご自分はエルサレムに行くこと、そして多くの苦しみを受けて殺されること、三日目に復活させられることを、打ち明け始められたのです。
 イエス様、あなたは神の子ではないのですか。どうして救い主メシアなら、そんな苦しみにあわないといけないのですか。ペトロはその思いと共に、自分の心配もしていました。イエス様に従って生きていこうと信仰告白をしたのに、これでは自分の身だって危ないと感じても不思議ではありません。
 しかしイエス様は、ご自分をいさめるペトロに対して言われるのです。「サタン。引き下がれ」と。とても厳しい言葉です。あなたは岩である。わたしは岩であるあなたの上に、わたしの教会を建てるとすぐ前に言われたペトロは、今や躓きの石となってしまいました。
 イエス様はわたしたちにも自分を捨てるように、ただ目の前を歩くご自分を第一とするようにと招かれます。イエス様はどこを向いておられるでしょうか。イエス様はエルサレムへと向かわれます。十字架につけられるために。
 わたしたちも自分の十字架を背負い、日常の苦しみや悲しみ、どうしようもない痛みにうつむいてしまうときがあるかもしれません。でも、そんなときはどうぞ、イエス様の視線の先をよく見てください。確かに目の前にあるのは十字架の受難、苦しみなのかもしれない。でもその先には、復活の命が、新しい生が見えてくるはずです。それこそが、イエス様がわたしたちにお示しになった命なのです。
 死の向こう側にある生に気が付いたときに、イエス様がなぜわたしたち一人一人のために十字架につけられたのかがわかったときに、わたしたちの歩みは強められるのではないでしょうか。

8月24日 聖霊降臨後第11主日  ―印刷用PDFはこちら

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イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
(マタイによる福音書16章15節)

 イエス様のこの問いかけを聞くたびに、わたしはいつも、自分はイエス様のことを本当にどう思っているのだろうか、自分にとってイエス様とはどういうお方なのだろうかと感じます。
 イエス様は、ここで弟子たちに質問します。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と。人の子、つまりイエス様ご自身のことを、どのように人々は言っているのか、と聞くのです。弟子たちは口々に答えます。旧約の預言者やイエス様の道備えをした洗礼者ヨハネにイエス様を結びつけて、「あなたはこういう方ではないでしょうか」と言います。
 しかしイエス様は一人一人の言葉に、肯定も否定もされずに、こう言われるのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。
 わたしたちにとって、イエス様とは何者なのでしょうか。わたしたちが困った時に、何でも願いを聞いてくれる魔法使いのような方ですか。それとも、世界の争いを静めてくれる裁き主ですか。わたしたちの世界を根本から変えてくださる革命家ですか。
 その問いに答えたのはペトロでした。聖書の文面だけを見ると、イエス様の問いにすぐにペトロが答えたようにも読めますが、わたしはここに長い沈黙があったように思います。人々がイエス様のことをどのように思っているのか、その質問にはすぐに答えることができた。自分の耳に聞こえてくるうわさ、みんなが言っていること、自分の思い、それらを口にすればよかったのです。けれどもイエス様は「それではあなたがたは」と続けられます。一人一人の顔をじっと見ながら、「あなたは」、「あなたは」、「あなたは」と聞いていくイエス様。
 ペトロはそのようなイエス様に対し、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。イエス様はキリスト、メシアである。ペトロはそのように信仰を告白しました。でもこの告白は、ペトロが自分の力でたどり着いたものではないと、イエス様は言われます。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」という言葉から、神さまの働きによらなければ、人は誰も信仰告白に至ることはできないことに気づかされます。
 わたしたちがイエス様を見いだそうとして信仰に入ったのではなく、イエス様がわたしたち一人一人に声を掛け、招かれたのです。神さまがいつも自分のそばにいて、心の扉をノックし続けていることに気が付く時に、わたしたちはイエス様はキリストであると、告白できるのです。

8月17日 聖霊降臨後第10主日  ―印刷用PDFはこちら

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女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
(マタイによる福音書15章27節)

 イエス様はユダヤの町を離れ、ティルスとシドンという地に行かれます。ティルスとシドン、その地はユダヤではない土地です。聖書ではこれらの地を異邦人の住む場所と書きますが、要はイスラエルの民ではない人々が暮らしていたところでした。
 カナンの女はこの地で生まれていました。つまりユダヤ人からみると、彼女はいわゆる「外国人」。聖書の中では異邦人として描かれる人の一人なのです。
 聖書の預言には、救いはイスラエルからということが書かれていました。またイエス様も、ガリラヤで宣教をはじめ、いやしや奇跡、また説教をイスラエルの地で、イスラエルの人々に向かっておこなっていたのです。
 その中で、「異邦人」であるカナンの女が、「わたしを憐れんでください」とイエス様に叫びます。「主よ、ダビデの子よ!」と、何とか娘をいやして欲しいという一心で、彼女はついて行くわけです。
 このような時にイエス様だったら、優しく振り向いて、「よしわかった」と言ってくださるに違いない。わたしたちはそのように聖書を読み進めていきますが、その期待はあえなく裏切られてしまいます。
 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。そのイエス様の言葉は、イスラエルという枠組みの外にいた彼女を、どうしようもない絶望に落としたことでしょう。しかし彼女はあきらめませんでした。そして言った言葉が冒頭の聖書の箇所なのです。
 イエス様がどうして彼女を最初、拒否されたのか。彼女の本当の信仰を試そうとされたのか、あるいはご自分には、イスラエルの民に関わる時間しか与えられていないことを知っておられたのか。
 しかし彼女の信仰は、イエス様の心の向きを変えてしまいます。「あなたの願いどおりになるように」というイエス様の言葉によって、彼女の娘はいやされます。しかしわたしは思います。彼女の願いとは、自分の娘がよくなることだけではなかったのではないかと。イエス様の救いのみ業を、わたしたち異邦人にも向けて欲しい、それが彼女の真の願いだったのではないでしょうか。
 そしてその救いのみ業は、今を生きるわたしたちにも与えられているのです。

8月10日 聖霊降臨後第9主日  ―印刷用PDFはこちら

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すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
(マタイによる福音書14章28節)

 「水の上を歩く」、イエス様がおこなったこの奇跡は、先週の福音書で読まれた5つのパンと2匹の魚で、5000人の群衆を満腹させた記事のすぐあとに出てきます。
 このとき、弟子たちはイエス様とは離れ、自分たちだけで舟に乗って湖の向こう岸へと向かっていました。イエス様は「強いて」弟子たちを舟に乗せられました。イエス様が一人になりたかったのか、それとも弟子たちに自分から離れて行動するように促されたのか、真意はわかりませんが、ともかく弟子たちはイエス様抜きの時間を経験することになるのです。
 さて、弟子たちをのせた舟は、逆風のために波に悩まされます。弟子たちの中には漁師だった人がいたにもかかわらず、なかなか前に行くことができなかった。わたしたちも、信仰という歩みの中で順風な時もありますが、逆風にあい、波に叩きつけられる時も多くあるのではないでしょうか。逆風とは、波とは何を意味するのでしょう。苦しみ、悲しみ、不安でしょうか。しかしその中で先に進めなくなった時に、前に向かって歩めなくなった時に、悩みのただ中にイエス様は来てくださるのです。湖の上を歩いて、弟子たちの元へと歩を進めるのです。
 さらに、今日の物語はこれで終わりませんでした。イエス様が湖の上を歩いてくるのを見て、自分も歩いてみたいと思った人物がいます。それは弟子の一人、ペトロでした。ペトロはイエス様に言います。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。わたしは今まで、ペトロは「俺も歩く」と周りの制止を無視して水の上に出た、無鉄砲な人間だと思っていたんですが、よく聖書を読んでみるとそうではないのですね。ペトロは自分の力だけでその一歩を踏み出そうとしたのではなく、イエス様の声を待ったのです。イエス様のみ言葉に聞き、イエス様の命令に生きようとするその姿。ただやみくもに湖の上へと飛び出して行ったのではなく、イエス様に聞き従うそのペトロの姿に、わたしは自分の信仰のあり方を深く思い返しました。
 わたしが洗礼を受けた時、最初は自分の意志で、自分の決断で洗礼を受けたと思っていました。でもそうじゃなかった。イエス様が来なさいと呼ばれ、招かれていたことに気づき、わたしはその呼びかけに応答しただけなのだということを知った時に、それからのわたしの歩みは決して一人だけではない、いつもイエス様が共にいてくださるという強い思いを持つことができました。そのことを心から感じることができた時に、わたしたちには水の上をも歩ける信仰が与えられるのではないでしょうか。

8月3日 聖霊降臨後第8主日  ―印刷用PDFはこちら

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すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
(マタイによる福音書14章20節)

 今日の福音書は、「5000人の供食」と呼ばれている箇所です。イエス様は多くのたとえを用いて語られた後、舟に乗って群衆の元を離れていきました。そして一人、人里離れた場所へと退かれたわけです。
 この「人里離れた所」と訳された語は、洗礼者ヨハネが悔い改めを宣べ伝えていたところ、イエス様が悪魔から誘惑を受けられた場所、「荒れ野」と同じ語です。イエス様は一人そこに向かわれた。それは休息を求めてなのか、あるいは祈るためだったのか、それとも他の目的があったのでしょうか。
 しかし、イエス様に休まる時は与えられませんでした。群衆は後を追います。舟で移動するイエス様を追いかけるわけですから、湖の岸をぐるっと遠回りしなければならなかった。それでもイエス様が必要だった群衆にとって、行かずにはおられなかったのです。
 イエス様はその群衆の姿を見ます。着の身着のままで、後のことなど何も考えずについてくる群衆の姿を、イエス様はじっと見て、深く憐れむのです。この「深く憐れむ」という語を、釜ヶ崎で働かれているカトリックの本田神父は「はらわたを突き動かす」と訳されました。イエス様が群衆の苦しみや悲しみ、嘆きを知り、心揺さぶられるのです。感情をあらわにされるのです。
 そのイエス様の姿は、わたしたちに対しても向けられています。わたしたちが絶望の淵にいるとき、涙を流しながらイエス様の元に駆け寄って行くとき、イエス様はわたしたちをじっと見て、寄り添い、思いを一つにしてくださるのではないでしょうか。
 夕暮れまでイエス様は群衆の元にい続けました。そして大きな奇跡をおこされます。男性だけで5000人もいた集団に対して、食事を与えられた。手元には5つのパンと2匹の魚しかなかった。それでも群衆は満腹した。
 この出来事をあなたはどう感じますか。わたしは思います。わたしもこの食事の席に招かれたいと。まさに神の国の宴席ともいうべきこの交わりに、加わらせていただきたいと。
 イエス様はあなたも招かれています。わたしが裂くパンを一緒に食べようと。

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