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ショートメッセージ2015年2月

2月22日 大斎節第1主日(マルコ1:9〜13) ―印刷用PDFはこちら

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イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
(マルコによる福音書1章13節)

 今日の場面、イエス様は洗礼を受け、荒れ野へと送り出されます。荒れ野と聞くと、みなさんはどういった場所を思い起こすでしょうか。荒れ野はイスラエルの人々にとって、特別な意味をもった場所でした。
 出エジプト記でモーセたちがエジプトから逃れ、さまよったのは荒れ野でした。その時に神さまはイスラエルの民に十戒を与え、イスラエルを自分の民とするという契約を結ばれました。また終末には、メシアは荒れ野にその民を導き出すと考えられていた、いわば希望の土地でもあったわけです。
 そこにイエス様は“霊”によって送り出されるのです。この“霊”ですが、このように前後に“”がついている場合には、「聖霊」、「神の霊」、「主の霊」が意味されています。つまりイエス様が荒れ野へ行ったのは、神さまの意志だったのです。
 聖書は語ります。イエス様は40日間、サタンから誘惑を受けられた、誘惑を受け続けられたことを。そしてそこには、野獣も一緒にいて、天使たちもイエス様に仕えていました。とても不思議な光景です。特に野獣と天使たちの存在が、わたしが今までこの荒れ野の誘惑の場面で描いていたイメージとは違うと感じるのです。
 わたしはこの場面をこのように想像していました。ゲッソリとやせ細ったイエス様に対し、意地悪そうなサタンがケタケタ甲高い声で笑いながら追い詰めていく。イエス様はそれでも、必死に力を振り絞りながら、サタンを退ける。でも今、わたしの心の中に出て来たイエス様は、野獣と共に安らぎ、天使たちと語り合う。その顔には笑顔まであふれていたように思い起こすことが出来たのですね。
 イエス様は荒れ野に行かれました。そこでは何がおこなわれたのか。イエス様がサタンに勝利された、それだけです。その結果、何がおこったのでしょう。そこには神の国があらわれたのです。イエス様によって神さまと人間との間に交わされた約束が成就され始めたのです。
 イエス様は荒れ野での誘惑のあと、ガリラヤに行き、人々に言われます。「時は満ち、神の国は近づいた」と。わたしたちは今、イエス様から呼びかけられています。荒れ野に来るように、わたしと共に神の国に来なさいと。
 わたしたちは今、荒れ野に導かれています。欲望や執着心、妬みなどの思いを抱えたままで、荒れ野に行けるのでしょうか。自分自身の心を荒れ野にしなければ、神さまに祈り、神さまと共に歩み、神さまによってのみ養われる、そうなろうと思わなければ、そのような者としてくださいと神さまに願わなければ、荒れ野へは行けないのかもしれません。すべてを神さまに委ね、導きのままに歩んで行きましょう。

2月15日 大斎節前主日(マルコ9:2〜9) ―印刷用PDFはこちら

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すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
(マルコによる福音書9章7節)

 今日は大斎節前主日です。教会の暦では、1月6日の顕現日以降、祭色が緑である顕現節が続きましたが、今週水曜日の大斎始日からは紫に替わり、大斎節が始まります。したがって、今日の主日は顕現節の最後であり、クライマックスといえます。
 さて、本日読まれた福音書の箇所は、イエス様の変容の記事です。マルコによる福音書を見ていきますと、この記事の少し前の場面でイエス様は弟子たちに、自分のことは何者だと言われているのかと尋ねます。弟子たちはそれぞれ「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、「預言者の一人」と答えていますが、それではあなたがたはどう思うのかという質問に対し、ペトロは答えます。「あなたはキリストです」と。
 しかしその直後に、イエス様はご自分の死と復活を予告します。さらにそのイエス様の言動をいさめるペトロに対し、「サタン、引き下がれ」と叱るのです。
 そしてその六日後に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登られた時に起こったのが、イエス様の変容でした。イエス様の姿が三人の目の前で変わり、服が真っ白に輝いたといいます。そして旧約の人物であるエリヤとモーセと語り合っていたのです。この場面、あなたはどのように感じますか。イエス様を通した神さまの顕現だと思いませんか。イエス様の真の姿を、彼らはすでに見たのです。
 ペトロは言います。「仮小屋を三つ建てましょう」と。仮小屋に住んでいただき、そこに留まってもらおう。ここに神の国にしよう。そのような思いがあったのかもしれません。しかし雲の中から声がします。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。
 わたしたちは大斎節に入る前に、このみことばに聞きます。イエス様は高い山で栄光をあらわしました。しかしその状態にありつづけることは神さまのみ心ではなかった。イエス様は弟子たちと一緒に山を下り、人々の間に住まわれ、十字架の死へと向かっていかれたのです。その道を、わたしたちはこの大斎節の間に、共に歩んで行くのです。
 「聞く」というギリシア語には、「聞いて従う」という意味があるそうです。イエス様がどのように十字架に向かっていかれたのか。白く輝いていたイエス様は、わたしたちの間で、よごれ、ドロドロになりながら、歩まれました。そして十字架の上で、その身は真っ赤な血に染まりました。そのイエス様の歩みを思い起こしましょう。なぜイエス様がそのように歩まれたのか、その意味を深く心に刻むのです。

2月8日 顕現後第5主日(マルコ1:29〜39) ―印刷用PDFはこちら

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イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
(マルコによる福音書1章38節)

 わたしたちは今、イエス様の姿を追っています。イエス様が何をなされたのか、どんな人々と関わり、どのように福音を伝えていかれたのか、わたしたちはその一つ一つの業を聞き、自分たちは一体どこに立てばよいのか、知りたいと願っています。
 今日の箇所を読んでいくと、イエス様はまず、シモンのしゅうとめをいやします。熱を出していた彼女の手を取り、起こされました。さらに日が沈むと、病人や悪霊に取りつかれた人々は皆、イエス様の元へと連れてこられます。町中の人が家の戸口に集まったわけです。
 イエス様に会いさえすれば何とかなる。病気で苦しい体も、悪霊に取りつかれ自由のきかないこの身も、イエス様だったら何とかしてくれる。その思いが彼らを動かしたのでしょう。そしてイエス様はその一人ひとりと向き合い、いやされたのだと思います。
 もしわたしが、シモンだったとしたら、イエス様にいつまでもいてほしいと願ったかもしれません。自分の家にずっといて、訪ねてくる人たちをいやすようにと、言っただろうと思います。
 しかし一夜が明けたころ、まだ暗いうちにイエス様は人里離れた所に行き、祈られます。人里離れた所というのは、他の箇所では荒れ野と訳されている語でもあります。サタンから誘惑をうけたところでもありますが、神さまと対話できる場所、イエス様が祈り求める場所でもあったのです。
 「みんながさがしています」、そのように言うシモンたちに、イエス様は言われます。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と。そしてイエス様は、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されます。イエス様は一つのところにとどまらずに、自ら探された。今自分を必要としている人を探し、その元と行かれた、それが神さまのみ心でした。
 弱くされた人、小さくされた人、社会の中からのけ者にされた人、自分の力では一歩も歩けない、その人の所へ、イエス様は足を運ばれ、声を掛け、手を差し伸べていかれます。そしてその先には、わたしたち一人一人の姿もあるのです。
 イエス様に起こされたわたしたちは、その恵みにどのように応答すればよいのでしょうか。イエス様はさらに言われます。わたしについてきなさい。わたしに従いなさい。わたしは弱くされた人の所にいる。小さくされた人と共にいる。だからあなたもわたしと共にいなさいと。

2月1日 顕現後第4主日(マルコ1:21〜28) ―印刷用PDFはこちら

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人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
(マルコによる福音書1章27節)

 イエス様は四人の漁師を弟子とした後、カファルナウムへと行きました。カファルナウムとはガリラヤ湖畔の町です。当時の宗教の中心地であるエルサレムではなく、湖のほとりの町へと行かれたのです。宗教指導者やエリート層の中にではなく、民衆の中に自らを置かれたイエス様の姿を見ることができます。
 イエス様はその地で、安息日ごとに人々に教えました。この当時、教師といわれる人たちは、過去の教師の教えを引き合いに出し、自分の考えを正当化するという方法で、民衆に語っていました。しかしイエス様は違ったのです。例えばマタイ福音書5章21〜22節にはこのようなイエス様の言葉が記されています。
 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
 このようにイエス様は、自分自身の言葉で、自分自身の権威において語られました。そのことがまず、人々を驚かせました。そして福音書は、さらに続けます。
 会堂にいた、汚れた霊に取りつかれた男に対して、イエス様は「悪霊退治」をおこないます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」との言葉のあと、汚れた霊に取りつかれた男は言います。「正体は分かっている。神の聖者だ」と。
 イエス様の正体を知っていた汚れた霊を、イエス様は男の元から去らせます。もしわたしたちがその場にいたら、なんと叫ぶでしょうか。「すごいことが起こった。彼は奇跡をおこなった。素晴らしい癒し人だ」。しかしイエス様の周りにいた人々はこのように言い合いました。「権威ある新しい教えだ」。
 とても違和感のある書き方ではないでしょうか。イエス様は行いをもって癒されました。ところがそれこそが「新しい教え」なのだと福音書は伝えるのです。
 イエス様は単なる奇跡行為者ではありませんでした。神さまから離れていたわたしたちを、ご自身の教えを通して再び神さまに出会わせたい、そのためにイエス様は働き、そして十字架へと向かわれました。その業一つ一つが、わたしたちに対して語られる「新しい教え」なのです。
 これからもわたしたちはイエス様がどこに立ち、何をなされたのか、聖書から聞いていきます。その一つ一つの出来事は、単なる物語ではありません。あなたに対して語られる新しい教えなのです。

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