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ショートメッセージ2015年6月

6月28日 聖霊降臨後第5主日(マルコ5:22〜24、35〜43)―印刷用PDFはこちら

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イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
(マルコによる福音書5章36節)

 イエス様と弟子たちが湖のほとりにいた時に、ヤイロという人がやって来ました。そしてイエス様に向かって、「娘が死にそうだ、だからイエス様、来て手を置いてほしい」と懇願します。ヤイロという人は会堂長でした。会堂長は社会的に高い地位にあり、裕福でもあったそうです。そのような人は、普通自分で直接頼みに来ずに、人を使いにやるのが普通だったようですが、しかしヤイロは直接イエス様の元にひれ伏しました。ここにヤイロの思いが見られます。
 その願いを聞いて、イエス様はヤイロと共に出かけます。また大勢の群衆もイエス様に従い、押し迫ってきます。そのまま日課どおりに読んでいくと、その後すぐに会堂長ヤイロの家から人々がやってきて言うことになります。「お嬢さんは亡くなりました。もう先生をわずらわすには及ばないでしょう」と。
 しかし聖書には、日課では読まれない25節から34節に、一つの出来事が書かれています。それは、12年間出血の止まらない女性がいやされたというものです。
 彼女の病気はイエス様の衣の裾に触れることによって癒され、同時にイエス様は、ご自身の内から力が出て行ったことに気づきます。もしイエス様がそのまま目的地に行くことができていたなら、最悪の事態は免れたかもしれません。でもイエス様は振り返ります。ヤイロの家の方を向いていた体を180度方向転換して、自分の衣の裾を触れた女性を捜すのです。
 イエス様はヤイロの頼みを聞いてくださいました。娘のところに来てほしいという頼みを聞き、一緒に歩まれたのです。娘に早く手を置いてほしい、その思いをヤイロは強く持っていたことでしょう。しかしその思いとは裏腹に、イエス様は立ち止まり、そして向きを変えられる。もしあなたがヤイロの立場だったらどうでしょうか。「そんなことはどうでもいい、早く行きましょう」、「あなたを今、一番必要としているのはわたしです」、「イエス様、あなたはわたしだけ見ていてくださればいいんです」。
 その時、ヤイロの元に家から使いがやってきて告げます。「お嬢さんは亡くなりました」。ヤイロの言葉は何も記されていません。どのようなことを考え、どのような気持ちでいたのか、聖書は何も語りません。そしてその言葉を聞いて、イエス様はヤイロに言われるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。
 わたしたちは本当に様々なことに恐れを抱いて生きています。苦しみ、悲しみ、痛み、病気、人間関係、そして死。その一つ一つの出来事に出会うたびに、叫び声をあげる時に、イエス様は言われるのですね。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。
 神さまは、すべて良い時に、一番良い方法で、わたしたちを起き上がらせてくださる。必ずわたしたちの元には、その救いのみ手が差し伸べられる。そのことを信じなさい。それこそイエス様が伝えようとされたことなのではないでしょうか。
 恐れてもいい。うろたえてもいい。すがりつくような思いでわたしのもとに来たらいい。そうイエス様はわたしたちに語られるのです。そして手を取り、起こしながら言われます。「あなたも信じる者になりなさい」と。

6月21日 聖霊降臨後第4主日(マルコ4:35〜41)―印刷用PDFはこちら

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イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
(マルコによる福音書4章40節)

 昔、まだ海で泳ぐことができなかったときに、「こうしてごらん」と教えられたことがありました。「体の力を抜いて水の流れに身を任せると浮くから、そうしたら泳いだらいい」と。
 言われたとおりに体を水に預けようとします。でも小さな波が来るたびに、怖さのあまり体が固まって、ブクブクと沈んでいったことを思い出します。
 今日の福音書には、イエス様と共に舟で向こう岸へと向かった弟子たちの姿が描かれています。彼らの中には、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという、漁師から弟子になった人たちがいました。ですから舟の扱いには慣れていたと思います。
 しかしそんな彼らが、おぼれてしまうと恐れるほどの突風がやってくるのです。彼らは必死で舟が沈まないようにと頑張ったことでしょう。近くにある桶で水を汲みだし、重たい荷物は湖に放り込んだかもしれません。
 でも嵐は、そんな弟子たちに容赦なく襲い掛かります。弟子たちはイエス様のことを思い出します。こんなに自分たちは必死で舟が沈まないように努力しているのに、イエス様はどうしたんだ。どこにおられるのだ。
 見ると、イエス様は寝ておられました。弟子たちは言います。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。助けて下さいと言うわけでもなく、一緒に手伝うように願うのでもない。彼ら弟子たちは、イエス様がただ寝ている姿に憤慨し、非難しているのです。
 この姿は、日常生活の中で、悲しいこと、辛いこと、どうしても許せないこと、様々な困難なことに出会った時の、わたしたちの姿と重ならないでしょうか。イエス様がそばにいることを忘れ、必死で自分の力だけで歩もうとする。何とか目の前にある壁を自分の力だけで乗り越えようとする。けれどもそれが出来なかったとき、それに疲れ果ててしまったときに、わたしたちは叫んでしまうのです。
 「イエス様、あなたはわたしがこんなに苦しんでいるのを知っているのですか」。
 「イエス様、どうしてあなたは今のわたしを見ても、平気なのですか」。
 「イエス様、あなたは今、本当にわたしと一緒にいてくれているのですか」。
 そして身を固くし、ブクブクと水の中に沈んでいくわたしたち。
 でもイエス様はそのようなわたしたち一人一人の手をつかみ、言ってくださいます。「しょうがないなあ、まだ怖がっているのか、信じてないのか。わたしはいつでもあなたのそばにいるよ。安心してすべてを委ねなさい」と。

6月14日 聖霊降臨後第3主日(マルコ4:26〜34)―印刷用PDFはこちら

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更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
(マルコによる福音書4章30節)

 聖書が書かれた頃、ユダヤの人々は神の国が来ることを、待ちわびていました。神の国、それは神さまによる支配を意味します。彼らユダヤ人にとって神さまの支配とは、自分たちの敵である異邦人を神さまが打ち滅ぼし、苦しみから解放される、そのような意味合いが強かったようです。彼らにとっての「神の国」とは、自分たちユダヤ人のためのもの、自分たちの救いのための希望だったのです。
 しかしイエス様の語られる神の国、それは彼らの願いを裏切るものでした。「神の国、それはからし種のようなものである」。からし種とは小さな種です。何故イエス様はそのような小さな種を「神の国」にたとえられたのか。からし種は成長したとしても、2.5メートルから3メートルくらい。決して小さくはないけれども、巨大な樹木と比較すると、大きいとはお世辞にも言えません。からしの木では、神さまの支配が全世界を覆い尽くすようなイメージなど、全くもてないのです。
 なぜイエス様はからし種で、神の国をたとえられたのでしょう。それはイエス様の生涯、イエス様が誰の所に向かい、誰の所に寄り添い、誰と共に歩んで行かれたかを思い起こすと、わかってきます。
 イエス様は洗礼を受け、誘惑を受けられたあと、どこに向かわれたのか。マルコ福音書はガリラヤに行かれたと報告します。当時の宗教や政治の中心地はエルサレムでした。しかしイエス様はその最初の宣教の地として、ガリラヤを選ばれたのです。
 イエス様はガリラヤの人たちの元に来られました。神さまから見たら見えるか見えないか分からないほどの小さな存在、まるでからし種のような一人一人のところに来られたのです。そして共に食べ、共に飲み、共に泣き笑い、共に歩んで行かれたのです。
 「神の国はからし種のようなものである」、そう言われたイエス様。彼は群衆の間に身を置かれました。からし種、それは成長するとどんな野菜よりも大きくなるといいます。しかし手の届かなくなるほど大きくなるわけではない。見上げてもそのてっぺんがどうなっているのか分からないような木でもない。しかし、人々にとって、とても身近な存在、手を伸ばしたら届きそうで、枝や葉が、風や雨、日光から守ってくれ、そしていつも憩わせてくれる。それが神の国だというのです。
 わたしたちにとっても、神の国とは手の届かない、遠い未来の出来事、違う場所でのことなどではない、わたしたちの周りにあり、わたしたちを憩わせてくれるものなのです。

6月7日 聖霊降臨後第2主日(マルコ3:20〜35)―印刷用PDFはこちら

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周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
(マルコによる福音書3章34〜35節)

 今週の箇所は、マルコによる福音書の3章20節から35節です。新共同訳聖書では、「ベルゼブル論争」と「イエスの母、兄弟」という小見出しがつけられています。前半のベルゼブル論争の中には、イエス様のことを理解できない人たちが出てきます。それは身内の人たちであり、また律法学者たちでした。
 そして後半の31節から35節には、再び身内の人たち、イエス様の母と兄弟たちが登場します。しかしイエス様は母と兄弟たちを外に立たせたまま、自分の母や兄弟とは誰なのかを語っていきます。これらの箇所を通して、イエス様のことを理解しようとせず、それどころかその行いを否定しようとする人たちの姿が浮き彫りになっていくのです。
 マルコ福音書のこの箇所の直前には、イエス様が十二弟子を選ぶ記事があります。またイエス様の元には、いつもおびただしい群衆が従っていました。そして今日の場面でも群衆がまた集まって来たために、一同は食事をする暇もないほどだったそうです。
 なぜ群衆は、イエス様の元に集まって来たのでしょうか。多くの病人や悪霊につかれた人たちをいやすイエス様の姿を見て、自分たちの病気もいやして欲しいと願ったのでしょうか。イエス様の口から語られる言葉に希望を見いだし、イエス様と共に歩んで行きたいと願ったのでしょうか。
 対照的に、イエス様をよく知っていたはずの身内の人たちは違いました。「あの男は気が変になっている」、イエス様と親しかったからこそ、小さい時のイエス様をよく知っていたからこそ、身内の人たちはそう思ったのかもしれません。
 しかしその思いによって、彼らはイエス様との交わりの外に出されたのです。イエス様を受け入れることができず、共に歩むことを拒んでしまうのです。
 イエス様は公生涯の始めから、群衆の間に身を置いていきました。「神のみ心を行う人」、それは自分たちの元に来られたイエス様の所に向かい、イエス様の語る言葉を聞き、イエス様との交わりの中にいることなのかもしれません。イエス様は群衆のその姿勢を「良し」とされたのです。
 わたしたちはイエス様の言葉を聞いているでしょうか。イエス様との交わりの中に身を委ねているでしょうか。わたしたちも「神の家族」に加えていただきましょう。

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