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ショートメッセージ2015年5月

5月31日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(ヨハネ3:1〜16)―印刷用PDFはこちら

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イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
(ヨハネによる福音書3章3節)

 今日は、ニコデモという人物とイエス様との会話が出てきます。ニコデモは、イエス様の弟子ではなく、ユダヤ人たちの議員でファリサイ派に属していました。
 ファリサイ派の人たちは、神さまから与えられた律法を忠実に守ろうとしていました。そして律法を解釈していき、たくさんの禁止事項を細かく定めていきました。例えば安息日にこれだけ以上は歩いてはいけないとか、このような行為はしてはいけない、などというように。
 その自らを敬虔な人と考えていたと思われるニコデモが、イエス様に会いに来るのです。聖書の中にはファリサイ派の人とイエス様との問答が多く報告されています。そしてほとんどの場面で、両者はあたかも敵対関係のように思われます。しかしここでのニコデモとイエス様との会話は少し様子が違うようです。
 ニコデモは夜にイエス様の元に行きます。この情景を思い浮かべてみましょう。真っ暗な中、わずかな光をたよりにイエス様の元にやって来るニコデモ。昼間はイエス様の周りに大勢いた群衆も、ほとんどいません。弟子たちは寝床の準備や食事の片づけで、動き回っています。イエス様はたった一人でいたのかもしれません。ニコデモは多分、人目をはばかってイエス様の所に来たのでしょう。それは何故でしょうか。ニコデモは知っていたのです。イエス様が神さまの元から来られ、神さまと共にいる方だということを。
 そのイエス様に教えを乞うことが、仲間の手前、できなかったのでしょう。しかし彼は、イエス様に会わずにはおられなかったのです。
 そのニコデモに、イエス様は言われます。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。新たに生まれる。そのことがニコデモにはわかりませんでした。わたしたちもそうです。新たに生まれることなど、できるのだろうかと思ってしまうのです。
 しかし聖書は報告します。イエス様にお会いしたことで、変えられたニコデモの姿を。イエス様を裁こうとするユダヤ人を批判し、十字架上で息を引き取られたイエス様の葬りをおこなうニコデモの姿を、聖書はわたしたちに伝えるのです。
 わたしたちはその姿に慰めを見いだします。イエス様にのみ頼り、イエス様を求めていった人物が変えられた。新しく生まれるとは、こういうことなのかもしれません。
 わたしたちも、イエス様を求め、歩んで行きましょう。

5月24日 聖霊降臨日(ヨハネ14:8〜17)―印刷用PDFはこちら

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わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
(ヨハネによる福音書14章13節)

 本日は聖霊降臨日です。この日はキリスト教の祝日の中でも、降誕日、復活日とともに三大祝祭日とされています。
 さて、今日読まれたヨハネ福音書14章は、いわゆる告別説教といって、イエス様が十字架に向かう前に弟子たちに語った長い説教の一部です。このヨハネ福音書が書かれた頃、キリスト教徒はとても小さな群れでした。ユダヤ教からは迫害を受け、自分の信仰を保つのも大変な状況の中で何を必要としたのでしょうか。それは希望であり、約束であったのです。
 しかしイエス様を見失い、神さまと何とか交わりたいと願う人々は、フィリポと同じように、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と叫び続けたのではないでしょうか。
 そしてわたしたちも、同じように叫び声をあげるときがあるかもしれません。神さまが感じられない、イエス様が共に歩んでくれているとは思えない。どうか神さま、共にいてください。イエス様、わたしを支えてくださいと。
 イエス様はそのようなわたしたちに対して、何度も何度も繰り返し伝えます。信じなさいと。
 「信じる」ということはどういうことなのでしょうか。意味を調べてみると、そこには「委ねる」という意味もあるそうです。「信じる」、そして「委ねる」ということ。その二つの言葉を黙想していると、お母さんに抱かれた赤ちゃんの姿が心に浮かんできました。
 赤ちゃんはお母さんの胸の中ですやすやと眠ります。それは何故でしょうか。信じているからです。お母さんは絶対に自分をその腕から落とさないことを。どんなことからも必ず守ってくれることを。だからその身を委ねて、安心して眠ることができるのです。
 であるならば、イエス様がわたしたちに求めておられること、それはイエス様と父なる神さまとの交わりの中に、それぞれの内にいる神さまとイエス様との関係の中に、あなたも身を委ねなさい、そして神さまの愛の行為の中に、あなたの身を委ねなさいということではないでしょうか。そしてそれが信じるということ、信じる者になるということにつながっていくのです。
 聖霊をわたしたちに遣わし、これらの気づきを与えてくださった神さまに感謝します。
 この祈りに大きな希望を抱いて、わたしたちは神さまと共に歩んでいきましょう。

5月17日 復活節第7主日(昇天後主日)(ヨハネ17:11c〜19)―印刷用PDFはこちら

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真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
(ヨハネによる福音書17章17節)

 聖公会では、教会の暦を大切にします。降誕日(クリスマス)や復活日(イースター)はもとより、大斎節や受苦日、降臨節など、それぞれの暦に合わせて聖書のみ言葉に聞いていきます。
 本日は復活節第7主日であると同時に、昇天後主日となっております。先週の木曜日、昇天日を迎えました。昇天日とは復活されたイエス様が天に昇られる日です。そのすぐ後の日曜日にわたしたちは、ご自身が十字架に掛けられる前に弟子たちのためにささげられたイエス様の祈りを聞くのです。
 イエス様は弟子たちに対して、弁護者すなわち真理の霊を与えることを約束されました。ヨハネ福音書の中では、聖霊は真理の霊だと書かれています。それでは真理とは一体何なのでしょうか。
 「真理とは何か」、そう尋ねたのはイエス様を尋問したピラトでした。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である」と、ご自身が真理なのだと言われます。またイエス様は真理である神さまのからの福音を告げ知らせる者でもあります。
 そして、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」との言葉からも分かるように、真理によって、わたしたちはあらゆる束縛から解放されるのです。
 わたしたちは何のために聖書のみ言葉に聞くのでしょうか。それはみ言葉が真理だからです。み言葉を聞くことによって、わたしたちは聖なる者とされていくのです。
 桃山基督教会では2015年度に年間聖句として以下の言葉が与えられました。
 「実に、信仰は聞くことにより。しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」
 真理であるみ言葉を聞きましょう。聖書に聞き、神さまの声を感じましょう。イエス様は真理の霊を与えるようにと、父なる神さまに祈られました。真理の霊が、イエス様のみ言葉が、そして神さまからの愛がわたしたちを包み込んでくれるのです。それは、わたしたちが聖なる者となるためなのです。
 イエス様は天の神さまに祈られます。
 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」
 この祈りに大きな希望を抱いて、わたしたちは神さまと共に歩んでいきましょう。

5月10日 復活節第6主日(ヨハネ15:9〜17) ―印刷用PDFはこちら

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わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
(ヨハネによる福音書15章12節)

 「互いに愛し合いなさい」、イエス様はこのように告げられました。目の前の人を、また見知らぬ誰かを愛するということは、確かに正しいことです。とても大事なことです。でもわたしたちは知っているのではないでしょうか。それが出来ない自分、簡単に人を愛することができない自分のことを。
 わたし自身、愛するという言葉に対し、とても戸惑いを覚えていた時期があります。しかしある時に、本を読んでいてこのようなことを知らされました。1800年代に聖書を日本語に翻訳したカール・ギュツラフが、この「愛する」という語を「御大切」と訳したということを。
 愛すると大切にするという言葉のニュアンスは、現在の日本語ではかなり違っています。しかし、「わたしがあなたがたをとても大切にしたように、お互いに大切にし合いなさい」と今日の箇所を読みかえると、このような気づきも与えられます。大切にする、その関係の中には一方的な思いしかありません。何の見返りも求めず、ただその人のために与える、そのような関係だと言えるでしょう。そしてそれこそが、神さまがわたしたち一人ひとりに与えられる愛、つまり見返りを求めず、ただ一方的な恵みとして与えられる愛なのです。
 しかし果たしてわたしたちは神さまと同じように、周りの人たちを愛することができるのでしょうか。家族に対して、友達に対して、近所の人たちに対して、そして話したこともない人に対して、いつも愛し続けることができるのでしょうか。神さまの愛の大きさを感じるたびに、その思いは強くなるように思います。
 愛すること、それはとても大変なことです。簡単にできることではありません。でも聖書を読むと、イエス様は「互いに愛し合いなさい」と言われる前にこのように言われていることに気が付きます。「わたしがあなたがたを愛したように」。
 わたしたちはイエス様に愛されています。わたしたちがどんな人間でも、他人のことを思いやれずに、いつも神さまを悲しませることばかりしていたとしても、愛してくださるのです。
 そのことに気が付いた時に、受けるに値しないにもかかわらず溢れんばかりの恵みを頂いていることを知った時に、わたしたちは少しずつ、互いに愛し合う者へと変えていかれるのです。
 イエス様の愛を感じましょう。心からその恵みを感じ、たくさんの人と分かち合っていくのです。

5月3日 復活節第5主日(ヨハネ14:15〜21) ―印刷用PDFはこちら

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しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
(ヨハネによる福音書14章19節)

 今年の4月5日は、イエス様のご復活をお祝いしたイースターでした。それから一か月が経とうとしています。しかし今日の聖書の箇所は、イエス様の十字架の出来事よりも前の場面、イエス様が弟子たちに話をされる、いわゆる「告別説教」というところです。
 イエス様は、十字架に向かうその前に、弟子たちの足を洗われ、共に食事をし、そしてご自分を裏切るものが弟子たちの中にいることを予告されました。その時に実際に裏切ったのはユダでしたが、他の弟子たちは気づいていませんでした。しかしイエス様は、ユダが裏切るために席を立った後に、弟子たちにたくさんの話をされたのです。
 弟子たちは一つ一つの話をどのように受け止めていたのでしょうか。イエス様がまもなく十字架に向かわれることを理解できなかったとしても、自分たちの元を離れてしまわれることは感じていたかもしれません。また裏切り者が一体誰であるのか心配になって、イエス様の言葉に心を向けることもできなかったかもしれません。
 しかし彼らは思い起こすのです。イエス様の十字架と復活のあとに、これらの話一つ一つを。イエス様がなぜあの時、自分たちに語り続けられたのか。そして自分たちこそ、イエス様を見捨て、イエス様から離れて行った裏切り者であったということに気づくのです。
 わたしたちも何度、イエス様のことを裏切り、背き、離れようとしたことでしょう。しかしわたしたちに、今日の聖書の箇所は語りかけるのです。イエス様は十字架につけられた。しかし復活なさった。それはわたしたちが生きるようになるためだと。
 イエス様は生きておられます。わたしたちの目に見える形で、生きてはおられないかもしれません。天にあげられて、わたしたちが手に触れることもできないかもしれません。しかし、主は確かに生きておられるのです。わたしたちは神さまから与えられた聖霊によってイエス様とつながっており、イエス様を知ることができます。だから、わたしたちは今日も生かされているのです。
 わたしたちにもイエス様は語られます。「あなたがたはわたしを見る」と。イエス様はわたしたちと今も共に歩んでくださるのです。

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