本文へスキップ

TEL. 075-611-2790

〒612-8039 京都市伏見区御香宮門前町184



ショートメッセージ2015年3月

3月29日 復活前主日(マルコ15:1〜39) ―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
(マルコによる福音書15章39節)

 教会の暦では、今日は復活前主日です。イエス様が十字架へと向かわれる道行きを心に留めながら、この週を過ごしていきたいと思います。
 本日の福音書の箇所は、とても長いです。わたしたちの教会の礼拝では、選択可能だった部分(マルコ14:32〜72および15:40〜47)も含めて朗読されました。
 イエス様がゲツセマネで祈られた場面から、ユダの裏切りによって逮捕された場面、そして最高法院で判決を受けたイエス様。その中でイエス様を知らないと三度否認するどころか呪いの言葉さえ口にするペトロ。
 その後イエス様は、ピラトの尋問を受け、死刑の判決を受けた後、兵士たちから侮辱され、十字架につけられます。一つ一つの出来事は、これまでも聖書を通して読んできたはずでした。映画などを見て知っていたはずでした。しかし礼拝の中で、すべての場面を通して朗読された時に、わたしの心の中に、大きな声がこだまするように聞こえてきました。
 その声はわたしに言うのです。「イエスを裏切ったのはあなただ」、「イエスを知らないと否定したのはあなただ」、「イエスを十字架につけたのはあなただ」。
 わたしは福音書朗読を聞きながら、涙を流していました。イエス様が可哀そうというわけではない。悲惨な情景を思い浮かべたからでもない。2000年前の出来事に自分が関係している、その事実が深く胸に刺さって来たのです。
 そしてわたしの心は、先日見たある映画の一場面に向かっていました。それは「パッション」という2004年の映画です。二年前にDVDを購入したのですがなかなか見る決心がつかず、今年になってようやく見ることができました。その最後の場面、イエス様が十字架の上で息を引き取られた時に、天から一粒の滴が地上に落ちてくるのです。雨粒の一つだと見ることもできますが、わたしには、その粒が神さまの涙のように感じられました。独り子であるイエス様が、苦しみの内に息を引き取られるその時に、神さまが大粒の涙を流された、そのように感じたのです。
 わたしたちは弱い者です。イエス様のことを裏切り、見捨て、そして十字架につけてしまうのです。それでも神さまは、そんなわたしたちのためにイエス様を遣わしてくださった。そんなわたしたちだからこそ、イエス様を与えてくださったのです。
 この一週間、イエス様の十字架を思い起こしましょう。イエス様がなぜわたしたちのために苦しみを受けられたのか、考えていきたいと思います。

3月22日 大斎節第5主日(ヨハネ12:20〜33) ―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
(ヨハネによる福音書12章24節)

 わたしたちがイエス様に会うとはどういうことなのでしょう。今日の箇所の中で、ギリシア人はイエス様に会いたいと願います。イエス様に会うこと、それは地上にいるイエス様の元に行き、イエス様と会話し、イエス様と一緒に歩くことだったのかもしれません。しかしイエス様はそのようなギリシア人に言われます。
 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と。「はっきり言っておく」、この言葉は原語のギリシア語では、「アーメン、アーメン」と二度繰り返す言葉です。「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」。その言葉の意味は、「今から言うことをしっかりと聞きなさい。あなたたちはこのことを、忘れないようにしなさい」、そういうことなのだろうと思います。そしてイエス様が語られた言葉、それが一粒の麦のたとえです。
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。イエス様はわたしたちに伝えます。ご自分が一体何のために来られたのかを。それは、わたしたちが実を結ぶことができるように、ご自身が死ぬということなのです。これから訪れるイエス様の十字架の死は、わたしたち一人一人のためのものだということをこのたとえを通して告げられます。イエス様の十字架の意味を知り、イエス様を心から受け入れることで、わたしたちはイエス様と出会うことができるのです。
 イエス様は約束を告げます。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と。この「引き寄せる」という言葉。どういうイメージを思い浮かべますか。ある説教者は、これはマグネットのパワーだと言いました。
 上に持っている磁石をイエス様、下に置いている磁石を自分だと思いながら、上の磁石、イエス様磁石を上下に動かしていました。いくら近づけてもくっつきません。反発しあう極どうしだったのです。「この下にある磁石をひっくり返せば、上の磁石とくっつくのになあ」と思いつつ、すこしだけ下の磁石の端っこを持ちあげてみました。すると「くるん」と上の磁石に吸い付けられました。下の磁石が完全に上を向く前に、上を向こうと少し傾いただけで、上の磁石が引き寄せてくれる。
 わたしたちが完全な人間にならないと、イエス様は引き寄せてくれないのか。そうではないのです。わたしたちが自分の罪を認め、一粒の麦となって死んでくださったイエス様を救い主と信じ、認めたときに、そして神さまに心を向けようとその身を委ねたその時に、イエス様は罪深いままのわたしたちを、引き寄せてくださるのです。

3月15日 大斎節第4主日(ヨハネ6:4〜15) ―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。
(ヨハネによる福音書6章9節)

 今日の福音書は、「5000人の供食」と呼ばれる箇所です。5つのパンと2匹の魚が、男だけでも5000人いた群衆を満腹させたこの奇跡物語は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネすべての福音書に登場します。さらにマタイとマルコには4000人に対してパンと魚を与えられた物語も別に書かれており、人々にとってこの出来事は大変重要なものであったことがわかります。
 しかし、今週取り上げるヨハネ福音書を見ていきますと、他の福音書にはない記述がみられます。まずパンと魚を持ってきたのは「少年」であるということ。そしてパンは「大麦」でできたものであるということです。
 まず「少年」という言葉に目を向けてみましょう。彼はなぜイエス様の話を聞きにきていたのでしょうか。親について来たのか、あるいは誰かの奴隷だったのか、何も書かれてはいません。しかしこの当時、彼のような少年や女性たちは、人数を数える際に数の内に入っていませんでした。つまりこの場面、5000人いたとありますが、それは大人の男の人の数で、女性や子どもはその中に含まれなかったのです。
 また「大麦」のパンですが。このパンは非常時にこそ食用として用いますが、普通は家畜用に使われていたものです。イエス様のもとに来た少年は数の内にも入っていないちっぽけな存在だったし、その手のパンは普段食べられることのない、貧しい物だったのです。
 この物語を読むときに、わたしははっとさせられます。わたしたちは神さまのために何かをする時、躊躇してしまうことはないでしょうか。こんなわたしでいいのだろうか。わたしにはこれだけのものしかないのに。でもイエス様は少年が持っていた大麦パンを用いられました。ちっぽけな存在が差し出したわずかなものを、5000人の人々が満腹になるものへと変えられたのです。わたしたちが心からささげるものを、イエス様は祝福し、用いてくださるのです。
 聖公会の聖歌集の中に、次のような歌があります。
    子どものささげる わずかの糧 イエス受けて祝し 分かちませば
    あまたの人々 食べてあまり 神のみ力は あらわれたり
 この聖歌508番を歌うときには、イエス様がわたしたちを用いてくださることを覚えましょう。イエス様はあなたが、イエス様の元に進み出ることを待っておられます。

3月8日 大斎節第3主日(ヨハネ2:13〜22) ―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
(ヨハネによる福音書2章22節)

 本日の箇所は、新共同訳聖書では「神殿から商人を追い出す」という小見出しがついています。ヨハネ福音書の記者は、イエス様が地上での活動の終盤におこなったと思われるこの出来事を、福音書の前半にもってきています。そこにはどのようなメッセージがこめられているのでしょうか。
 この福音書記者は、イエス様がおこなった一つ一つのことが、一体自分たちにとって何の意味があったのかを考えながら、福音書を書いていきました。著者はイエス様の行いを描くことを通して、現代に生きるわたしたちにメッセージを伝えているのです。
 今日の場面、イエス様は犠牲の動物を売る人たちと両替をする人に対し、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言います。他の福音書に書かれた「わたしの家は祈りの家でなければならないと書いてあるのに、あなたたちは強盗の巣にしてしまった」という批判とは少し違います。ヨハネ福音書では神殿で商売をしている人たちにではなく、神殿そのものの在り方に対する非難が強調されているのです。
 ヨハネ福音書が書かれた頃には、エルサレム神殿はすでに崩壊していました。経済の、そして社会の中心であった場所、さらにユダヤ人にとって祭儀礼拝の場所であり、心のよりどころであった神殿はもうありませんでした。その中で福音書記者はイエス様の行いを思い起こします。そして気づくのです。イエス様が犠牲のための動物をすべて追い出されたのは、エルサレム神殿の役割が終わったことの宣言であったということを。
 神殿、そしてそこでささげられる犠牲が、イエス様が来られたことによって、必要なくなったのです。それはなぜでしょうか。全人類のために、ただ一度ささげられる犠牲が与えられたからです。それが十字架にかけられたイエス様なのです。
 神さまはイエス様を遣わされました。それは神さまがわたしたち一人一人を愛しておられるからです。わたしたちが一人として滅びるのを良しとされなかったからです。神殿がなくても、イエス様がわたしたちの贖いとなり、神さまとの正しい関係に導いてくださる。そのことが、わたしたちにとって大事なことだということを、この福音書は強く伝えたい、だから福音書記者はこの物語を2章に書いたのです。
 わたしたちは思い起こすのです。この聖書のみ言葉によって、なぜイエス様がこの地に来られたのかを。どうして十字架につけられ、三日目に復活されたのかを。それはまぎれもなく、わたしたち一人一人のためなのです。わたしたちを愛するために、受難の道を進まれたイエス様の歩みを、深く胸に刻みたいと思います。

3月1日 大斎節第2主日(マルコ8:31〜38) ―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
(マルコによる福音書8章33節)

 「サタン、引き下がれ」。イエス様はとても厳しい言葉をペトロに告げられます。8章の27節から30節、つまりこの箇所の直前で、ペトロはイエス様と会話していました。イエス様に「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞かれ、ペトロは「あなたは、メシア(原文ではキリスト)です」と答えました。つまりペトロは信仰を言い表したのです。その時にイエス様は、弟子たちに自分のことを誰にも話さないようにと戒められました。
 そして今日の場面に入ります。イエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とペトロを含む弟子たちに語り始めたのです。ペトロは驚いて、イエス様を脇に連れていさめました。
 ペトロのこの時の心境はどうだったのでしょうか。なぜこのような行動を起こしたのでしょうか。彼にとって、「キリスト」とは何だったのでしょうか。その答えはイエス様の言葉に出てきます。
 「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。ペトロよ、あなたは本当にわたしのことが分かっているのか、あなたが大切に思い、大事にしようとしているのは、あなた自身であって神さまではない。その言葉は、そのままわたしたちの胸にも響いてきます。
 わたしたちにとって、神さまとはどういうお方でしょう。自分たちの都合の良いように助けてくださるスーパーマンですか。わたしたちの祈りだけを聞いてくださる便利なお方ですか。
 「わたしとわたしの言葉を恥じる者」とイエス様は言われます。「恥じる」という言葉は初代教会の信仰告白の用語として、特別な意味を持っていたそうです。「わたしとわたしの言葉を恥じる」とは人々がイエス様から離れてしまう、その教えからも離れていくことを示します。イエス様と共に歩む道から離れ歩むこと、それが「神のことを思わず、人間のことを思う」歩みなのです。
 ペトロはイエス様を三度も否認しました。わたしたちも何度、イエス様に背を向けたでしょうか。それでも何度でも、そのようなわたしたちにイエス様は語りかけます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。わたしたちの応答をイエス様は待っておられます。

バナースペース

日本聖公会 桃山基督教会

〒612-8039
京都市伏見区御香宮門前町184

TEL 075-611-2790
FAX 075-611-2790