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ショートメッセージ2014年10月

10月26日 聖霊降臨後第20主日(マタイ22:34〜46) ―印刷用PDFはこちら

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第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
(マタイによる福音書22章39節)

 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。律法の専門家はイエス様を試そうとして尋ねます。つまりこの問いかけは悪意のあるものです。彼らイエス様に敵対する人々は、イエス様が律法に対してどのような態度をとられるのかを、じっと見ていました。
 その彼らに対してイエス様は二つの掟が重要であると答えられました。
 1つ目は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というもの。簡単にいえば、神さまを愛しなさい、ということです。でもどうでしょうか。わたしたちは神さまのことを愛しているかどうか、わからない。どうすれば神さまを愛することができるのか、はっきりしないのです。
 当時のユダヤ教の人たちはこう考えていたそうです。神を愛するということは、律法を守ること。そして自分自身の生活を、神さまの命令のために放棄することが、神さまを愛することだと考えていました。
 でもイエス様が示した重要な戒めはそれ一つではありませんでした。「隣人を自分のように愛しなさい」。この聖書のいう愛は、感情ではなく行為です。ただ心の中で「愛しています」ではなく、行いが伴わないといけないのです。どのような行為なのか、それはイエス様がこれまでずっとなされてきたことです。社会から排除され、誰にも相手をされない人たちに寄り添い、共に歩み、一緒に食事をされたこと、その行為こそが、イエス様が示された愛の実践です。
 イエス様は二つの戒めを示されました。神さまを愛し、隣人を愛しなさい。でもこのたった二つの戒めを、わたしは守ることが出来るのだろうか。イエス様がなされたように、愛することができるのだろうかと思います。
 イエス様は十字架の死という究極の愛をわたしたちに与えてくださいました。その十字架によって、イエス様に寄り頼まないと神さまの元に立つことなどできないわたしたちに、手を差し伸べてくださる。わたしたちはそのように愛されていることを知ってはじめて、イエス様のみ跡を歩む者にされます。神さまと隣人を愛する者にされるのです。
 どうか神さまがわたしたち一人ひとりを用いて下さり、わたしたちが神さまを心から愛する者に変えられますように、祈り求めていきましょう。

10月19日 聖霊降臨後第19主日(マタイ22:15〜22) ―印刷用PDFはこちら

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彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
(マタイによる福音書22章21節)

 エルサレムに入られたイエス様、しかしその言動を快く思わなかった人たちがいました。彼らはイエス様を罠にかけようとして問います。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。
 当時、ユダヤ人はローマ帝国に支配されていました。そのため、彼らユダヤ人はローマ帝国に税金を支払わなければなりませんでした。それも皇帝の肖像が入り、「神の子・皇帝ティベリウス」という銘まで刻まれた硬貨を用いて、税を治めないといけないのです。そのことは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」との神さまの掟を守るユダヤ人にとっては屈辱的であり、簡単に肯定することはできませんでした。しかし同時に、税金を納めないという選択は、イエス様がローマ帝国に対する反逆者となることを意味したのです。
 税金を納めるとも納めないとも答えようがないその悪意ある問いかけに対して、イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答え、罠にかけようとした人たちを驚かせる、そこでこの話は終わります。
 わたしたちはこの物語を読むときに、一言で窮地を脱したイエス様の受け答えに感心するかもしれません。また、政治的なことと宗教的なこととは分けて考えていいのだと納得するでしょう。さらに、わたしたちは神さまのものだから、自分自身を大切にして、神さまにお返ししようと考えたりもします。しかし、果たしてイエス様がここで言われたのは、そういうことだったのでしょうか。
 この話が語られたのは、イエス様が十字架につけられる直前のことでした。十字架の上で、神さまの「愛する子」であられたイエス様は、神さまのみ手にご自身をお返しになりました。それは、本来、神さまの似姿として創られたわたしたち一人ひとりが、もう一度神さまに立ち返り、神さまのものとして、神の国に憩うことができるようにとなされたことだったのです。
 「あなたに言う。神さまのもとにかえりなさい」、イエス様は十字架を背負いながら、わたしたちにこう語りかけられています。そしてわたしたちは、その呼びかけに応え、神さまの子どもとして歩むことを望まれているのです。

10月12日 聖霊降臨後第18主日(マタイ22:1〜14) ―印刷用PDFはこちら

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そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
(マタイによる福音書22章10節)

 イエス様はエルサレムに入られてから、多くのたとえ話を語られました。今日の箇所である「婚宴のたとえ」もその一つです。
 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」とイエス様は言われます。天の国の王さまですから、この方は神さまのことでしょう。王さまは婚宴に招いておいた人々を招くために、家来を遣わします。ところが人々は婚宴に行くのを拒絶するのです。無視したり、畑や商売に出かけたり、王さまの家来を殺してしまったり。
 そこで王さまは決断をします。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった」と言って家来たちを通りにやり、見かけた人は善人も悪人もみな集めて来ました。その人がどういう人で、どのような行いをしてきたか、それはどうでもよかった。王さまである神さまは、すべての人を婚宴に招待されたのです。
 町を歩いていますと、いろいろな人に出会います。優しそうな人、怖そうな人、親切な人、意地悪な人、そして神さまを知っている人、そうでない人。それらすべての人が、神さまの目から見たら婚宴に招待したい人です。わたしたちがどのような者であっても、声を掛け、招いてくださる、それが神さまの一方的な愛なのです。
 しかし王さまは、招いた人の中に礼服を着ていない人がいるのを見ます。一説には旧約の時代から、客へのもてなしとして王さまの前に出る者には礼服が与えられる習慣もあったようです。つまり礼服を着ていなかった人は、礼服をもっていなかったのではなく、王さまが着るようにと渡された礼服を拒否したということです。
 最初に婚宴に招待されたが行くのを断った人たち、婚宴の場には行ったものの礼服を着ようとしなかった人。その人たちは神さまからの愛をいただき、あふれるほどの恵みを与えられながらも、それらを受け入れなかったのです。そしてその人たちの姿は、ともすればわたしたちの姿とも通じるところがあるのではないでしょうか。
 イエス様は十字架に向かわれるその前に、弟子たちに、群衆に、そしてご自分に敵対する人たちに対して、これらのたとえを語られました。そしてこの言葉は、聖書を通して今もわたしたちに語り続けられます。イエス様は言われます。「わたしはあなたを招く。あなたはその招きに応じ、わたしを受け入れる者となりなさい」と。

10月5日 聖霊降臨後第17主日(マタイ21:33〜43) ―印刷用PDFはこちら

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さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。
(マタイによる福音書21章40節)

 イエス様はエルサレムで、弟子たちや群衆に対し、また律法学者やファリサイ派といったイエス様に敵対する人たちに対し、たとえを語られます。
 そのたとえとはこういうものでした。ある主人が、自分のぶどう園を農夫たちに貸して旅に出ます。そして収穫の時期を迎えた時、主人はその収穫を受け取るために、自分のしもべを農夫たちのところに送り込みます。
 ここまでは、理解しやすい話だと思います。資産を持っている人が労働力を求め、生産を委託することは、わたしたちの身近にもあることです。主人は自分の財産であるぶどう園を農夫に貸し、その収穫を受け取る。そして主人は対価として、農夫に対して労働に見合った賃金を支払うのでしょう。
 しかし農夫たちは、主人に収穫を渡すのを拒みます。収穫を受け取りに来たしもべを捕まえ、袋叩きにし、殺すのです。さらに後から送り込まれた主人の息子さえも殺してしまう。普通だったら何度もしもべを送り込むことはしないでしょう。すぐにでも農夫たちを捕まえ、処罰するのが当たり前です。しかし主人は何度ひどい目に遭わされても忍耐強くしもべを送り、ついには跡取りさえも農夫たちの元へと遣わす。それがイエス様の語られたたとえなのです。
 わたしたちはこのたとえを聞く時に、このような思いを持つのではないしょうか。この農夫はひどいと。他人のぶどう園を使って収穫しておいて、その収穫を主人に渡さないどころか、その息子まで殺すなんてあんまりだ。この話を聞いていたファリサイ派や祭司長たちもそう思ったに違いありません。しかしイエス様は聖書の言葉をもって伝えられるのです。この農夫とはあなたたちのことだと。
 でも考えてください。イエス様はこのたとえを、わたしたちにも語っているのです。わたしたちは神さまからたくさんのものをいただいています。財産、家族、身体、命など、数え上げればきりがありません。しかしわたしたちは、それらすべては自分の力で手に入れたものだと考えてしまいます。神さまからいただいた、いえ、預かったものだということを忘れ、自分の思い通りになるのだと思うのです。
 そのようなわたしたちに、神さまは何度も何度も使いを出して、わたしたちに関わろうとしてくださる。辛抱強く、わたしたちに声を掛けてくださる。そしてみ子イエス様をも与えてくださったのです。
 わたしたちはイエス様の十字架を見て初めて、自分の罪に気づき、神さまからたくさんの賜物を預かったことに気がつくのです。そして神さまは、わたしたちがその賜物を神さまにお返しするのを、心から待っておられます。

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