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ショートメッセージ2014年11月

11月30日 降臨節第1主日(マルコ13:33〜37) ―印刷用PDFはこちら

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だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
(マルコによる福音書13章35節)

 今日は降臨節第1主日、いよいよアドヴェントに入ります。これからイエス様のご降誕の日まで、心を整え、わたしたちの内にもイエス様をお迎えする準備をしていきたいと思います。
 さて、本日の聖書を読んでいきますと、イエス様の「目を覚ましていなさい」との言葉が三回出てきます。このマルコ福音書13章の言葉が終わった後、14章でイエス様は弟子たちとともに食事を取り、ゲツセマネへと向かっていくのです。その直前、最後の静かな時ともいえるその時に、イエス様はこの言葉を弟子たちに語られました。
 「目を覚ましていなさい」、この言葉を聞きますと、どうしてもわたしたちは肉体的な目覚めを思い起こしてしまいます。例えばマルコ14章のゲツセマネの場面で、イエス様はペトロに言いました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と。ここでの「目を覚ます」という言葉は、肉体的に起きていなさいという意味です。しかしこの同じ語は、新約聖書においては転義的に用いられることも多くあります。その意味は「油断しない」というニュアンスをもつそうです。
 「あなたがたは、油断しないで待っていなさい」。その言葉は、あなたにはどう聞こえるでしょうか。
 わたしには今まで、この言葉は強い警告として響いていました。気を張ってひと時も気を抜かずに、それこそ「油断しない」で、毎日を過ごしなさいというように理解していました。
 確かにその一面はあると思います。いつ主人が帰ってきてもよいように、いつでも用意しておかないと、とんでもないことになってしまう、そのことをイエス様は言われているのでしょう。
 しかしもう一方で、イエス様はわたしたちに希望も与えてくれているのではないかと思うのです。降臨節という期節にこの箇所を読むときに、イエス様が「じきにわたしは来る。喜びをもって待っていなさい」と言われているように感じるのです。
 わたしたちはイエス様から仕事を割り当てられ、責任を持たせていただきました。責任を持たすという言葉は、権威を委ねるという意味だそうです。わたしたちキリスト者はすべて、イエス様の弟子です。そのわたしたち一人一人が喜びをもって、主のみ業をおこなうことをイエス様は命じておられます。その時に、わたしたちは目を覚まし、再び来られるイエス様を迎え入れることができるのです。

11月23日 降臨節前主日(マタイ25:31〜46) ―印刷用PDFはこちら

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そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
(マタイによる福音書25章40節)

 本日は教会の暦で降臨節前主日、来週から降臨節に入りますので、教会の中の一年サイクルの最終週となります。また聖書箇所を見ても、今日の箇所マタイ福音書25章31節から46節は、26章、27章の十字架の場面へと続く前の、最後のイエス様の教えでもあるのです。
 イエス様が十字架の直前に弟子たちに告げられたこと、それはこういうことでした。人の子が栄光の座に着いたとき、すべての国の民は右と左に分けられる。そして右側にいる人には「国を受け継ぎなさい」と言い、また左側にいる人たちには「悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われるわけです。
 右側と左側、どうしてそのように分けられてしまったのか、その理由こそが、イエス様が十字架に向かわれる前に言わなければならなかった、いわばイエス様の教えの一番大切な所ではないかと思います。
 人の子、これはイエス様を指している言葉ですが、イエス様が再び来られる時、人々は羊飼いが羊と山羊とを分けるように、二つに分けていきます。そのポイントは、「最も小さい者の一人」に何かをしたかということです。
 右側の人たちは、飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねたといいます。しかし彼らは、自分たちがそのようなことをしたとは思っていなかった。「最も小さな者」がイエス様であるとは知らなかったということもあるでしょう。それに彼らがおこなった業の一つ一つは、彼らにとって何でもない行為、自分でさえ忘れてしまっているような日常的なものだったのかもしれません。
 しかし、イエス様はそこに目を向け、わたしたちのちっぽけな業を重く受け止めてくださいます。特別な行為ではなく、わたしたちが他の人を大切にすることを、イエス様は喜ばれるのです。その「最も小さい者」こそが「わたし」であると、イエス様は言われるのです。
 同時にわたしたち自身も、「最も小さい者」の一人であることにも気づかされます。飢え、渇き、一人で歩くことが出来ないわたしたちのために、イエス様は来てくださいました。それはわたしたちを食べさせ、渇きをいやし、共にいて下さるためなのです。

11月16日 聖霊降臨後第22主日
(マタイ25:14〜15、19〜29) 
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さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
(マタイによる福音書25章28節)

 「天の国はまた次のようにたとえられる」、イエス様は語られます。主人がしもべたちにそれぞれの力に応じて、5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けて旅行に出かけたという話です。
 タラントンとは通貨の単位ですが、数字だけを見ますと、それほど大きい額ではないように思えます。ところが実際は、1タラントンとは当時の日当6000日分に当たる、たいへんな額なのです。仮に1日の日当を1万円だと考えますと、1タラントンは6000万円、5タラントンだと3億円という額を、主人はしもべに預けて旅行に出かけたというのです。
 聞いていた人たちは、そんなことがあるのだろうかと首をかしげたことでしょう。でもそれが、天の国です。それだけの財産を預けるのは神さま、そして預かるのはわたしたちなのです。
 タラントンという言葉は、英語のタレントの元になった言葉です。タレントは生まれ持った才能や技量という意味です。すなわち、わたしたち一人一人が神さまから与えられる贈り物、「賜物」のことです。
 5タラントン、2タラントンを預かった人たちは、主人にために商売をしてその財産を倍に増やしました。自分が豊かになるためではなく、主人のために働いたのです。しかし1タラントンのしもべは違いました。驚くほどの額を預けられた彼は、損失を出してしまったらどうなるのか考えてしまったのかもしれません。厳しい主人に恐れをなして、その財産を用いなかった。彼は主人のために何かをしようという思いを持たずに、自分のことだけを守ろうとしたのです。その結果、彼は全てを取り上げられ、外へと追い出されるのです。
 わたしたちは神さまからたくさんの賜物をいただいています。あらゆる才能や特技だけではなく、優しさや愛、微笑みや人を大切に思う心など、一つ一つ挙げていけば書ききれないほどです。でもわたしたちは時に、その賜物を自分の心の奥深くに隠してしまい、ただ自分のためにだけ生きていこうとするのではないでしょうか。
 神さまは待っておられます。あなたが受け取ったたくさんのタラントンを、神さまのために用いることを。神さまから頂いた多くの愛を、隣にいる人たちと分かち合い、さらに愛であふれさせることを。

11月9日 聖霊降臨後第22主日(マタイ25:1〜13) ―印刷用PDFはこちら

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だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
(マタイによる福音書25章13節)

 天の国は次のようにたとえられる。そのようにイエス様は語り始めます。あるところで結婚式がありました。10人のおとめたちは、花婿が来るのを待っていました。10人のうちの5人の賢いおとめたちは予備の油を用意していましたが、5人の愚かなおとめたちは、油を用意していませんでした。
 花婿はなかなか来ません。10人は待ちくたびれて、眠ってしまいます。そして花婿が真夜中に来たときに、迎えに出ようとして、愚かなおとめたちは自分たちの油が足りないことに気が付きます。そして賢いおとめたちに油を分けて欲しいと頼むのですが、断られ、油を用意している間に、婚宴の席の扉は閉められていたというたとえです。
 天の国は次のようにたとえられる。そのような言葉からこのたとえははじまります。とすると、10人のおとめにたとえられる人々が待っていたのは、天の国ということになるのかもしれません。しかし、準備のできていなかった人は婚宴の席に、つまり天の国に入ることができませんでした。つまりみんなが招かれていたとしても、すべての人が選ばれるのではないということを言っているのです。
 イエス様がこのたとえを、わたしたちに対して語られます。あなたたちも賢いおとめのようになるように、油を用意して待つようにと促されているのです。
 ここで出てくる「賢い」という言葉ですが、この語には「来たるべきものに対し、目を開いている人」というニュアンスもあるそうです。賢いおとめたちも花婿が来るまで眠っていました。しかしやがて来るであろう方に対して、心の目を開いて備えていた。これが目を覚ましているということなのです。肉体的なことではなく、心を備えるということです。
 賢いおとめは、ともし火の火が消えないようにと、油を用意していました。わたしたちにとって、この油とは一体何なのでしょう。
 わたしは思います。わたしたちが備えるようにとイエス様が命じるこの油とは、愛であると。わたしたちが愛をもって行動し、今、苦しみ悲しみの内にある人のことを大切に思う。その行為こそが、わたしたちのともし火を燃やし続ける油なのです。
 愛を身にまとうとは、イエス様に倣い、イエス様に聞き従って神さまの意志を行なうことです。そのことによって、わたしたちは備え、目を覚ましていることができるのです。

11月2日 聖霊降臨後第21主日(マタイ23:1〜12) ―印刷用PDFはこちら

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あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
(マタイによる福音書23章11〜12節)

 イエス様は神殿の境内で語り続けます。群衆や弟子たちに対して語るイエス様のその姿は、マタイ福音書5〜7章にある山上の説教を思い起こします。しかし、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」から始まる山上の説教と、今日の箇所を含むマタイ23章では、語られている内容は全く違って聞こえます。
 イエス様が宣教の初めに語られた山上の説教とは違い、この23章で語られている内容は、非常に厳しいものになっています。十字架にかかられる直前にイエス様がこのように語られるのです。
 イエス様は、律法学者たちやファリサイ派の人々を批判していきます。わたしたちはこの言葉をどのような気持ちで聞くのでしょうか。「そうだ、そのとおり。ファリサイ派や律法学者は悔い改めないといけない」と、イエス様の側に立って、一緒に彼らを糾弾するのでしょうか。
 この場面ではイエス様は、律法学者やファリサイ派に対する批判を群衆や弟子たちに対しておこないました。それは何故でしょうか。ファリサイ派たちに向けられた批判は、実は彼らだけにとどまらない。群衆や弟子たち、そしてわたしたちだって、彼らファリサイ派たちと何ら変わらないからです。わたしたちが彼らのように高ぶり、彼らのように報いを受けようとする者だから、イエス様は十字架につけられる前に、これらの言葉を語らなければならなかったのではないでしょうか。
 「言うだけで、実行しない」、「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」、「そのすることは、すべて人に見せるため」、イエス様はこのように言われました。それは一体、誰のことを言っているのでしょうか。律法学者やファリサイ派に対してもそうでしょう。しかしわたしには、「あなたは」とわたしたち一人一人に対しても、イエス様は言われているように思えるのです。
 イエス様はこれから十字架へと向かわれます。「あなたがたは高ぶるな。わたしを見なさい」。自らを低くしてわたしたちのために十字架につけられたイエス様を見て、わたしたちも歩んでゆきたいと思います。

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