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ショートメッセージ2015年12月

12月27日 降誕後第1主日(ヨハネ1:1-18―印刷用PDFはこちら

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初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
(ヨハネによる福音書1章1〜2節)

 この「言(ことば)」と訳された語は、もともと聖書が書かれた原語、ギリシア語では「ロゴス」という言葉です。この「ロゴス」という語は、特にこの箇所では様々に訳されてきました。それだけいろいろなニュアンスをもった語だということでしょう。
 たとえば今から180年近く前に翻訳したギョツラフは、「かしこい者」と訳しました。また、「言霊」や「思い」、「み言葉」、「道(ことば)」など、色々な訳が見られます。このように、日本語だけでもこれだけの翻訳がなされています。しかしここで大切なのはどの訳が正しいかということではなくて、この箇所を読むときにそのたくさんの意味を思い起こし、噛みしめながら、その語を心に留めていくことだと思います。
 初めにことばがあった。この書き出しから始まる文章は、わたしたちに何を伝えているのでしょうか。「ことば」とわたしたちとは、どのような関わりがあるのでしょうか。
 「ことば」はわたしたちの元に来ました。そしてその「ことば」には、神さまの意志が働いています。わたしたちに命をもたらすために、救いの中へと引き上げるために、神さまは「ことば」を与えられたのです。
 この「ことば」こそ、イエス様です。神さまがイエス様をわたしたちに与えたことは、神さまの意志であり、ご計画です。神さまはわたしたちに手を差し伸べてくださいました。わたしたちを愛しているから、イエス様をわたしたちのためにお与えくださったのです。
 「ことば」であるイエス様は、肉となってわたしたちの間に宿ります。神さまの意志に従ってイエス様が肉体を取られ、わたしたちの間に宿られた。それがクリスマスなのです。
 実は聖書では肉という言葉は、あまり良い意味では用いられていません。肉は汚れの象徴、滅びを意味するものです。ということは、イエス様が「肉となる」ということは、さげすまれる存在になったということなのです。神さまは、一番低いところに愛する独り子を与えられました。それは低いところ、暗闇の中、絶望の淵にいるわたしたちの元にまで、イエス様が行くことができるようにするためです。
 わたしたちは決して一人ではありません。主の愛に結ばれ、支えられ、歩まされています。そのことを感謝したいと思います。み子はお生まれになりました。このわたしたちの間に。わたしたち一人一人の交わりの中に。
 クリスマス、おめでとうございます。

12月20日 降臨節第4主日(ルカ1:39-55―印刷用PDFはこちら

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主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
(ルカによる福音書1章45節)

 今日読まれた福音書は、イエス様の母マリアがエリサベトという親戚を訪ねた場面です。エリサベトは、洗礼者ヨハネのお母さんであり、洗礼者ヨハネとは、イエス様の先駆者と呼ばれる人物です。
 この二人の誕生には、共通点がありました。それはどちらも「ありえない」誕生だったということです。なぜありえなかったのか。エリサベトは高齢で、もうとうに子どもを産める状態ではありませんでした。そしてマリアは結婚もしていませんでした。でもその二人の身に、神さまの力抜きでは「ありえない」ことが起こったわけです。
 天使ガブリエルはマリアのところに来て言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。神にできないことは何一つない」。
 しかしこれらの言葉は、マリアだけに語られているのではなく、わたしたち一人一人の心に向けても語り続けられています。神さまから心が離れ、神さまから見たら本当にちっぽけな存在であるわたしたち一人ひとりに対しても声を掛けてくださるのです。
 マリアは言います。「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださった」と。マリアにとって天使のみ告げは、二重に「ありえない」ことだったのです。結婚もしていないわたしが、身籠るはずがない。そして、自分なんかは神さまに目を掛けてもらえるような者ではない。でも神さまは、そんなマリアの所にも来たのです。
 同じように、神さまはわたしたちにも、「ありえない」お恵みをくださった。わたしたちにイエス様を与えてくださったのです。
 今、このときに生きているわたしたちも、マリアであり、エリサベトです。
 あなたは今、マリアのように、神さまがあなたに対して働き、手を差し伸べてくださったことを感じています。その恵みを分かち合い、感じ合いましょう。
 あなたは今、エリサベトのように、神さまの力が目の前にいる人に働く、その目撃者、証人となります。そしてあなたの内に働く聖霊は、喜び踊り、賛美の歌を歌います。あなたはその声を聞くのです。
 わたしたちがたとえ暗闇の中にいたとしても、自分の力で歩けなかったとしても、神さまはそのみ手を差し伸べ、わたしたちを光へと押し出してくださる。イエス様をわたしたちに与えられ、わたしたちが光の子として歩んで行けるように、導いてくださるのです。その「ありえない」喜びに感謝しましょう。

12月13日 降臨節第3主日(ルカ3:7-18―印刷用PDFはこちら

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ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
(ルカによる福音書3章18節)

 イエス様と洗礼者ヨハネの二人がわたしたちに与える印象は、正反対かも知れません。優しいイエス様と厳しいヨハネ。何でも赦してくれるイエス様と怒るヨハネというように。
 今日の場面でもそうです。洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆は、ヨハネに言われます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と。しかし今日の福音書の最後の部分を読んでみると、このように書いてあるのですね。「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」。
 洗礼者ヨハネは福音を告げ知らせました。ヨハネは裁くためだけに来たのではありません。福音、グッドニュースを民に伝えに来たのです。まずわたしたちはそのことに気づかなければいけません。
 ではヨハネはどのようなことを民に伝えたのでしょうか。それは自分よりも偉大な方が来るということでした。だから、悔い改めるようにと、民に伝えたのです。
 悔い改め、それは180度向きを変えるということです。たとえば、ボートで沖にある島を目指していたとします。でもいつの間にか、波や風のために進路がずれたというくらいのことではないのです。まったく反対側を向いてしまった。このままでは絶対に、目的の島まで行くことができない状態なのです。ではどうしたらいいのか。まるっきり反対側に向きを変える、それが悔い改めなのです。
 「ではわたしたちはどうすればよいのですか」。今日の箇所に出て来る群衆や徴税人、兵士と同じように、わたしたちもヨハネに尋ねているのではないでしょうか。
 ヨハネはそれぞれに答えるのですが、そのいずれの答えにも共通していることがあります。それは、他人との関係を通してこのようにしなさいと、ヨハネが言っているということです。決して悔い改めは、自分の心の中だけの問題だけではないのです。自分の罪に気づき、神さまに心を向ける。それも当然大切なことなのですが、それだけではないのですね。あなたの隣にいる人に対して、あなたがどう接していくのか、そのことこそが大きな問題なのです。
 もうすぐ暗闇から一筋の光が差し込んできます。わたしたちはその光の方に向きを変え、正面から光を受け入れていきたい。そしてその光の中で、光を求めてうずくまっている人、光が見えず悲しんでいる人、暗闇の中で一歩も歩けない人に気づいていきたいと思います。
 光に包まれたわたしたちがなすべき事、それはわたしたちの周りにいる人と、光を感じあい、光を受け入れ、共に歩むことなのです。

12月6日 降臨節第2主日(ルカ3:1-6―印刷用PDFはこちら

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アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
(ルカによる福音書3章2節)

 今日の箇所、最初のところにこうあります。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」。この人間の歴史上のある一点において、一つのことがおこりました。それは、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」という出来事です。神の言葉が一人の人間、洗礼者ヨハネに降った日、そのときが、福音が宣べ伝えられる始まりでした。神さまの計画、救いの計画が人間の歴史に介入してきたのです。
 わたしたちはともすると、自分の力で神さまの救いを得ていると思うこともあるかもしれません。しかし決してそうではありません。一方的に神さまが、わたしたちの歴史に首を突っ込んでこられたのです。神さまに背いたままで滅びへと向かっていく人間の姿が、たまらなかったのかもしれません。神さまは独り子であるイエス様を与え、そして今まさに救いの計画を開始されたのです。
 洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えます。イエス様が登場する前に、道を備える者として活動していきます。
 わたしたちが降臨節に洗礼者ヨハネの物語を読むのは、彼を通して語られる言葉によって、わたしたちの心が備えられるためです。ヨハネの言葉に耳を傾けることによって、まもなく来られるイエス様を迎えられるように、準備をするのです。
 洗礼者ヨハネは荒れ野で活動していました。そしてその荒れ野で、神さまの言葉がヨハネに降りました。荒れ野というと、どのようなイメージを持つでしょうか。イスラエルの人々が荒れ野と聞くと連想するのは、出エジプトの出来事だったでしょう。荒れ野を40年間さまよい、約束の地にたどりつくまで、大変な思いをした。しかし同時に、彼らは荒れ野の旅の間に十戒を与えられ、また雲の柱・火の柱によって導かれ、さらにマナによって養われていったのです。つまり荒れ野は神さまのお守りを感じ、神さまが共におられることをしることの出来る場所でもあったのです。
 荒れ野は寂しい所です。何にもない所です。絶望ともいえるかもしれない。だからこそ、神さまに頼らなければ、生きていけない場所です。
 一方、今わたしたちがいるところには、物が多すぎます。手放せない物もあれば、誘惑も多いことでしょう。そこから一歩身を引いて、荒れ野へと心を向かわせることが、この降臨節に求められているのではないでしょうか。
 わたしたちが荒れ野に導かれたときにこそ、神さまの言葉であるイエス様が、わたしたちの心の中に降ってくださるのです。
 今また、神さまのご意志でわたしたちに救い主が与えられようとしています。わたしたち一人一人心を備えて、よき準備の時としていきましょう。

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