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ショートメッセージ2015年11月

11月29日 降臨節第1主日(ルカ21:25-31―印刷用PDFはこちら

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このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
(ルカによる福音書21章28節)

 今日は降臨節第1主日です。イエス様の降誕を待ち望む期節です。この時期、街中にはクリスマスツリーやにぎやかなBGMがあふれています。しかし、一歩教会の礼拝堂に入ってみると、少し様子は違ってきます。アドベントクランツなど、いつもと違うものもありますが、全体的に華やかな印象はないと思います。聖卓の横に飾られていた花はありませんし、祭色は紫が用いられています。
 紫という色には慎みや悔い改め、そして待ち望むという意味合いが込められていますが、他の期節に用いる赤や白や緑と比べてどうでしょうか。日が落ちてしまい、シーンと静まり返った様子や、寒さに震えながら明かりを待ちわびる状況を思い浮かべないでしょうか。
 今日の聖書も、街中にあふれるにぎやかさとは全く対照的な、とても暗く恐ろしい箇所のように思えます。イエス様は聖書が書かれた時代におけるイスラエルの人々の宗教的・経済的な中心地であったエルサレムで、この言葉を語られています。そして人々の心のよりどころであったエルサレム神殿は、ずっとそのままであると信じていたことでしょう。
 しかし、エルサレム神殿はイエス様の死後、崩壊してしまいます。この福音書が書かれた頃にはすでにエルサレム神殿は崩されていたと考えられています。まさに「天体が揺り動かされる」ほどの体験を、福音書の読者はすでに経験していたのです。
 そしてわたしたちにとって、このことは決して他人事ではないと思います。絶対に揺らぐことなどないと思っていたものが動く。グラグラと動いてしまう。考えられないことが起こってしまう。毎日のようにニュースで目にする事件や事故、自然災害。さまざまな出来事を暗い気持ちで見ていくたびに、イエス様が言われた、動くはずのない天体が揺り動かされるというその状況に近づき、世の終わりが間近まできているのではないか、そう感じるのはわたしだけではないと思います。
 わたしたちは、このイエス様の言葉を聞く時に、心を騒がせ、目を伏せてしまうかもしれません。しかし同時にイエス様は言われます。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」と。
 身を起こして頭を上げる、わたしたちはどのような時に、そのように出来るでしょうか。確かな希望を与えられた時に、人はそのようにできるのではないでしょうか。今の現実を見てどうしようもないとつぶやく。しかしその中で、イエス様がわたしたちの内に来てくださるという確かな希望、約束を与えられるのです。「ああこれで、歩いて行ける」。そう心から思えたときに、わたしたちはようやく、下を向かざるを得なかった顔を上にあげることができ、歩いて行けるのではないでしょうか。

11月22日 降臨節前主日(マルコ10:13-16―印刷用PDFはこちら

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はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
(マルコによる福音書10章15節)

 あるところに、一人の男の子がいました。その子は毎日、イエス様に会いたいとお祈りをしていました。ある日、男の子の夢の中にイエス様が出て来ます。そして言うのです。「山の上においで、わたしはそこで待っているから」と。
 目を覚ました男の子は、山に行こうと決心します。でも何を持って行ったらいいかわかりません。そこで隣の家の物知りなピーターおじさんに、アドバイスをもらいます。
 ピーターおじさんは、食べられたり傷にきく植物を調べたりするために、図鑑を持って行くように言います。またおじさんは、寒さに困らないようにお父さんのコートを着ていったらいいと、男の子に告げます。
 男の子は家に帰るとおじさんに言われたとおり、図鑑をリュックに入れ、お父さんのコートを着て、出かけます。それともう一つ、手に大切な何かを握りしめて。
 山に向かって、最初は調子よく歩いていた男の子ですが、だんだん疲れてきます。それもそのはず、背中のリュックには重たい図鑑が入っています。男の子は疲れてお腹もすいてしまい、座り込んでしまいました。その時、男の子の頭の上に、何か落ちてきます。見るとそれはリンゴでした。男の子は思いました。「ぼくは今、イエス様に呼ばれてここに来たんだ。だから食べ物の心配なんていらない。この図鑑は置いていこう」。
 さて、男の子は山頂に近づいてきました。ところが男の子の目の前に、大きな岩が立ちはだかります。でもよく見ると、岩には隙間があいています。男の子は隙間に入り、通り抜けようとしました。でもどんなに頑張っても、岩の向こう側に行くことができません。男の子は思いました。「そうだ、このコートを脱げば向こうに行けるかもしれない。イエス様が呼ばれたんだから、寒さの事なんか気にしなくていいはず」。
 コートを脱いで岩を通り抜けると、見事に男の子は向こう側に行くことが出来ました。いよいよ山頂に着き、あたりを見渡すと、イエス様が手を差し伸べています。「よく来たね。さあ、この手につかまりなさい」。しかし男の子は手に何かを握りしめていて、イエス様の手を掴むことが出来ません。男の子は言いました。「僕が今持っているのはね、きれいなガラス玉なの。困ったことがあった時に、お金の代わりに使えると思って持ってきたんだ。でももう必要ないや。だってイエス様が一緒にいてくれるんだもん」。男の子はそう言うとガラス玉を投げ捨て、イエス様の手を握りしめました。
 イエス様は言われます。「子どものように」と。わたしたちは自分のまんまで、イエス様の元に向かっているでしょうか。いつまでも自分の大切な物を握りしめ、あなたに差し伸べられたイエス様の手を、掴むことができなくなってはいませんか。

11月15日 聖霊降臨後第25主日(マルコ13:14-23―印刷用PDFはこちら

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だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。
(マルコによる福音書13章23節)

 今日の箇所の最初に、このような言葉が出てきます。
 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――」
 こう言われても、憎むべき破壊者っていったい誰なのか、ピンときますでしょうか。立ってはならない所ってどこなのでしょう。よく分からないという方も多いのではないでしょうか。
 しかしマルコ福音書が書かれた時代の人々にとっては、この言葉を聞いて思い出すことがありました。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」というのは、神殿の聖所に偶像を立てて、礼拝させる者が出るということを示します。例えば旧約聖書続編のマカバイ記には、シリアの統治者であったエピファネスの記事が出てきます。人々の中にはその出来事を想起した人もいたでしょう。あるいは紀元40年ごろに、ローマ皇帝が自分の立像を神殿に建てようとしたこともありました。このことを思い起こす人もいたに違いありません。
 当時の人たちは、イエス様の「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」という言葉を聞いただけで、それが何を意味するのか悟ったのではないでしょうか。
 ではわたしたちはこの言葉をどのように聞くのでしょう。これは2000年前に終わった出来事だ、エルサレム神殿が崩壊した時点で完了したのだ、それで終わらせていいことなのでしょうか。
 今、わたしたちの耳には様々なニュースが飛び交います。恐ろしい出来事、悲しい事件、それらを見るときに、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」、神さまが本来立つべきところに立とうとする存在に気づかされます。
 そしてわたしたち自身も、自らを捨てきれず、神のように「立ってはならない所」に立っていることすらあるのかもしれないのです。そう考えていくと、このイエス様の言葉は、決して過去の物ではありません。
 イエス様は言われます。「だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく」と。十字架に向かうその前に、気をつけなさい。よく見ておきなさい、あなたの周りを、あなた自身をもよく見なさいと言われるイエス様。そこには、わたしたちを滅びの中に叩き落とすのではなく、生かそうという思いの中で言われたのです。
 わたしたちはイエス様に生かされるものとして、目を開け、耳を澄まして、神さまの時を待ち望みたいと思います。

11月8日 聖霊降臨後第24主日(マルコ12:38-44―印刷用PDFはこちら

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イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」
(マルコによる福音書12章43節)

 イエス様は人々が賽銭箱にお金を入れている様子を見ておられました。大勢の金持ちが賽銭箱にたくさんお金を入れていたその横に、やもめがやってきます。そして小銭を二枚入れました。
 この当時の賽銭箱は、神社などにある木の箱で出来たようなものではなかったそうです。金属でできていて、先が広がったラッパのような形をしていました。その広がった口に、コインを投げ込むわけです。
 想像してみてください。金貨が投げ込まれたら、どんな音がするか。きっと甲高い音がしたでしょう。銀貨だっていい音だと思います。また、何枚もの硬貨が投げ込まれたら、それこそ美しいハーモニーを奏でたかもしれません。きっとたくさんのお金を入れた金持ちは思ったでしょう。「今、わたしの入れたお金の音が、みんなの耳に届いたに違いない。そしてきっと、神さまも喜んでいるだろう」。
 しかし、イエス様は彼ら金持ちではなく、貧しいやもめに目を留めます。たくさんのお金を入れた人々にではなく、貧しさのただ中にあるその女性を見るのです。
 彼女は賽銭箱に2レプトンを入れました。レプトン銅貨は、当時使われていた硬貨の中で、一番価値が小さいものでした。彼女はその2枚を賽銭箱に入れました。大勢の金持ちが入れた額とは比べ物にならない、小さな額です。しかしイエス様は、その彼女に目を留めたのです。
 イエス様は言われました。「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」。彼女は額にすると、ほんのわずかしか入れていないのかもしれません。でもイエス様の目から見たら、たくさん入れたのです。彼女はたくさん持っているものの中から余っている物をささげたわけではありませんでした。彼女はすべてをささげたのです。
 2レプトンを全部ささげると、彼女の生活はどうなってしまうのでしょう。明日から、いや今日これから、どうやって食べていくのでしょうか。小銭が二枚ある。それなら一枚だけをささげて一枚は取っておく、そんな選択はなかったのか。しかし実際に、彼女は、貧しいやもめは、レプトン銅貨を二枚ともささげたのです。
 その彼女を見て、イエス様は言います。彼女は誰よりもたくさん入れたと。そしてわたしたちに問いかけます。ではあなたがたはどうするのか。どこに立つのかと。
 イエス様はわたしたちのために、すべてをささげてくださいました。わたしたちはそのお恵みをいただきながら、有り余ったものの中からわずかなものだけをささげてはいないでしょうか。見つめ直したいと思います。

11月1日 諸聖徒日(マタイ5:1-12―印刷用PDFはこちら

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心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
(マタイによる福音書5章3節)

 今日の箇所は、イエス様が伝道を始められてから、まだ間もない頃の出来事でした。民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされたイエス様のもとには、あらゆる病気に苦しむ人たちが連れて来られます。それらの人々をイエス様はいやされます。
 こうして、さらに大勢の群衆がやって来ます。その群衆をイエス様は見ました。うなだれ、疲れ果て、いつになったらこの苦しみから逃れられるのかわからない。暗闇の中を歩かざるをえない、そのような群衆を、イエス様は見られたのです。
 イエス様はそのような人たちに語られました。一筋の光を求めてやってきた群衆に。その群衆の姿は、悲しみを抱えたまま、苦しみを担いながら、歩き続けているわたしたちの姿とも重ならないでしょうか。
 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 イエス様は目の前にいるそのような人たちに、開口一番、この言葉を告げられました。ここを少し丁寧に見ますと、原文では「幸いだ」という言葉が最初に単独で使われていることに気づきます。このことと山の上からイエス様が語られたという状況から、この言葉を「祝福の言葉」と捉えることもできます。イエス様が山の上から群衆に向かって手をかざし、「幸いだ」と言って祝福を与えておられる。そしてさらに「心の貧しい者よ」と呼びかけておられます。
 心の貧しい者、言葉だけをとらえると、寛大ではない人、そのように捉える方もおられるかも知れません。しかしここでいう心とは、霊という言葉です。霊において貧しい人。また貧しいという言葉も、財産がちょっと足りないというレベルではありません。何一つもたない、空っぽの状態をあらわします。
 つまり霊において貧しい人とは、もう無理だ、自分で歩いて行くことなどできないと感じ、神さまに「何とかしてくれ」と叫ぶしかない人のことなのです。神さまが憐れんでくれなければ、もう倒れてしまう。すべてを委ねるしかない。神さまに頼るしかない自分に気づき、神さまの前にただただ涙を流し続けている人たち、それが「心の貧しい人々」なのです。
 幸いだ。その言葉は今も、わたしたちに向かって、語り続けられています。あなたは幸いなのだ。神さまに助けを求める、叫び続けるあなたたちこそ幸いなのだ。その言葉がわたしたちの心に届いたときに、わたしたちは光を感じ、希望を見いだすことができるのです。

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