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ショートメッセージ2015年8月

8月30日 聖霊降臨後第14主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23―印刷用PDFはこちら

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外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。
(マルコによる福音書7章15節)

 今日の箇所には、汚れた手という言葉が出てきます。この語、もし振り仮名がついていなかったらどう読みますか。よっぽど聖書を普段から読んでいないと、「けがれた」ではなく「よごれた」と読んでしまいませんか。しかし聖書の中では、「けがれた」という言葉にとても深い意味があります。
 「汚れ」とは、レビ記をはじめとする旧約聖書にとても多く登場する祭儀的な言葉です。旧約聖書には、清いものと汚れたものとが細かく定められていました。そして汚れたものに触れてしまうと、その人自身も汚れてしまうとされたのです。
 ファリサイ派や律法学者は、律法を解釈して清いものと汚れたものの区別を一生懸命に考えていました。彼らは神さまが命じたからと、このようなことをしていたのです。
 旧約聖書のどこを見ても、食事の前に手を清めなさいとは書かれていません。しかしファリサイ派と律法学者の人々は考えます。ひょっとすると汚れたものにどこかで触れたかもしれないと。もしそうだとしても、食事の前にきちんと手を清めておけば大丈夫だと考えたのです。それが昔の人の言い伝えとして、人々の間に浸透していったのでした。
 イエス様もそのような言い伝えは知っていたでしょう。しかしイエス様は食事の前に手を清めてはいなかったと思います。
 なぜ手を清めなかったのか。それはイエス様がどのような人に関わってこられたかを思い出すとわかります。汚れた霊に取りつかれた人、重い皮膚病を患っている人、中風の人、徴税人、罪人、悪霊に取りつかれた異邦人、そして12年も出血の止まらない女性。触れても汚れると考えられていたこれらの人々と、イエス様は関わっておられました。
 わたしたちはどうでしょう。いくら自分を清くしようとしても、神さまの前で、自分だけの力で清くなることなど出来ません。それは人を汚すのは外側から来る何かではなく、人の内側にある心が、その思いが汚すからなのです。イエス様はわたしたちにそのことに気づくように言われるのです。
 わたしたちは清くありたいと願います。しかし自分自身、本当に清くなれないことを、わたしたち自身が一番よく知っているのではないでしょうか。
 しかし、イエス様は受け入れてくださるのです。わたしたちが清くなくても。わたしたちが汚れたままでも。そのままのわたしたちをイエス様は排除せず、枠の外側に追いやらずに、受け入れてくださる、そのことをイエス様は伝えてくれるのです。

8月23日 聖霊降臨後第13主日(ヨハネ6:60〜69)―印刷用PDFはこちら

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シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
(ヨハネによる福音書6章68〜69節)

 わたしたちはこの数週にわたり、命のパンについて考えてきました。その最初は、イエス様がたくさんの群衆を、5つのパンと2匹の魚だけで満腹させた話でした。
 群衆は肉体的に満たされたあと、執拗にイエス様を捜しまわります。そのときの彼らの心境はどのようなものだったのでしょうか。イエス様は自分たちを、肉体的な飢えから救ってくれる人物としてしか見ていなかったのかもしれません。
 わたしはこれらの物語を読むときに、自分がイエス様をどのように捉えているのか、考え直す機会が与えられます。といいますのも、わたしはイエス様を自分の望みをかなえてくれる方としてしか、感じていないことがあるように思うからです。飢えたときには食べさせてほしいと願い、渇いたときには飲ませてほしいと祈る。
 自分の欠乏を素直に祈りの中で願うことは、決して悪いことではありません。とても大切なことです。しかし目に見える成果だけを求めて、また自分だけの欲求に固執し、神さまがわたしたちをどのように導いていこうとされているかを考えなくなってしまったときに、わたしたちの目は朽ちる食べ物にばかり向いてしまうのです。そして永遠の命に至る食べ物を見失ってしまうのではないでしょうか。
 イエス様の周りにいたほとんどの人たちは、イエス様が「わたしが命のパンである」と言われたことに頭を振りました。イエス様の言葉によって躓いたのです。「わたしたちが今、求めている物はそうではない。こんな話はもう聞いていられない」。
 5000人以上もいたであろう人たちは、12人の弟子たち以外、ほとんどがイエス様の元から離れていきます。そこでイエス様は12人に言われます。「あなたがたも離れて行きたいか」と。
 この言葉は誰に語りかけているのでしょうか。12人の弟子たちだけでしょうか。そうではありません。わたしたち一人ひとりにも同じように、イエス様は語られておられます。自分の思いとはかけ離れた現実に出会った時に、祈りの言葉が見つからないまま日々を過さざるを得ない時に、神さまの愛が感じられずに前に進めなくなってしまった時に、わたしたちは躓きます。「こんな神さまならいらない」と、イエス様の元から離れようとするのです。
 でもそのような時には思い出してください。イエス様はそれでもわたしたちを養おうとされていることを。何度も裏切られ、幾度となく見捨てられたイエス様。しかしイエス様は何度でも、わたしたちがまた自分に心を向けることを望んでおられます。そしてそのために、十字架に向かわれたのです。

8月16日 聖霊降臨後第12主日(ヨハネ6:53〜59)―印刷用PDFはこちら

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わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
(ヨハネによる福音書6章56節)

 わたしたちは聖餐式で、パンとぶどう酒をキリストの体と血としていただくことを、とても大切にしています。それは、イエス様がそうするようにと言われたからです。
 今日の箇所で、イエス様はこのように言われます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と。
 この「はっきり言っておく」という言葉は原文の言葉を少し残すと、「アーメン アーメン わたしはあなたがたに言う」となります。「アーメン」は、お祈りの最後につけることが多い言葉ですが、「その通り」とか「確かに」という意味です。
 その「アーメン」を、イエス様は文の始めに繰り返して言われます。「さあ、これからわたしの言う言葉を聞きなさい。今からあなた方にとても大切なことを言う」と、人々が自分の方に耳を傾けるようにと促しているのです。
 「アーメン アーメン わたしはあなた方に言う。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」。人の子、つまりイエス様の肉を食べること、そしてその血を飲むこと、それが必要だというのです。
 この言葉を聞かされた多くの人たちは、戸惑いました。いや、戸惑いというよりも怒りすら覚えていたかもしれません。旧約聖書を読んでいきますと、血というものは絶対に食べたり飲んだりしてはならないものだと書かれています。もし血を口にしますと、自分たちの民から断たれるとされていました。
 なぜ人は血を口にすることを禁止されていたのでしょうか。それは血が命を意味していたからです。動物の血はすなわち動物の命。そして動物の命は神さまのものなのです。人は動物の肉を食べます。しかし血は神さまのもの、わたしたちが自由にできるものではないのです。
 しかしイエス様は、わたしの血を飲みなさいと言われます。それはイエス様自身の命をいただきなさいということなのです。イエス様はご自分の命である血をわたしたちに分け与え、そうすることでわたしたちに命を与えてくださるのです。
 わたしたちがイエス様を受け入れ、イエス様によって生かされる時、わたしたちはイエス様の内におり、イエス様はわたしたちの内におられます。それもただおられるのではない。留まってくださるのです。
 どんな時にも、たとえわたしたちの心がそっぽを向いてしまっても、あなたの内にわたしはとどまっている、わたしはいつもあなたがたと共にいるというイエス様の約束こそ、わたしたちにとって良き知らせ、福音なのです。

8月9日 聖霊降臨後第11主日(ヨハネ6:37〜51)―印刷用PDFはこちら

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わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。
(ヨハネによる福音書6章51節)

 「わたしは命のパンである」、この言葉、イエス様は何者なのか。どうわたしたちと関わってくださるのか、そのことを伝える言葉なのだと思います。
 命のパン、みなさんはどのようなパンを想像しますか。高麗ニンジンが入っていたり、とても高価なものだったり。でもイエス様が語っていた相手、当時のユダヤ人にとって、忘れることの出来ない命のパンがあったのです。それは出エジプトの時に、天から与えられたパンでした。40年間、イスラエルの民は荒れ野をさまよいます。その時に与えられた食べ物、それがマナでした。
 しかしそのマナが与えられたのは、人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きることを知らせるためだといいます。
 神から出る一つ一つの言葉で生きること、そして命のパンをいただくこと、そこにどのような意味があるのか、出エジプトの時のイスラエルの民も、イエス様と問答したユダヤ人も、よく分からなかったし、分かろうとしませんでした。そしてつぶやくのです。「何で彼はこういうことを言うのか」、「なぜこのような人物が、こんなことを言えるのか」と。
 そして彼らは戸惑い、見失います。イエス様の本当の姿に気づかずに、横を向いてしまう。自分たちの求めていた人物ではないと去っていくのです。しかしイエス様は、こうして人々を惑わすために来られたのでしょうか。
 そうではないのです。神さまのみ心、それはイエス様が与えられた人を一人も失わずに終わりの日に復活させること、イエス様を信じる者が、永遠の命を得ることなのです。これこそが、イエス様がわたしたちの元に来られた理由、わたしたちの間に生まれなければならなかった訳なのです。
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ福音書3章16節のみ言葉です。すべての人を、神さまは愛された。愛されたが故に、み子であるイエス様をこの世に遣わされたのです。
 そしてイエス様は、わたしが命のパンをあげようと言うのではなく、イエス様ご自身が命のパンだと言われます。
 わたしたちは、礼拝の中で命のパンであるイエス様をいただいています。み言葉を聞くことにより、聖餐を受けることにより、わたしたちはいつも養われ、生かされているのです。

8月2日 聖霊降臨後第10主日(ヨハネ6:24〜35)―印刷用PDFはこちら

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イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
(ヨハネによる福音書6章35節)

 今日の場面に出てくる群衆ですが、先々週の福音書にあった、5000人以上の人がわずかなパンと魚で満たされた奇跡を体験した人々です。しかしその群衆は、イエス様がいつの間にかいなくなってしまっていることに気づきます。
 言ってしまえば、置いてきぼりです。つい先ほど、すごい奇跡を見せられ、みんな満たされた。人々はとても驚いたことでしょう。
 もう、興奮状態です。次は何を見せてくれるのだろう。イエス様がずっとそばにいてくれたら、もう大丈夫、安心だ。そう思いながら、彼らはイエス様を見ていました。でもいつの間にか、その姿は消えていました。
 ここだけを読むと、イエス様は冷たいと感じるかもしれません。なぜ群衆のために新しい飼い主としてそばにいてあげないのかと思います。しかしヨハネ福音書は、群衆の心の中の思いを書きます。
 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
 人々はイエス様を、自分たちの王にしようとしました。自分たちの元に、いつもいてもらう。よそへは行かせない。そして自分たちが望むことだけをしてもらう。他の人なんか関係ないのです。自分たちが祭り上げた王になってもらえばそれでいい。そうやって、イエス様を自分たちの思い通りにしようとしたのです。
 でもイエス様を自分の思い通りにしようとしているのは、彼ら群衆だけなのでしょうか。わたし自身祈るときに、ふと、自分の願いだけをずっと言い続けていることに気づくことがあります。神さまのみ心のとおりになりますように、ではなく、イエス様、わたしの元で、わたしのために働いてくださいとの思いが強く見えてくるのですね。
 その思いは今日の箇所の群衆の心境に近いのかもしれません。パンを食べて満腹し、またお腹がすいたから新たなパンを求める。自分の肉体のこと、今日のこと、明日のこと、様々な心配、思い煩い、すべてをイエス様はご存知でした。パンの奇跡で肉体的な欲求を満たされた。でもまた、すぐにお腹はすく。満たされない。
 イエス様は言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と。その「パン」とは、イエス様の身体です。み言葉です。聖餐です。それらをいただくことで、わたしたちは身体だけでなく心も養われるのです。

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