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ショートメッセージ2016年3月

3月27日 復活日(ルカ24:1-10―印刷用PDFはこちら

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あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
(ルカによる福音書24章6節)

 今日、この復活日に読まれる福音書には、イエス様が出て来ません。女性たちはイエス様が葬られた墓に行くのですが、そこで目にしたものは空っぽのお墓だけ。本来ならイエス様がいるはずの場所だったのに、そこにイエス様はいなかった。
 わたしたちの思い描く復活は、ともすると目の前で死人がむくっと起き上がる、そのようなイメージなのかもしれません。しかし聖書が描くイエス様の復活は、「そこにいなかった」という出来事を通して語られます。
 墓の中にいないということ、それはイエス様が死の中にはもういないということ、そしてイエス様は生きているということを示しています。
 墓の中で途方に暮れていた婦人たちの元に、輝く衣を着た二人が現れます。彼らは言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。イエス様は死者の中にはいません。生きているのです。
 このことは、わたしたちにとって、大きな喜びです。わたしたちはイエス様に会うために、墓に行く必要がなくなったのです。イエス様は生きている。その言葉は、今も、イエス様がわたしたちの周りで働かれ、わたしたちと共に歩んでくださる、そのことを意味しているのです。
 わたしたちは毎週、主日に礼拝をささげています。何故でしょうか。イエス様に会うためではないですか。イエス様にお会いし、「大丈夫、わたしはいつもあなたと共にいる」という宣言を聞きたいからではないでしょうか。
 わたし自身、本当にこの日曜日が待ち遠しくって、たまらないんですね。とってもうれしい。みなさんにお会いできるってこともあります。お昼ごはんも楽しみです。でもそれ以上に、一緒に賛美して、一緒に祈って、一緒にみ言葉を聞いて、そして一緒にイエス様を、神さまの愛を感じることができる。こんなに素晴らしいことはないのです。
 わたしたちはイエス様に出会います。復活し、わたしたちと共にいると約束してくださったイエス様が、たしかに一緒にいてくださいます。
 喜びましょう。大いに喜びましょう。イエス様は復活なさいました。そしてわたしたち一人ひとりも、聖書の婦人たちのように、墓を出て、伝えるのです。あの方はもう墓にはおられない。あなたのために復活なさったのだと。

3月20日 復活前主日(ルカ23:1-49―印刷用PDFはこちら

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イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
(ルカによる福音書23章46節)

 わたしはこの時期になると、イエス様の生涯を描いた映画をよく見ます。たくさんの種類の映画が作られています。それぞれ捉え方や解釈の仕方など違いが見られます。しかしすべての作品に共通していることは、イエス様の十字架の場面が強烈に描かれているということではないでしょうか。
 傷だらけで血だらけのイエス様がそこにいて、鞭打たれ、十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩いて行く。何度も倒れ、体を引きずるようにして歩むイエス様。そして十字架の上で叫び声をあげ、息を引き取られます。目を背けたい、耳をふさぎたい、そのような場面です。でもわたしたちは必ず、その場面に向かわなければならないのです。
 わたしたちはこの時期、十字架へと向かうイエス様のことを心に留めます。わたしたちは自分の十字架を背負い、イエス様のみ跡を歩んでいるでしょうか。自分の十字架どころか、イエス様を見捨ててしまってはいないでしょうか。祈ることを忘れ、心の目を閉じてはいませんか。イエス様との関係が重荷になり、わたしの前から消えてくださいと叫ぶ、まるで「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ民衆のように、イエス様に向かって叫んだことはなかったでしょうか。
 イエス様により頼むしかないのに、何度もイエス様を裏切ってしまう自分の姿に気づいてしまうとき、わたしたち自身がイエス様を十字架につけ、木に打ち付け、墓穴にいれた張本人であることを知るのです。
 しかしイエス様は、このようなわたしたちのために祈ってくださいます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。
 わたしたちはイエス様を裏切ったユダです。イエス様のことを知らないと言ったペトロです。イエス様を十字架につける決断をしたピラトです。十字架につけろと叫んだ民衆の一人です。しかしそんなわたしたちのためにも、イエス様はとりなしの祈りを祈ってくださいます。
 わたしたちに与えられた希望はこれです。わたしたちがどんな人間でも、十字架の上からわたしたちのために祈ってくださる。わたしたちが赦されるよう、とりなしてくださる。だからわたしたちは、イエス様の十字架の元に進もうとすることができるのです。自分の十字架を背負い、歩もうと促されるのです。
 来週、わたしたちはイエス様の復活の日を迎えます。その日まで一日一日、イエス様の十字架への道を思い返しましょう。そしてわたしたちに与えられた大きなお恵みを感じ、共に喜びの朝を心からお祝いできたらと思います。

3月13日 大斎節第5主日(ルカ20:9-19―印刷用PDFはこちら

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戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
(ルカによる福音書20章16節)

 イエス様はぶどう園と農夫のたとえを語られました。ある人がぶどう園を作って、農夫に貸します。地主と小作人の関係です。そして主人は、長い旅に出かけてしまいます。農夫に自由と責任を与えて、自分は遠くに出かけるのです。農夫たちはきっと、知恵を出し合い、力を合わせて働き、収穫にこぎつけたのではないでしょうか。
 そして収穫の時期を迎えます。主人は収穫を納めるようにと、農夫たちの元に僕を送ります。しかし農夫たちはそれを拒否します。「このぶどうは自分たちが汗水たらして作ったものだ。絶対に渡すものか」。「自分は働いていないくせに、良いところばかり横取りしやがって」。そう思ったのかもしれません。もしわたしたちが農夫としてぶどう園で働いていたらどうでしょうか。わたしたちも農夫たちと同じように、僕を袋叩きにし、侮辱し、追い返し、傷を負わせて放り出すでしょうか。
 しかし一方で、わたしたちは気づいています。この農夫たちは勘違いしていることに。農夫たちが働いた場所は主人のぶどう園であり、ぶどうの収穫がおこなわれたのは主人のぶどうの木なのです。農夫は何も持っていなかった。すべては与えられたものだったはず。
 けれどもこのことは、わたしたちの今の生活にも見られることです。わたしたちのこの体は自分で造り上げたものでしょうか。違います。神さまから与えられたものなのです。ある人はこれを、神さまとのレンタル契約だと言っていました。
 そして、一人ひとりに与えられた賜物を生かして歩みます。いろんな人生がそこには生まれます。でもどんな人生を歩んだ人にとっても起こること、それは死です。そして死の時には、人は地上のものを何一つ持たずに、天へと召されていきます。いくらお金を持っていても、土地や豪邸があっても、そして肉体もすべて、置いていかないといけない。神さまとのレンタル期間が終了したのです。
 しかしわたしたちは、ぶどう園の農夫のように勘違いしてしまうのです。すべて自分の力で得たのだと。わたしたちは何一つ持たずにこの世に来たのに、神さまの恵みによって、こんなにも満たされている。それが分からなくなってしまうのです。
 イエス様は、そのようなわたしたちのために十字架に向かわれました。人々に躓きの石として放り出され、見捨てられたイエス様。しかし十字架の死から甦り、復活されます。隅の親石となって、わたしたちを砕き、新しく生きるようにするために。
 イエス様の十字架は、わたしたちを滅びへと向かう恐れから解放し、新たな生へと向かわせる、神さまからの大いなるお恵みなのです。

3月6日 大斎節第4主日(ルカ15:11-32―印刷用PDFはこちら

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だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。
(ルカによる福音書15章32節)

 今日の物語の中で、父から分けられた財産を使い果たし、空腹のあまり豚の餌までも食べようとした弟は、父の元に戻ることを決心します。もしあなたがお父さんの立場だったらどうしますか。当時の社会において、生前の父親から財産を相続することはありえないことでした。それは、父との関係を断つことを意味していたのです。そのような息子がノコノコと帰ってくる。ちょっとやそっとじゃ許してやれないと思うのが普通ではないでしょうか。
 しかしこの父親は違います。父親は遠く離れている息子を見つけて、走り寄ります。息子は手紙などで予告して帰ってきたわけではありません。ということは、この父親はいつも待っていたのです。きっと今日こそは帰ってくる、あの向こうの山から息子は必ず帰ってくる、そのことだけを信じて待っていたのではないでしょうか。
 息子は父親との関係を断って出て行きました。しかし父親は息子を待ち続けます。これがわたしたちと神さまとの関係です。そして弟の謝罪の言葉を聞くよりも前に、無条件に家の中に受け入れたのです。
 わたしたちは何度となく神さまから離れます。しかし、いつだって神さまは受け入れてくれます。それはわたしたちが反省したからでも、自分の行いを悔い改めたからでもありません。もう一度神さまに向き直ろうと思い、離していた手をもう一度握りしめようとした、それだけなのです。神さま、あなたが必要です、その思いだけで、神さまはわたしたちを受け入れてくれたのです。
 わたしたちと神さまとはどのようにつながっているのでしょう。例えば誰かがおぼれていたとします。必死でその人が手を差しだしてくる。あなたは岸辺からその人の手を掴みます。どこを握るでしょう。手の平どうしでしょうか。でもそれだったら、どちらかが力を抜くと、すぐに離れていってしまいます。
 相手の手首を握るのです。そして相手に自分の手首を握らせる。すると片方の人が手を離したって、その手が離れることはありません。神さまとわたしたちの関係は、そのようなものです。神さまはしっかりとわたしたちの手首を握って離さない。たとえわたしたちが神さまから離れようとしても、その手を離して自分で生きていこうとしても、神さまはわたしたちの手首を握りしめたまま、ずっと待っていてくださる。わたしたちが再び神さまに心を向け、その手を握りしめるその日が来るのを、じっと待ち続けてくださるのです。
 これが神さまの愛です。わたしたち一人一人を大切に思ってくださる。それが神さまなのです。

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