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ショートメッセージ2015年9月

9月27日 聖霊降臨後第18主日(マルコ9:38-48―印刷用PDFはこちら

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ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
(マルコによる福音書9章38節)

 今日の場面の冒頭、イエス様の弟子の一人であるヨハネがイエス様の名前を使い、悪霊を追い出している者を見ました。古代において、「名前」はそれ自体が力を持っていると考えられていました。また近代におけるエクソシスト(悪霊払い)の様子を描いた映画を見ても、「わたしはイエスの名によってお前に命じる」という台詞が聞かれます。
 「勝手にわたしの先生の名前を使うなんて、けしからん」とヨハネは思ったのでしょうか。新共同訳聖書では「やめさせようとしました」と、実際にはやめさせたのかどうか分からないように書かれていますが、動詞の形を見ると、「やめさせました」ときっぱり言っていることがわかります。つまりヨハネは、イエス様に聞く前にすでに行動を起こしていたのですね。
 なぜヨハネは、そのようなことをしたのでしょうか。こう書かれています。「わたしたちに従わないので」と。このわたしたちとはいったい誰なのでしょうか。その中にイエス様は入っていたのでしょうか。
 ヨハネはきっと、得意そうにこの出来事をイエス様に報告したのだと思います。「わたしはあなたの名前を使って悪霊を追い出している者を見ました。わたしは言ったんです。そんなことをするんだったら、わたしたちについて来いってね」。
 イエス様はヨハネに対して、どのような表情でこの言葉を言ったのでしょう。「やめさせてはならない」。諭すように言ったのか、それとも悲しい目で、あるいはしょうがないなあという感じなのでしょうか。
 イエス様はヨハネの行動を否定しました。ヨハネは「わたしたち」と言いましたが、イエス様はヨハネにこう言いたかったのではないでしょうか。「お前はわたしたちと言うが、わたしはその中には入っていないぞ」。
 わたしたちも同じようなことをしてはいないでしょうか。自分こそがイエス様の一番弟子であるかのように思ってしまい、他の人の信仰のあり方を否定する。自分たちこそが正しいと過信してしまい、違う考えを持った人たちを受け入れられない。
 その時に言うかもしれません。「わたしたちの信仰は」、「わたしたちの教会は」、「わたしたちは」と。
 しかし、その「わたしたち」の中に、果たしてイエス様はいて下さるのでしょうか。イエス様ではなく「自分たち」に従う人たちを、求めてはいないでしょうか。

9月20日 聖霊降臨後第17主日(マルコ9:30-37―印刷用PDFはこちら

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イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
(マルコによる福音書9章35節)

 イエス様はガリラヤに戻って来られました。そこで何よりも優先させたのは、弟子たちを教えるということでした。ガリラヤの人々に気づかれるのを好まず、ご自分の受難と復活を弟子たちに教えられます。
 イエス様はこの場面で、ご自分が「人々の手に引き渡され、殺される」と言われました。この言葉を聞いて、弟子たちはどう思ったのでしょう。人々って誰のことだろうか、そのように考えたかもしれない。けれども、まさか自分たちがその中に入っているとは思ってなかったでしょう。
 しかし聖書は語ります。この弟子たちが、イエス様を裏切り、見捨てたという事実を。ここでイエス様のいう人々とは、すべての人のことです。イエス様に敵対している人だけではなく、弟子たちもそう。そしてわたしたちもそうなのかもしれません。
 あなたたちはわたしを殺す。わたしたちが自分の罪を深く知った時に、この言葉は、2000年前の人々に語られた言葉だけではなく、今、語られる言葉となるのです。、受難に向かう道でイエス様は、このように教えられるのです。
 しかし弟子たちは、イエス様の言葉を理解しませんでした。カファルナウムの家に着いたときに、イエス様は尋ねます。「途中で何を議論していたのか」と。弟子たちは答えられません。それもそのはず、だれが一番偉いかと議論し合っていたからです。イエス様は受難の予告をしました。それが本当に起こったら自分たちは取り残されてしまう。だから今のうちに、後継者を決めておこうと思ったのかもしれません。
 黙っている弟子たちに対し、イエス様は言われます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」
 いちばん先、この言葉は政治的に用いる言葉であり、他人を支配する人という意味を持つそうです。また、仕えるという言葉も、謙遜になるとか、社会奉仕をするとかいう道徳的なレベルではなく、職業や身分をあらわす語です。
 そんなに人を支配したかったら、すべての人の奴隷に、召使になりなさい。それが、わたしに従うということだとイエス様は言われるのです。
 イエス様は、一番低い所にその身を置き、歩まれました。イエス様は言われます。わたしに従うことはどういうことなのか、よく見なさい。わたしが進んだ十字架の道を、思い起こしなさい。それが本当の仕える姿なのだと。
 だからあなたたちも自分の十字架を背負って、従って来るようにと、わたしと同じところに立って歩むようにと、イエス様は言われるのです。

9月13日 聖霊降臨後第16主日(マルコ8:27-38―印刷用PDFはこちら

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自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
(マルコによる福音書8章35節)

 イエス様の問いから、今回の物語はスタートします。「人々はわたしのことを何者だと言っているのか」。弟子たちは自分たちが聞いたことをイエス様に告げます。
 さらに続けてイエス様は聞かれます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。思っているのかでも、考えているのかでもありません。言うのか、言っているのかと弟子たちに聞かれています。
 そのイエス様の問いに対してペトロが「あなたはメシアです」と答えるのですが、ペトロはここで初めてイエス様をメシアだと呼んだのではなく、今まで行く先々で、「イエス様こそメシアだよ」と言いまわっていたのかもしれません。
 そのペトロたちを、イエス様は戒められます。この「戒める」と訳された原語が、今日の箇所に3度でてきます。そこでは「戒める」、「いさめる」、「叱る」という別々の訳を新共同訳聖書は採用しています。この語は「相手を厳しく叱りつける」という強い意味を持つ語であり、優しい感じで語りかけるような言葉ではありませんでした。つまりペトロがイエス様のことをメシアだと言っていることに対し、「そんなこと、絶対に誰にも言ってはいけない」と強く命令されたのです。
 ではなぜイエス様はこれほどまでに強く、ペトロたちを戒めたのでしょうか。それはペトロも弟子たちも、イエス様のことをきちんと理解していなかったからではないでしょうか。
 ペトロが望むメシアは、十字架へと向かう者ではありませんでした。受難を予告されるイエス様とペトロが描くメシア像は、まったく違うものだったのです。だからペトロはイエス様をいさめます。先ほどの「戒める」と同じ語です。厳しい調子でイエス様に言うのです。「そんなこと言ってはダメです」と。そしてイエス様はペトロを、「神のことを思わず人のことを思っている」と言って叱りつけたのです。
 聖書はこのような弟子たちの姿を、つぶさに伝えてくれます。弟子たちのうち誰一人として、イエス様に従い続けた人はいません。それどころかイエス様を裏切り、見捨てるのです。
 しかしイエス様は、その弟子たちの姿を目の当たりにして、関係を絶ってしまったのでしょうか。そうではなかったのですね。イエス様は復活され、弟子たちと関わり続けられたのです。
 そしてわたしたちも知るのです。何度でも、ご自分から離れて行くその人の所に手を伸ばすイエス様の姿を。わたしたちはその姿を思い出すことが出来るのです。それがイエス様の約束であり、希望なのです。

9月6日 聖霊降臨後第15主日(マルコ7:31-37―印刷用PDFはこちら

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そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
(マルコによる福音書7章37節)

 イエス様は異邦人が住む場所へと足を進めていきます。イエス様が地上での活動を行なっていた頃、ユダヤ人は異邦人と一緒に食事をしたり、交際したりしないだけでなく、ユダヤ人と異邦人との間には深い隔たりがありました。ユダヤ人は、自分たちこそ神さまとの契約によって立てられた民、選民であると自覚していました。そして他の民族を宗教的な儀式から排除し、さげすみ、汚れた者と考えたのです。そのような背景の中で、イエス様は異邦人の地に行かれます。
 そこに一人の人が連れてこられます。彼は異邦人です。ユダヤ人からは救いの外側に置かれていた彼。イエス様とは本来、何の関わりも持てなかったはずです。耳が聞こえず、舌もうまくまわらない。彼は毎日をどう生きていたのでしょうか。人々に助けられ、自分の力だけでは出来ないことも多かったかもしれない。
 そのそばにイエス様は来られました。しかし、彼は自分の力でイエス様の元に来たのではありません。人々が連れて来たのです。彼はイエス様のことを知らなかったのか、それとも自分なんかをイエス様が憐れむとは到底思えなかったのか。
 神さまの救いとは関係ない自分なんかに、イエス様が来てくれるはずがない。この痛みを、苦しみを分かってくれる方なんかいない。その心は、わたしたち一人一人の心でもあると思います。
 わたしたちがイエス様に出会うのは、わたしたちがそれにふさわしい者だからでしょうか。決してそうではありません。わたしは今でも思い出しますが、本当にイエス様に出会えたと感じたとき、それはわたし自身、ボロボロの時でした。孤独で、話す相手もいない。自分がどこにいていいのか、何を求めて歩いて行ったらいいのか、まったくわからない。暗闇の中にいたときでした。こんなちっぽけな人間は、見捨てられても当然だと感じていました。
 しかし、聖書は語ります。絶望の中にいたその人の元にイエス様が近づき、いやされたことを。そしてイエス様は触れられます。痛みを、苦しみを持ったその人に近づき、触れられます。それは痛みを、苦しみを、共感するため。重荷を負っているならわたしの元に来たらいい。わたしが共に担い、歩んで行くから。あなたの痛み、苦しみはすべてわたしが知っている。だから大丈夫、安心しなさい。
 この福音が、喜びの知らせが、彼の元に届きました。聞こえなかった耳が開き、舌のもつれは解け、はっきりと話すことができるようになりました。そしてイエス様は、今もわたしたちの痛みを負うために、わたしたちに触れてくださるのです。

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