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ショートメッセージ2015年10月

10月25日 聖霊降臨後第22主日(マルコ10:46-52―印刷用PDFはこちら

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そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
(マルコによる福音書10章52節)

 マルコ福音書の中でこのいやしの記事は、イエス様がエルサレムに入られる直前に出てきます。エルサレムの北東約48kmにあるエリコの地で、イエス様はバルティマイという目の見えない人をいやします。
 当時のイスラエルにおいて、気候的・衛生的な理由から目が見えなくなる人は少なくなかったようです。そして目が見えなくなった人は、生きていくにも困難な状況へと落とされていきました。
 聖書に出てくるバルティマイは、物乞いをして生きていました。自分の力で生きることができず、来る日も来る日も道端に座り、行き交う人の足音を聞く。それしか彼にはできませんでした。彼を守る唯一の物は、身につけた上着だけでした。
 彼はナザレのイエスが近づいて来たという噂を聞きます。たまらず彼は叫びます。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。多くの人々が彼を黙らせようとしますが、バルティマイは叫び続けます。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。
 わたしたちはこのバルティマイの物語を、単なるいやしの物語と見てはいないでしょうか。
 マルコ福音書を読んでいくと、弟子たちがイエス様の本当の姿を理解出来ない、つまり「見えていない」場面が多く出てきます。その時に、わたしたちは弟子たちに自分の姿を重ね合わせることも大切です。すると弟子たちの姿を見て、自分たちも「見えていない」ことに、気が付いていくのです。
 聖公会の礼拝では、礼拝の最初の方で、「主よ、憐れみをお与えください(キリエ エレイソン)」と唱えます。み言葉を聞き、陪餐に与るその前に、「憐れみ」を求めるのです。バルティマイが十字架に向かわれるイエス様の前で、神さまの憐みによってしか歩むことのできない自分に気づき、ただそのみ手が伸ばされることだけを願い求めたように。
 「目が見えるようになりたいのです」。「何をしてほしいのか」というイエス様の問いに対して、バルティマイはこう答えます。「見えるようになりたい」、イエス様の十字架を、そして復活を、聖書はこれから語っていきます。それらの出来事の意味が、わたしたちにも見えるように、目を開かせて欲しいと願いましょう。
 バルティマイはイエス様が呼ばれたのを知って、自分を守る唯一の物であった上着を脱ぎ捨てました。もう必要なかったのです。これからイエス様が共におられるのですから。

10月18日 聖霊降臨後第21主日(マルコ10:35-45―印刷用PDFはこちら

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しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
(マルコによる福音書10章43〜44節)

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネという二人の弟子たちが、イエス様のところに進み出て言います。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。
 今日の箇所である10章35節の直前には、イエス様は三度目の受難予告をされたばかりでした。イエス様が「わたしはエルサレムで引き渡されることになっている」と言われた、その直後の出来事なのです。
 聖書は、イエス様がエルサレムでの受難に向かっているにもかかわらず、その意味を理解することができない弟子たちの姿を描きます。わたしたちはこの弟子たちの姿を見て、何をしているんだという気持ちを持つかもしれません。
 しかしこの弟子たちの姿が、わたしたちの姿と重なることはないでしょうか。わたしたちはイエス様に従い歩もうとしながら、何度も躓き、くじけそうになり、イエス様のみ心を見失ってしまいます。イエス様の十字架のことはそっちのけで、自分のことばかりを考えてしまう、その自分に気づかされませんか。
 そしてこの箇所を弟子たちの姿に自分自身を重ねて読むときに、弟子たちに語られたイエス様の言葉はわたしたちを生かす言葉として響いて来るのです。
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。
 イエス様は自分に従うとはどういうことなのか、何度も伝えられます。皆に仕え、すべての人の僕となることを、イエス様はその生涯の中で実践してこられました。さらに十字架の上で、奴隷以下の存在、犯罪人としてその身をささげられました。
 わたしたちはそのようにイエス様に倣い、人に仕え、人を愛することができるのでしょうか。わたしたちの心の中が乾ききって、からっからになった状態だったら難しいかもしれません。しかしまず、先にわたしたちに愛を満たしてくださったお方がおられます。
 わたしたちが持っているコップに水が入っていなかったなら、いくらコップを隣の人に渡しても、隣の人はその水を飲むことができません。でもわたしたちの内に、水があふれるほど注ぎこまれているとしたら、いくらでもその水を隣の人に飲ませてあげることができます。
 イエス様はまず、わたしたちを愛されました。わたしたちに愛を満たしてくださいました。だからわたしたちは、イエス様に従い、イエス様に倣い、歩んで行くことができるのです。祈り求めながら、イエス様のみ跡に従っていきたいものです。

10月11日 聖霊降臨後第20主日(マルコ10:17-27―印刷用PDFはこちら

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イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
(マルコによる福音書10章27節)

 イエス様の元に、一人の人が走り寄ってきます。そしてひざまずいてイエス様に尋ねます。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と。そこからイエス様とその人との対話が始まります。
 その人はたくさんの財産を持っていました。また十戒を、子どもの時から守ってきました。しかし彼はイエス様に、「あなたには欠けているものが一つある」と言われ、イエス様の元を去って行きました。
 この物語、単純に読めばそれだけのことです。イエス様の言うことを、その人は実行できなかった。だからイエス様に従うこともできませんでした。そのことだけを聖書はわたしたちに伝えようとしているのでしょうか。
 この人はどうしてイエス様の元に来たのでしょうか。彼はたくさんの財産を持っていましたが、永遠の命を受け継げるという確信がなかったのかもしれません。死によってこの人生は終わるのかという思いもあったのでしょう。だから真剣にイエス様に問いかけに来たのです。
 しかし結果的に彼は、イエス様の言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去っていきました。彼のたくさんの財産が、彼を絶望の中に陥れてしまったのです。
 この時代、ユダヤでは財産があることは、神さまが祝福された結果だと考えられていました。ですから金持ちは、神の国に近い存在だと考えられていたようです。その彼をイエス様は、お前はダメだと突き放してしまったのでしょうか。
 今日の箇所をよく読んでみると、イエス様が彼に言葉を掛けるときの様子がこのように書かれています。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」。
 イエス様は彼をじっと見つめます。そして慈しんで言われる。この慈しむという言葉は、ギリシア語のアガペー、愛という名詞の動詞形です。ですからここは、「イエスは彼をじっとご覧になって、彼を愛されて、そして彼に言われた」と訳すことが出来ます。イエス様がじっと彼を見つめたそのまなざし、そこには愛があふれていました。イエス様は彼を滅ぼそうとされたのではなく、彼を救いの中に入れたかったのです。
 イエス様はわたしたちに語られます。「すべてを捨てて、わたしに従いなさい」と。しかし様々なものに固執し、捨てることができない自分に気づきます。それでもイエス様は、愛をもってわたしたちを何度も招かれるのです。
 その招きに気づき、すべてを神さまに委ねて歩んでいきたいものです。

10月4日 聖霊降臨後第19主日(マルコ10:2-9―印刷用PDFはこちら

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ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
(マルコによる福音書10章2節)

 ファリサイ派の人々はイエス様に対して尋ねます。その内容は、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているのかどうか」ということでした。しかしここでファリサイ派の人々は、イエス様に教えを乞おうとしているのではありませんでした。
 「イエスを試そうとしたのである」、そのように聖書は書きます。この「試す」という言葉ですが、敵対的な表現として用いられています。聖書の中には、イエス様に対して天からのしるしを求めたり、皇帝に税金を払うことはよいかを聞いたりと、「試す」人の姿が出てきます。また荒れ野の誘惑では、サタンがイエス様を「試す」のです。これらの場面に共通するのは、イエス様を陥れようとする姿です。
 ファリサイ派の人々は、イエス様に対し敵対心を強く持ちながら尋ねました。「律法に適っているか」と。この「適う」という言葉は、「許される」という意味を持ちます。
 彼らは、どこまでなら許されるのかと聞くのです。それに対してイエス様の答えは、「あなたがたはどう命令されているのか」というものでした。
 このファリサイ派とイエス様の会話とを、心の中で何度も繰り返していました。いつしかこの問答は、自分が厳しいと感じるイエス様の言葉に向かった時に相対する自分自身の心の問いかけと重なっていきました。このような言葉を聞かされた時に、自分に都合のよい解釈はないかと探してしまう。イエス様は優しいお方だからそんなことは言わないと勝手に思い込み、裏の意味があるのではないかと考える。
 でもイエス様は言われます。どこまでなら許されるのかと問いかけるわたしたちに、許された範囲の中で正しい者のようにふるまおうとするわたしたちに、イエス様は言われるのです。あなたは何と命じられたのか、と。
 このイエス様の言葉を聞く時に、わたしは自分の心の頑なさに気づかされます。神さまが結ばれたものを、裂こうとしている自分の姿に気づきます。わたしたちはこのイエス様の言葉、主の掟を聞くことで、どうしようもなく頑なな自分自身の心に気づくことができるのです。自分の罪が、神さまの前にあらわにされるのです。
 だから、イエス様の十字架が必要なのです。イエス様がわたしたちの罪を担い、わたしたち一人ひとりに赦しを与えられた、だからわたしたちは、この罪深いままでも歩いていけるのです。イエス様を与えてくださったそのお恵みに、心から感謝したいと思います。

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