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ショートメッセージ2014年12月

12月28日 降誕後第1主日(ヨハネ1:1〜18) ―印刷用PDFはこちら

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言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
(ヨハネによる福音書1章14節)

 クリスマスおめでとうございます。本日読まれましたヨハネ福音書の1章1節から18節は、わたしたちに改めてイエス様のご降誕の喜びをかみしめさせる、そのような箇所ではないかと思います。
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」。そのように始まる今日の箇所には、「ことば」と「光」という二つの単語がちりばめられています。聖書が書かれた時代、この「ことば」をあらわすギリシア語「ロゴス」は、とても馴染み深いものだったそうです。例えば旧約聖書を見ていきますと、神さまは最初に「光あれ」と言われました。ただ言葉だけで、すべてが始まったのです。また、シナイ山に登ったモーセに対しても、神さまは言葉で十戒を授けました。神さまと言葉とは切り離すことのできないものでした。
 またこの冒頭部分ですが、単に福音書の書き出しというだけではなく、礼拝で用いたり、信仰を表明する時に唱えられていた「賛歌」でもあります。つまり、2000年前から神さまをたたえ、そのみ業に感謝し、与えられた豊かな愛を喜び歌うために用いられていたものです。
 福音書の冒頭部分として、また降誕日のすぐ後に、わたしたちはこのみ言葉に聞きます。言葉について、光について、語られていることが頭ですべて理解できなくてもいい。イエス様の出来事に触れ、暗闇にいるわたしたちを照らす方の存在に気づき、イエス様の十字架を見上げる時に、この賛歌を思い起こし、この賛歌を歌うようにと、促されています。そしてわたしたちがこの賛歌を唱える時に、わたしたちは自らの信仰を神さまの前で表わすのです。
 イエス様のご降誕、それは神の独り子であるイエス様が受肉し、人となられ、わたしたちの間に宿られたということです。なぜわたしたちの間に来られたのか、どのようにしてそのようなことがおこなわれたのか、それは大事ではありません。今、この聖書の箇所が伝えようとしていることは、イエス様が来られ、わたしたちと共におられるという真実だけなのです。
 この新しい一年、わたしたちには様々なことが起きるでしょう。でもその中において、いつもイエス様がおられ、わたしたちの間に生き続けておられるということを心から喜び、伝える者となりたいと思います。

12月21日 降臨節第4主日(ルカ1:26〜38) ―印刷用PDFはこちら

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すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
(ルカによる福音書1章30節)

 「恐れるな」、天使ガブリエルがイエス様の母マリアに語るこの言葉について、今週は考えてみたいと思います。
 子どもたちが幼稚園や保育園でページェント(キリスト降誕劇)をするのを見ていますと、劇の初めに、この場面は登場します。小さなマリアさんに向かって、羽根や両手をバタバタさせた天使が言うのです。「こわがることは、ありません」と。でも一体マリアは何を怖がるというのでしょうか、少し想像してみましょう。
 マリアには婚約者ヨセフがいました。しかし結婚はまだしておりません。結婚前の女性が妊娠したとしたら、大問題です。当時のユダヤでは姦淫罪に問われ、石打ちの刑に処せられるほど大変なことでした。もし、子どもを産んだとしても、出生のいきさつを知る人たちから、後ろ指を指され続けるでしょう。夫ヨセフに対する思い、社会的なこと、様々な要因が、マリアを恐れへと導いたと考えることができます。
 しかし、ここで用いられている「恐れる」は、不安に思うとか、身震いする、パニックになるという意味合いよりも、圧倒的な力を前にしたときに起こる心の変化をあらわしている語が使われています。つまりマリアは、神さまの使いである天使を見たことによって、またこれから天使が語る言葉によって、「恐れ」を抱くと考えられるのです。
 福音書をには、「恐れるな」という命令が、この場面の他にも数多く出てきます。天使の羊飼いたちに対するみ告げ、四人の漁師を弟子にした際、嵐を静めた時に、悪霊を追い出した場面で、そのイエス様の大いなる力を目撃した弟子や人々に対して、「恐れるな」と告げるのです。
 わたしたちは今、クリスマスを目前にしています。クリスマスは2000年前にあったイエス様のご降誕を記念する日ですが、同時にわたしたちの元にもイエス様が来てくださるのを待つ日でもあります。神さまのみ手はすでに、わたしたち一人一人のもとに伸ばされています。神さまがわたしたちを覚え、関わってくださる。とてもうれしいことです。しかし時には神さまの力に対して、恐れも抱くかもしれません。そのようなわたしたちに、イエス様は「恐れるな。ただ信じなさい」と語りかけてくださるのです。
 わたしたちがその呼びかけに応じ、イエス様を受け入れ、すべてを委ねることを、神さまは待っておられます。

12月14日 降臨節第3主日(ヨハネ1:6〜8、19〜28) ―印刷用PDFはこちら

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彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
(ヨハネによる福音書1章7節)

 降臨節第3主日になりました。今週はヨハネ福音書のみ言葉に耳を傾けたいと思います。今日の箇所には、洗礼者ヨハネが出て来ます。先週の福音書(マルコ1:1-8)にも洗礼者ヨハネが登場しました。聖公会では三年周期で福音書を読んでおりますが、どの年も、降臨節第2主日と第3主日には洗礼者ヨハネの出来事が語られます。それは、「主の道をまっすぐにする」という彼の役割と、わたしたちが降臨節の期間に自らの心を備えるという意味とが結びつくからだと思います。
 ところで、マタイ・マルコ・ルカのいわゆる共観福音書と、ヨハネ福音書とでは、洗礼者ヨハネの描き方はかなり違っています。ヨハネ福音書には、彼の風貌や彼が預言者エリヤの再来であるという記述、また先駆者としての位置づけなどは一切書かれておらず、証言者として報告されます。つまり、「イエス様について証しする者」としての役割や使命が強調されて書かれているのです。
 洗礼者ヨハネは問われます。「あなたはどなたですか」と。彼はキリストではありませんでした。彼は証しするために、光であるイエス様について証しするために、そしてすべての人がイエス様を信じるようになるために来たメッセンジャーでした。
 わたしたちは降臨節に、自分自身の心を整えます。その時にこの洗礼者ヨハネの物語が語られる意味は何でしょうか。聖書は何を語っているのでしょうか。わたしはこう思います。「あなたは一体、誰なのか。わたしを信じる者なのか。わたしを証しする者なのか」と、問われているのではないかと。
 わたしたちはイエス様の福音を、その良き知らせを多くの人に伝えるようにと促されています。洗礼者ヨハネと同じように、わたしたちもイエス様について証しするようにと命じられているのです。とても難しいことのように思えるかもしれません。でも、決してそうではないのですね。
 あなたは今まで、イエス様を救い主として信じたことで、自分が変えられたことはありませんか。あなたは毎日の生活の中で、神さまからお恵みを頂いていると感じたことはなかったでしょうか。それらのことを、あなたが神さまに感謝し、涙したその出来事を周りの人に伝え、分かち合うことが「証し」なのです。
 言葉で伝えることが出来なかったとしても、大丈夫です。今日読まれた使徒書、以下の言葉のように毎日を生きることが、イエス様を証しすることなのです。
 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。(テサロニケの信徒への手紙一 5章16〜18節)

12月7日 降臨節第2主日(マルコ1:1〜8) ―印刷用PDFはこちら

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神の子イエス・キリストの福音の初め。
(マルコによる福音書1章1節)

 降臨節も第2主日となりました。イエス様のご降誕を待ちわびる中で今日の聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。さて本日の聖書箇所は、マルコ福音書の最初、1章の1節から8節です。「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉と、それに続いて洗礼者ヨハネについて書かれています。
 マルコ福音書にはマタイ・ルカ福音書とは違い、イエス様の誕生物語が書かれていません。映画や聖劇、絵画などにある、家畜小屋で生まれたイエス様を、羊飼いや占星術の学者たちが礼拝しにくる光景は、マルコ福音書にはありません。さらにヨセフとマリアの出来事やイエス様の少年時代にいたるまで、この福音書は一切触れていないのです。
 マルコ福音書が伝えたかったこと、それは何なのでしょうか。マルコ福音書にとっての福音とはイエス様ご自身、その出来事が伝えなければならないことだったのです。
 さあ、キリストと呼ばれるイエスがもたらす福音(良き知らせ)が始まります。わたしたちはその幕が開く前に、心の備えをして待ちわびなければならないのです。
 洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。そしてイエス様はガリラヤで、「悔い改めて福音を信じなさい」との言葉によって、伝道を始めました。悔い改めという言葉がここに出てきます。悔い改めるとは一般的には自分の犯してしまった悪事や過失を悔いて善に向かっていくことですが、キリスト教の中ではそこには大きな意味があります。その意味とは、向きを変えること。心の向きを変えるということなのです。
 わたしたちは神さまから離れ、神さまのみ心に従うことが出来ずに生きてきました。そのことを聖書では「罪」と呼ぶのですが、神さまはそのような罪の中にいるわたしたちが、再び神さまの恵みの内に生きていくことができるように、イエス様をお遣わしになったのです。そしてわたしたちの罪を背負い、十字架へとイエス様は向かわれるのです。
 マルコ福音書はその冒頭で、わたしたちに伝えます。「さあ、イエス様の福音がはじまる。あなたたちは心を神さまに向け、その備えをしなさい」。心静かに、わたしたちはその時を待ちましょう。神さまはわたしたちが、心を備えながら神さまの喜ばれる愛の業をおこなうことを期待されています。

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