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ショートメッセージ2016年1月

1月31日 顕現後第4主日(ルカ4:21-32―印刷用PDFはこちら

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そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」
(ルカによる福音書4章24節)

 イエス様は生まれ育ったナザレの会堂で、次の聖書の言葉を朗読されます。
 主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。
 そして会堂にいるすべての人の目がイエス様に注がれる中、イエス様は今日の箇所の冒頭の言葉を語られました。
 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。
 この言葉、そしてその後に続けられたイエス様の発言を聞いて、会堂にいた人たちは怒りに震えます。そして崖から突き落としてしまおうとさえ思うのです。
 彼らは何に腹を立てたのでしょう。理由は二つあります。まず大工の息子であるイエス様が、会堂で話をしているということに対してです。その当時、大工の息子は大工であることが普通でした。ましてや、自分たちの教師になどは、まずなれませんでした。イエス様の昔のことを知っている彼らだからこそ、その言葉が素直に耳に入ってこなかったのでしょう。
 そしてもう一つ、彼ら会堂に来ていた人たちは、まじめに安息日に礼拝する自分たちにこそ、救いが与えられていると思い込んでいたのではないでしょうか。しかしイエス様の言葉によると、救いにあずかるのは自分たち以外の人間、それも神さまに見捨てられ、神さまのことを第一に考えていないとしか思えない人たちでした。
 しかしイエス様はその生涯の中で、小さくされ、弱くされた人々の傍らに立ってこられました。この言葉は、これから神さまのみ業を行うイエス様はどこに立つのか、そのことを宣言しているのです。
 わたしたちの社会の中でも、一歩外に出て、視線を自分たちの社会の枠の外に向けると、その枠組みから追い出された人たちや、差別され抑圧された人たちが、本当にたくさんいることに気づきます。神さまを頼るしかない現実の中で、歩むこともままならない、そのような人たちの存在があります。
 その人たちの元に、イエス様は立たれます。ではわたしたちは、どこに心を向けるべきでしょうか。誰のために祈り、誰のそばに寄り添うことが、神さまのみ心に適ったことでしょうか。
 あなたはどこに立つのか、イエス様は常にわたしたちに問われているのです。

1月24日 顕現後第3主日(ルカ4:14-21―印刷用PDFはこちら

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そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(ルカによる福音書4章21節)

 ルカによる福音書によれば、イエス様はナザレで過ごされたあと、洗礼者ヨハネから洗礼を受けます。そして荒れ野で悪魔から誘惑を受けられ、ガリラヤへと戻られます。そしてガリラヤで伝道を始められます。今日の箇所は、その場面が描かれています。
 ガリラヤに帰ったイエス様は、“霊”の力に満ちていたと書かれています。神さまの力がイエス様を通して、今にも人々の間に顕されようとしているのです。
 イエス様がガリラヤの会堂で語られた聖書の言葉は、次のようなものでした。
 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
 そして続けて、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られます。
 神さまがイエス様をなぜわたしたちの元に遣わされたのか、その答えがここにあります。イエス様は宣言されているのですね。神さまの恵みが今、このような人たちの元に顕れるのだと。
 「このような人たち」、それは決して裕福な人や満たされた人たち、また宗教指導者や権力者を指してはいませんでした。貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人、その人たちの元に、神さまは手を差し伸べられているのです。
 当時の社会では、貧しい人たちや社会から疎外された人たちは、救いの対象ではないと考えられていました。でも、イエス様はその人たちと共に生き、そして十字架へと向かわれました。
 わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは神さまから見たら、ちっぽけな存在です。こんな自分なんかに神さまが目を掛けてくださるとは思えない、そう感じている方も多いのではないでしょうか。
 しかし神さまは、そのようなわたしたちだからこそ、大切にしてくださるのです。そのことを、イエス様は伝道の開始に語られました。
 今、神さまの愛がイエス様を通して顕されました。わたしたちはその愛に、これからも応えていきましょう。

1月17日 顕現後第2主日(ヨハネ2:1-11―印刷用PDFはこちら

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イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
(ヨハネによる福音書2章11節)

 今日の箇所には、イエス様がガリラヤのカナでおこなったしるしが書かれています。イエス様たちはそこでおこなわれた婚宴に招かれていたのですが、途中でぶどう酒がなくなります。
 その様子に気が付いたイエス様の母マリアは、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と告げますが、イエス様はマリアを冷たく突き放してしまいます。それでもマリアは、きっと神さまの力がイエス様を通してあらわされるに違いないと信じていたのでしょう。
 マリアは召使たちに言います。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と。
 そしてイエス様は、そのしるしをおこないます。そしてそのためには、召し使いたちの働きが必要でした。1つの水がめの大きさは80〜100リットルです。その六つの水がめに水をいっぱいになるまで入れる。水を運んでくるのは一苦労です。何往復もしたに違いありません。
 「何で水が必要なのですか」、「要るのはぶどう酒でしょう」、「本当にあなたを信用していいんですか」、そんな言葉が召し使いの口から出ても、何ら不思議ではありません。しかし彼らは言われる通りにします。イエス様の言葉どおり、水がめに水を入れました。そこに神さまの力があらわれたのです。
 水がぶどう酒になるということは、白けてしまった宴会が、喜びの食卓にかわるということです。神さまの祝福があふれる宴の場が、そこにあらわれるのです。このしるしはただ単に、水がおいしい飲み物になったというものではありません。神の国が今、到来した。その喜びにあふれる祝宴が今、始まった。それが今日の聖書がわたしたちに伝えてくれる、よろこびの知らせなのです。
 この2000年間、わたしたちの信仰の先輩方も、「水がめに水をいっぱい入れなさい」というイエス様の言葉を聞いて、絶対に自分たちが汲んできた水はぶどう酒に変えられるとの希望を胸に、歩んでこられました。
 そして今も、神さまはイエス様を通して、わたしたちに関わって下さっています。わたしたち一人ひとりをも、神の国の宴に来るようにと招いておられるのです。
 「水がめに水をいっぱい入れなさい」、その言葉は、わたしたちにも語られています。わたしたちの手で、水を汲みにいくのです。必ずその水は、ぶどう酒へと変えられます。神さまの栄光がわたしたちの前にもあらわされるのです。

1月10日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日
(ルカ3:15-16,21-22
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聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
(ルカによる福音書3章22節)

 教会では12月25日の降誕日の後、1月6日に顕現日を迎えました。そして大斎節までの期間を、顕現節として守っていきます。顕現とは辞書を引くと「はっきりと現れること、明らかにあらわし示すこと」とあります。特に神仏について、この言葉は用いられるようです。
 したがって教会で顕現とは、神さまの働きがはっきりとした形であらわれることだということができます。ギリシア正教やロシア正教などの東方教会の中には、1月6日に三つの「顕現」を記念するところがあるそうです。その三つとは、イエス様の降誕、イエス様の洗礼、そしてイエス様の最初の奇跡と記されているカナの婚礼の場面です。それぞれにおいて、神さまの意志がわたしたちの中にはっきりと働き始めたことを祝うのです。
 今日の箇所は、イエス様の洗礼の場面でした。福音書を読んでいきますと、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」という記述があります。これこそまさに顕現なのです。つまり、神さまのみ手がわたしたちに見えるような形で伸ばされたということなのです。
 イエス様は民衆の間で、洗礼を受けられました。洗礼者ヨハネは、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。ではイエス様は、罪が赦されるようにと洗礼を受けられたのでしょうか。そうではありません。イエス様が民衆の間にいるということ、そして神さまの恵みがイエス様を通してやって来たということが、大切なのです。
 例えばわたしたちが、冷たいお風呂に入っていたとします。手足を伸ばすこともできず、ブルブル震えているだけ。そのようなときに、上の方から「温かくなれ、温かくなれ」といくら言われても、わたしたちの体は冷え切ったままでしょう。でもそこに、とてつもなく熱い何かが入ってきたら。そしてその熱は決して冷めることがなく、天から与えられているものだとしたら。
 もうわたしたちの体は冷えることはないと思います。外に出ても、また体が冷えたらいつでも戻ってきたらいいのです。
 イエス様は洗礼を受けられました。それはわたしたちの間に、ご自身を通して神さまからの恵みをあらわすためなのです。わたしたちも洗礼を受けることで、その恵みにあずかることができるのです。

1月3日 降誕後第2主日(マタイ2:13-15,19-23―印刷用PDFはこちら

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「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
(マタイによる福音書2章23節b)

 今日の福音書の場面は、どのようなことをわたしたちに伝えようとしているのでしょうか。一言で言うと、神さまのご計画が開始されたということです。イエス様の誕生とは、神さまがみ手を伸べ、わたしたちの歴史の中に介入して来られた出来事であることを、伝えようとしているのです。
 イスラエルの人々は、救い主を待ち焦がれていました。神さまが自分たちを暗闇から光へと引き上げてくださることを、心待ちにしていました。それらのことは、預言という形で旧約聖書の中に示されていました。そしてマタイ福音書は、イエス様こそわたしたちが待ち望んでいる救い主だと告げます。旧約の預言者を通して、わたしたちに示されていた人物だというのです。
 今日の箇所を見てみると、「実現した」と繰り返し書かれています。イエス様の出来事は、イエス様やその家族、あるいは当時の人々の意志でなされたことではありません。神さまのご計画によってなされた、神さまの大いなるみ業なのです。
 乳飲み子イエス様がエジプトに逃れ、そしてユダヤへと戻ってきた出来事、これはイスラエルの人たちにとって、出エジプトの物語を思い起こさせるものです。彼らは苦しみの中で、新しいモーセが来て、自分たちを解放してくれることを求めていました。
 その解放が今、イエス様の降誕によって始められたのです。聖書の預言は、そして神さまの約束は二千年前にすでに始まり、今を生きるわたしたちも、その大きな救いのご計画の中で日々を過ごしているのです。
 わたしたちには、嬉しいことや楽しいことがたくさんあるでしょう。しかし同時に、自分の力だけではどうしようもない苦しみも悲しみも襲ってきます。なかなか光が見えず、歩くことすらできない、そのような思いを全く持たない人はいないと思います。
 しかし、聖書を通して神さまはわたしたちに告げるのです。恐れるなと。あなたたちの状況はよく知っている。だからわたしは、あなたたちを救うために、愛する独り子を遣わしたのだと。それがわたしの思いなのだと。
 その神さまの大きな愛に裏付けされたご計画の中で、わたしたち一人ひとりを闇から救い出すためになされた出来事が、イエス様の降誕物語なのです。
 この一年、神さまの救いの業を感じながら、過ごしてまいりましょう。

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