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ショートメッセージ2016年2月

2月28日 大斎節第3主日(ルカ13:1-9―印刷用PDFはこちら

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園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
(ルカによる福音書13章8節)

 イエス様は一つのたとえを語られました。
 ある人がいて、ぶどう園にいちじくの木を植えました。でも三年たつのに、一向に実を結びません。そんな木など切ってしまえ、と木を植えた人は園丁に命じます。しかし園丁は切るのを待ってもらうようにと、その人に頼むという話です。
 ぶどう園の所有者は、いちじくの木を植えます。ぶどう園にいちじくの木、一見不釣合いです。ぶどう園の主役はぶどうの木であり、いちじくの木は、ぶどう園ではよそ者です。ぶどうの木にしてみれば、何でこんな木が自分たちのそばに植えられたのかと思ってもおかしくはありません。
 しかし、わたしは思います。わたしたちは今、神さまに集められています。そのわたしたちは、いちじくの木です。ぶどう園にはふさわしくない木だとしても、そこに植えられました。神の国にふさわしくなくても、その交わりの中に招かれたのです。
 ではわたしたちは神さまの望みどおりに、実をつけることができるのでしょうか。神さまが求めたように、自分の力で実を結び、「神さまどうぞ、この実をお食べ下さい」と胸をはって言える人などいないはずです。三年たっても実をつけることのできないいちじくの木のように、いつ切られるのか、いつ斧を振りかざされるのか、わたしたちの心は怯え、恐れに捕らわれているかもしれません。
 しかしそこでとり成しをしてくださる人がいます。「たとえ話」の中では園丁、わたしたちと神さまとの関係の中ではイエス様です。
 彼は言います。「このままにしておいてください」と。彼は木を切り倒さずに、そのまま待っておいてほしいと、取り成しをします。一年待てば状況は変わるのでしょうか。そんな保証はまったくありません。しかし園丁は、いちじくの木のために働きます。木の周りを掘って、肥しをやるのです。
 肥料を空からばらまくのではありません。1本のいちじくの木のために、その周りを掘って肥料を与えます。想像してみてください。木の周りを掘るときに、どうするのか。根っこを傷つけないように、丁寧に掘るはずです。その木の元に膝をつき、しゃがんでその木が実をつけるように、願いながら掘る姿。その姿こそが、わたしたち一人ひとりに対するイエス様のお姿なのです。
 そして肥しを注ぎ込みます。わたしたちに対する肥しとは、イエス様ご自身です。イエス様は十字架によって、その身をささげられました。わたしたちが実を結ぶように、イエス様は自らを与えてくださいました。それがわたしたちに与えられた神さまの恵みなのです。
 この大きな恵みに感謝し、実を結ぶことができるよう、願い求めていきましょう。

2月21日 大斎節第2主日(ルカ13:31-35―印刷用PDFはこちら

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だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。
(ルカによる福音書13章33節)

 ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエス様に言いました。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
 ファリサイ派の人々は、イエス様が自分たちの近くにいると自分たちにも危害が及ぶと感じ、イエス様を排除しようとしたようです。そしてヘロデは、イエス様がいることで自分の心が乱されると思い、イエス様を殺そうとしていました。
 このファリサイ派の人々とヘロデの姿は、わたしたちの姿と重なります。わたしたちはイエス様を受け入れたものの、その言葉によって自分が苦しくなったら言っていないでしょうか。イエス様、ここを立ち去って下さい。ここから出て行ってくださいと。
 また、自分の安らぎだけを求めて、イエス様の言葉がその安らぎを犯そうものなら、その言葉を頭の中から抹殺してしまう、ヘロデのようにイエス様の言葉を殺そうとしてはいないでしょうか。
 しかし、そのような人々の姿に気づきながらも、イエス様は言われます。「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と。「ねばならない」と訳されている言葉には、神さまの意志を表す語が用いられています。つまりイエス様は、神さまの意志によって、今日も、明日も、その次の日も、ご自分の道、十字架に向けて進むのです。それは何故でしょうか。それはほかならないわたしたちのためなのです。十字架の死によって、わたしたちを救うためでした。
 どれだけ人間がそっぽを向いたとしても、イエス様を邪魔者扱いし、神さまの手を離し、自分の力で生きていくと息巻いたとしても、神さまは何度だって、こっちにきなさい、わたしの元においで、と呼びかけ、心の扉をノックし続けてくださるのです。
 イエス様の十字架、それは神さまの憐れみであり、わたしたちを生かしたいと願う神さまの意志です。今日も、明日も、その次の日も、わたしたちのために十字架へと歩まれる、そのイエス様の歩みに心を留め、わたしたちも共に歩む者となりましょう。
 神さまはいつもあなたを呼んでおられます。

2月14日 大斎節第1主日(ルカ4:1-13―印刷用PDFはこちら

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悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
(ルカによる福音書4章13節)

 先週の水曜日から大斎節に入りました。聖公会では大斎節の最初の主日には、荒れ野の誘惑の箇所が読まれます。
 イエス様は荒れ野で四十日間、何も食べずに空腹をおぼえられました。そこに悪魔は三つの誘惑をおこないます。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」、「もしわたしを拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」、イエス様は身も心も極限状態でしたが、聖書のみ言葉をもってこれらの誘惑を退けられました。
 同じようにわたしたちもこの物語を読むときに、イエス様のように悪魔の誘惑に対し、聖書の言葉をもって打ち勝ちたいと思うのではないでしょうか。
 しかし残念ながら、わたしたちはそれが出来ないことを知っています。ちょっとした誘惑にさえ負けてしまう。神さまのことを第一に考えずに、自分のことを優先して考えてしまう。そのような弱い自分のことを、よく知っているのです。
 さらに、「イエス様、あなたが本当に救い主だったら」、「イエス様、あなたが本当にわたしたちのことを愛してくれているのならば」、そのような叫びで、わたしたちは時としてイエス様を誘惑しているようにも感じるのです。
 わたしたちは毎年この時期に、この誘惑物語に聞きます。それは何故でしょうか。あなたがたは悪魔から誘惑を受けるかもしれないが、イエス様のように聖書の言葉ではねのけなさい。それもあるでしょう。しかしわたしは思うのです。わたしたちは時にイエス様を誘惑してしまう者であることを自覚するために、このみ言葉に聞くのではないかと。わたしたちは神さまのみ心ではなく、自分の思いを優先して神さまを試みてしまう、そのような弱い人間なのです。そのことに改めて気づくために、わたしたちはこの誘惑物語に聞くのではないかと思うのです。
 イエス様が誘惑物語で悪魔を退けた聖書のみ言葉は、そのようなわたしたちに対しても語られています。「人はパンだけで生きるものではない」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、「あなたの神である主を試してはならない」。これらのみ言葉に、いつも忠実に生きていけるでしょうか。自分の力だけでは、無理なのではないでしょうか。だから、わたしたちにはイエス様が必要なのです。イエス様が十字架によってわたしたちの罪を背負い、復活してわたしたちと共にいて下さるから、わたしたちはこうして歩んで行くことができるのです。
 この大斎の期間、自分を見つめ直しましょう。そして、このようなわたしたちをも受け入れてくださる神さまの愛に感謝していきましょう。

2月7日 大斎節前主日(ルカ9:28-36―印刷用PDFはこちら

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すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
(ルカによる福音書9章35節)

 イエス様は、今日の箇所のすぐ前にあるルカによる福音書の9章22節で、このような言葉を言われました。
 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
 今日の箇所は、イエス様がこう伝えてから八日ほどたったときの出来事です。イエス様の言葉を、何度も弟子たちは思い返していたでしょう。しかしイエス様はその意味を伝えることなく、祈るために山へ登られます。ペトロ、ヨハネ、ヤコブという三人の弟子たちを連れて。
 イエス様に連れてこられた弟子たちは、イエス様の顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いてモーセとエリヤと語り合っている姿を見ます。
 三人が語り合っていた内容は、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最期についてでした。エルサレムで起こる一連の出来事、十字架に始まって、復活、昇天に至るまで、その神さまからの約束が成就するということを語っておられたのです。
 イエス様を通して、神の国の先取りを垣間見たペトロは言いました。「仮小屋を三つ建てましょう」と。ペトロはイエス様と共に、そこに留まりたかったのでしょう。しかしそれはイエス様の望まれることではありませんでした。
 イエス様は、再びいつもの姿に戻られて、山を下りていきます。ふもとには大勢の群衆がいました。イエス様にいやして欲しい、イエス様の言葉を聞きたい。希望を見失い、イエス様にすがるしかない人たちがそこにいました。そしてすべての人たちのために、わたしたち一人一人のために、イエス様は十字架の道を歩むために、山から下りてこられるのです。
 そしてイエス様に従うわたしたちも、山に留まってはいけないのです。イエス様と共に、山を下りるのです。礼拝の終わりに、わたしたちは派遣の言葉を唱えます。「ハレルヤ、主と共に行きましょう。ハレルヤ、主のみ名によって」。その言葉によって、わたしたちはそれぞれの地に遣わされるのです。
 十字架へと歩まれるイエス様の道の後を、自分の十字架を背負ってついて行く。苦しいこと、辛いことも多くあるでしょう。しかしその時に、思い出しましょう。イエス様が示してくださった、十字架の向こうにある約束を。わたしたちを生かすために罪を贖い、復活して共にいてくださる、イエス様のその姿を。

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