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ショートメッセージ2015年7月

7月26日 聖霊降臨後第9主日(マルコ6:45〜52)―印刷用PDFはこちら

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皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
(マルコによる福音書6章50節)

 先週、わたしたちはイエス様が5000人以上の人たちに5つのパンと2匹の魚を分け与える物語に聞きました。「それからすぐ」と聖書は言います。まだ群衆は興奮さめやらぬ状態だったでしょう。イエス様のみ言葉によって養われ、そしてお腹までも満たされる。それはとんでもない奇跡でした。
 弟子たちは、群衆と一緒にまだその場にいたかったのかもしれない。しかしイエス様に強いて舟に乗せられ、向こう岸のベトサイダへ先に行くように命じられます。「強いて」、とても強い表現です。「無理やりに強制して」、舟に乗り込ませるのですね。嫌がろうと、何だろうと、とにかく舟に乗せる。そして弟子たちは、イエス様から離れて向こう岸に行かされるのです。
 もしわたしが弟子の一人であったなら、不安や恐れを持ち、イエス様から突き放されたような思いを持っただろうと思います。
 さて、弟子たちを乗せた舟は進み出します。夕方には湖の真ん中に出ていました。でも弟子たちはそこから漕ぎ悩みます。いくら漕いでも先に進まない。そしてその状況は夜明け前まで続くのです。真っ暗な闇の中で前へ進むことができない。わたしたちも時折陥る状況ではないでしょうか。様々な困難がわたしたちを前に歩ませてくれない。神さまの示される方向を向いているはずなのに、一生懸命漕いでいるはずなのに、どうしても前に行けない、歩めない。
 わたし自身、何度神さまを見失いそうになったことでしょう。病気、仕事のこと、お金のこと、人間関係。様々なことに戸惑い、悩み、苦しんできました。そしてその度に、すぐに手を差し伸べてくれない神さまを責め、神さまに怒りの叫びをあげてきました。そして神さまの存在を疑うことまで、わたしはしていたように思うのです。
 弟子たちはまだ、イエス様の本当の姿を理解していませんでした。そして弟子たちの漕ぎ悩んでいるのを見て湖の上を歩いて来られたイエス様を「幽霊だ」と言っておびえます。聖書は幾度も、そのような弟子たちの姿を報告します。弟子たちは何度も恐れ、戸惑い、逃げ出します。しかしそのような弟子たちが何度恐れても、その度にイエス様は来てくださいました。
 だからあなたたちも、恐れなくていい。そのように、聖書はわたしたち一人ひとりに対して語るのです。イエス様はご自身に従おうとする者を、従いたいと願う人を、決して見捨てることはなさらない。そして、わたしたちに「恐れるな」と言ってくださるのです。
 イエス様が共に歩んでくださることに感謝いたします。

7月19日 聖霊降臨後第8主日(マルコ6:30〜44)―印刷用PDFはこちら

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イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
(マルコによる福音書6章34節)

 イエス様の憐れみから今日の物語は始まります。イエス様はどのような人たちを憐れんだのでしょうか。
 聖書を読みますと、弟子たちは人里離れた所に舟で向かったと書かれています。湖の岸辺に近い所を進んだのか、それとも遠く見えないような場所を通ったのかはわかりません。そのイエス様たちを、群衆は追って行きました。イエス様たちはきっとあのあたりに行かれる。そう思い、急いで行った。食べ物を取りに帰る時間も、防寒着を用意する暇も惜しい、もったいない。彼らはイエス様を見失わないようにと、必死で後を追い、いつしか先回りしていたのです。
 この時の群衆の気持ちはどのようなものだったのでしょう。彼らは必要としていた。求めていた。イエス様が発する一つ一つの言葉を。その口から出される一つ一つの教えを。イエス様の言葉に、み言葉に飢えていたのです。
 イエス様はそんな群衆を見て、憐れまれました。ご自分の元にやってくる、み言葉を求める群衆を憐れまれた。憐む、聖書ではこの言葉は、ああ可哀そうにとか、気の毒になあ、とかそういう意味ではありません。群衆が苦しんでいたら共に苦しい、群衆が痛んでいたら共に痛い。心の奥底から、群衆と同じように共感する。その感情をイエス様がもたれたのです。
 今、少し想像してみてください。イエス様の顔を。群衆を見つめるイエス様のその目を。あなたにはどのように映っていますか。そしてその目は、あなたに対しても向けられていますか。
 イエス様は人々の苦しみを知りました。悲しみを知り、そして飼い主のいない羊のような彼らを見て、必要を満たそうとされました。イエス様がなさったこと、それは群衆に対して教えることでした。
 わたしたちはこのパンと魚の奇跡の物語を読むときに、食べ物が増えた出来事に目が行きます。でも聖書は伝えるのです。イエス様は深く憐れんだ。そして群衆に教えられたと。彼らの必要は何だったのか。着の身着のままでイエス様の元に集まっていた群衆が望んだこと、それは心を満たしてほしい、この飢え渇いた心を、イエス様の言葉で満たしてほしいということだったのです。
 わたしたちは日曜日ごとに礼拝に集います。何故でしょうか。み言葉に、神さまの愛に触れたいからではないでしょうか。わたしは思います。この礼拝によって、わたしたちは生きる糧を与られているのだと。祈りの中で、賛美の中で、そしてみ言葉に耳を傾ける中で、わたしたちは養われ、明日からも歩いて行けるという力を与えられているのです。

7月12日 聖霊降臨後第7主日(マルコ6:7〜13)―印刷用PDFはこちら

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そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。
(マルコによる福音書6章7節a)

 今回、この箇所を黙想しながら、「遣わす」という言葉について思い巡らせていました。
 イエス様は弟子たちをご自分のそばに置くため、そしてご自身の活動を一緒に行うために集めました。さらに派遣して宣教し、悪霊を追い出す権能を与えたのです。自分の元から送り出し、自分に代わって活動するようにと、イエス様は弟子たちに命じられました。
 しかし弟子たちは、先生であるイエス様がどういう方なのか、本当にはわかっていませんでした。このすぐ後の箇所で弟子たちは、イエス様が多くの人をわずかな食料で満腹させる場面や、湖の上を歩くイエス様の姿を目撃します。しかしそれがどういうことなのか分かりませんでした。さらに一番弟子ともいえるペトロは、ご自身の十字架を予告されるイエス様をたしなめて叱られます。そしてイエス様が十字架にかけられた時には、12人の弟子たちはすべて、その場から逃げていくのです。
 イエス様が何者なのか、弟子たちが本当に分かったのは、復活したイエス様に出会ってからでした。でも今日の箇所では、弟子たちはまだ無理解だったわけです。それにもかかわらず、イエス様は弟子たちを遣わすのです。
 わたしたち一人ひとりも、12人と同じようにイエス様から遣わされています。周りの村に行きなさい。そう言われているのは弟子たちだけではない、わたしたち一人ひとりもそう促されているのです。でもそれは、わたしたちが信仰者として完璧だからでしょうか。そうではありません。
 こんなわたし、にもかかわらず。罪から抜け出そうと必死にもがいている、にもかかわらず。イエス様しか頼ることができない、にもかかわらず、イエス様は遣わされるのです。こんなわたしたちに声を掛け、イエス様はわたしたち一人一人を押し出されるのです。
 さらにイエス様は、言われます。旅には杖一本のほか何も持っていくなと。パンも、袋も、また帯の中にお金も持っていってはならないなどと命じられます。
 とても厳しい命令です。しかしここでイエス様が伝えたかったことは、神さまがすべて与えてくださるから心配するな、ということなのです。
 あなたがたはただ神さまだけに頼りなさい。どうしようだなんて考えずに、わたしの示すところに行きなさい。それこそが、イエス様の派遣、「遣わす」ということなのです。
 ハレルヤ、主と共に行きましょう。その言葉をいつも胸に留め、これからもイエス様と共に、そして皆さんと共に、主のご用のために歩み続けてまいりましょう。

7月5日 聖霊降臨後第6主日(マルコ6:1〜6)―印刷用PDFはこちら

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そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
(マルコによる福音書6章5〜6節)

 今日の福音書は、イエス様が生まれ故郷のナザレに帰られたときの話です。イエス様はガリラヤで伝道を始めた後、カファルナウムやガリラヤ湖のほとりで、またゲラサ地方などで活動しました。たくさんの群衆に向かって教え、病の人をいやし、悪霊を追い出し、風や波を叱り、そして死人を起き上がらせました。
 そのうわさは、ナザレの人たちにまで届いていたことでしょう。マルコ福音書3章では、イエス様の母や兄弟たちがイエス様を取り押さえに来る場面も書かれています。「あの男は気が変になっている」とイエス様は言われていたようです。
 そして今回も、イエス様はナザレの会堂で教えるのですが、その言葉は故郷の人たちには届きませんでした。彼らはその教えを素直に聞くことができず、他のこと、イエス様の生い立ち、すなわち家の職業や兄弟姉妹たちのことに目が向いてしまったのでした。
 わたしはこの箇所を読むときに、イエス様と出会うということはどういうことなのかを、考えさせられます。イエス様の親戚や家族、また同じ村に住んでいた人たちは、ずっと前からイエス様と出会っていました。しかし、それはイエスという人物を表面的にただ「知っている」だけで、本当のイエス様のことは「知らない」のです。
 それではわたしはイエス様と本当に出会っているのだろうか。ただ聖書に書かれた歴史上の人物としてだけ知っており、自分との関わりの中では、知ることが出来ていないのではないだろうか。
 イエス様は一体、どういうお方なのでしょうか。イエス様が嵐を静めた場面、一緒に舟に乗っていた弟子たちは言い合いました。イエス様とは何者なのか。それを知るために、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。
 パウロは言います。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。まずイエス様の言葉を聞くのです。その言葉に聞くことによって、わたしたちは、イエス様との関係に招き入れられます。そしてイエス様をキリスト(救い主)だと知ることができる、本当のイエス様に出会うことができるのではないでしょうか。
 わたしたち一人一人の心の扉は、いつもノックされています。イエス様は、わたしたちの心にいつも語りかけてくださいます。わたしたちがその扉を開け、イエス様に出会うことができますように。

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