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ショートメッセージ2015年4月

4月26日 復活節第4主日(ヨハネ10:11〜16) ―印刷用PDFはこちら

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わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
(ヨハネによる福音書10章11節)

 羊という動物は、耳はとてもよく、目も視野は300度くらいあり、首を動かさずに後ろの様子がわかるそうです。しかし奥行きを認識することが難しく、影や地面のくぼみがあると動けなくなってしまうこともあるということです。
 また集団で行動したがる性質もあり、群れからはぐれてしまうととても強いストレスを感じるようです。また、先導するものについていく性質もあるそうです。でもびっくりして逃げてしまった羊がいるとみんな一緒に逃げてしまうので、熟練した羊飼いでないと、しっかりと群れを導くことが難しいそうです。
 こうして羊の姿を思い起こした時に、その羊の姿と自分自身の姿とが重なって見えてしまいます。
 少しの暗がりや、ちょっとしたくぼみを感じただけで、足がすくんで動けない。一人でいることが辛く、寂しい思いをしたくない。周りに流され、自分で思う道を歩けない。自分がこのような羊であることに気づかされ、今、どうして良いのかわからないと感じているのは、きっとわたしだけではないと思います。
 イエス様は言われます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と。イエス様はご自分の命を捨てられます。ちっぽけな羊のために。自分たちでは何もできない、歩くことすらできずに、孤独におびえ、ブルブルと震えている羊たち、いや、わたしたちのために、命を捨てられるのです。
 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。命を捨てる、この言葉を聞く時に、思い起こすのは、十字架のイエス様です。羊たちのために命を投げ打つ、その羊飼いはわたしたちを贖うために十字架につけられたイエス様なのです。
 イエス様は十字架につけられました。命を捨てられました。それは何故か。今日の箇所の1節まえ、ヨハネ10章10節にこうあります。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と。
 羊飼いであるイエス様はわたしたち一人ひとりを集め、守り、導きます。そしてわたしたちに命を与えられるのです。イエス様の十字架は死では終わりませんでした。復活されて、わたしはあなたがたといつでも、どこでも、どんなときでも共にいるということを、そしていつまでもあなたがたの羊飼いとして、あなたがたを憩わせると約束してくださるのです。
 そしてわたしたちは羊飼いであるイエス様を知るようにと促されます。イエス様の言葉を、聖書を通して、祈りを通して、イエス様に愛されている周りの人たちを通して、わたしたちは耳を澄まし聞くのです。

4月19日 復活節第3主日(ルカ24:36〜48) ―印刷用PDFはこちら

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そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
(ルカによる福音書24章45〜46節)

 この復活節、わたしたちはイエス様の復活の出来事を思い起こしていきます。聖書にはイエス様の復活の場面が、さまざまな形で報告されています。そして今回のルカ福音書では、イエス様が弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われます。そしてさらに、焼いた魚まで食べられるのです。
 この状況、想像できるでしょうか。復活のイエス様が自分たちの前に現れたことを、喜びがあまりに大きくて信じられなかった弟子たち。その弟子たちが理解するようにとイエス様が取られた行動が、「魚を食べる」というものだったのです。
 魚を食べるイエス様を見た弟子たち。非常に不自然にも思えますが、聖書を読んでいくと、イエス様が食事をする場面が実に多く出てくること気づかされます。
 徴税人や罪人と共に飲んだり食べたりし、また食事の場面で罪深い女性を赦すイエス様。男だけで五千人もいた人を五つのパンと二匹の魚で満腹させ、弟子たちと共に過越の食事をする。
 復活したイエス様は弟子たちの目を開くために、魚を食べられました。ルカ福音書にはこの場面より少し前の24章13〜35節に、イエス様がエマオで現れる場面が描かれています。そこでも弟子たちの目が開かれるのですが、その時もイエス様は食事の席に着き、パンを裂かれ、渡されました。
 つまり食事の場面によって、イエス様の受難と十字架、そして復活の意味が理解できる、イエス様と食卓を囲むことによって、復活のイエス様が自分たちに関わってくださる、聖書の言葉が実現するということを、知るのです。
 わたしたちは今も、主日ごとにイエス様の復活を記念します。聖餐式において、聖書の中で様々な人たちと食卓を囲まれたイエス様が、今、わたしたちのために食卓を用意してくださっていることを覚えるのです。パンを食べ、杯から飲むときに、わたしたちの心の目は開かれ、イエス様がわたしたち一人一人に罪の赦しを得させるために、今も働いておられることを知ります。
 わたしたちは「あなたがたはこれらのことの証人となる」というイエス様の言葉を噛みしめながら、イエス様との交わりに加わり続けていきましょう。

4月12日 復活節第2主日(ヨハネ20:19〜31) ―印刷用PDFはこちら

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それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
(ヨハネによる福音書20章27節)

 今日の箇所の最後に、このような言葉があります。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。
 あなたがた、それはヨハネ福音書を読みイエス様のみ言葉に耳を傾けるすべての人たちです。つまりわたしたちのことでもあります。わたしたち一人一人がイエス様を信じ、命を受けるため、生かされるためにこの書は書かれたのです。そしてトマスの物語はわたしたちが主の復活を信じ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白するようにと書かれたのです。
 今ここにも、イエス様はおられます。そしてわたしたちの真ん中で、「あなたがたに平和があるように」と言われるのです。新共同訳聖書の訳では何だか穏やかなニュアンスを感じますが、以前使っていました聖書、口語訳聖書では「安かれ!」と一言でした。また別の訳では、「平安、汝らと共にあれ!」となっています。命令されるのですね。イエス様は、鍵を閉め、閉じこもってガタガタ震えているわたしたちの心を知って、「静まれ」と真ん中に立って叫んでくださる。舟の上で嵐を静められたように、わたしたちに「大丈夫、わたしがいる」と宣言してくださるのです。
 そして手と脇腹を見せられます。そこには何があるのでしょうか。それは十字架のしるしです。イエス様はわたしたちに、ご自身がわたしたちのために十字架につけられたという事実を見せられるのです。その真実に触れた時に、わたしたちは信じる者へと変えられていくのです。たとえイエス様を肉眼で見ることはできなくても、イエス様を知り、イエス様を信じる者へとされていくのです。
 弟子たちの前にイエス様があらわれたのは復活の日の夕方でした。そしてトマスにあらわれたのは八日の後のこと、この出来事はこれで終わったのでしょうか。わたしはそうではないと思います。その八日後に、また新たなトマスがやって来たでしょう。そして俺は見ていない、だから信じないと言ったかもしれません。でもその人にも、イエス様は手を伸ばされます。そしてその八日の後も、また八日の後も。
 八日の後、それはずっとやってくる日曜日です。主日です。わたしたちは主日ごとにイエス様の復活を祝います。イエス様がわたしたちのために十字架につけられたことを覚え、イエス様の肉と血であるパンとぶどう酒をいただきます。
 わたしたちは信じる者となりましょう。イエス様がわたしたちと共にいて下さることに、感謝をささげましょう。
 ガリラヤのイエス様に出会うにはどうしたらよいのでしょうか。聖書に立ち返りましょう。聖書のみ言葉に立ち返り、イエス様のみ跡を進んでいく。その時にわたしたちは復活のイエス様とお会いできるのです。

4月5日 復活日(マルコ16:1〜8) ―印刷用PDFはこちら

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婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
(マルコによる福音書16章8節)

 イエス様が十字架の上で息を引き取られて墓に葬られた後、女性たちは墓を遠くから見つめていました。そして安息日が終わり、彼女たちは急いでイエス様の遺体に油を塗るために香料を買います。そして朝早くに墓へと向かうのです。
 ドラマや小説だったら、どのような結末になるでしょうか。お墓の前でイエス様がにっこり笑い、駆け寄って来た女性たちを抱きしめる、そのようなハッピーエンドだととてもうれしく思います。
 しかし、マルコ福音書では違うのですね。聖書を開けてみますと今日の箇所、16章8節以降にも続きが書いてあります。新共同訳聖書では9節以降を「結び一」「結び二」としていますが、すべて〔 〕の中に入れています。これらの箇所は後代の加筆であるというのが定説であるため、このように書かれているそうです。
 ともかく、マルコ福音書は16章8節の、婦人たちが逃げ去り、震え上がり、正気を失っていた描写で終わっているのです。これはわたしたちにどのようなメッセージを与えるのでしょう。
 この場面だけを読むと、復活のイエス様は女性たちの前に現れてはいません。白い長い衣を着た若者が座り、イエス様がここにはいないということだけを告げるのです。
 とても不安な終わり方です。期待した結末ではなく、ハッピーエンドなどとてもではないが言えないものです。だから後の時代になって「結び」を加筆しなければ安心しなかったのかもしれません。
 しかしマルコ福音書を通して、聖書はわたしたちに語るのです。そこにはイエス様不在の墓があるだけで、女性たちは誰にも何も言えなかったということを。
 イエス様はどこに行ってしまったのでしょうか。どこに行ったらお会いできるのでしょうか。白い長い衣を着た若者は言います。「あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる」と。
 ガリラヤ、そこはイエス様が教えを宣べ、病の人をいやし、苦しむ人たち、悲しむ人々と共に歩んだ場所でした。その場所へと彼女たちも、弟子たちも、そしてわたしたちも向かうようにと促されているのです。
 ガリラヤのイエス様に出会うにはどうしたらよいのでしょうか。聖書に立ち返りましょう。聖書のみ言葉に立ち返り、イエス様のみ跡を進んでいく。その時にわたしたちは復活のイエス様とお会いできるのです。

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