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ショートメッセージ2016年4月

4月24日 復活節第5主日(ヨハネ13:31-35―印刷用PDFはこちら

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あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネによる福音書13章34節)

 イエス様は言われます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」。 互いに愛し合うこと。これが新しい掟なのだ。そう聞いて戸惑いを覚える方もおられるかもしれません。
 愛し合うという言葉を小さい子どものために言いかえるならば、仲良くしましょうと言えるかもしれません。もう少し大きい子どもだと、お互いを大切にしましょうという言い方も出来ると思います。
 でも考えてみますと、そのようなことは、わたしたちにとっては当たり前のことです。キリスト教であろうとなかろうと、他人を大切にする、優しくすること、お互いに愛し合うことは、何も目新しいことではありません。では何が「新しい掟」なのでしょうか。
 イエス様はただ単に「互いに愛し合いなさい」と言われたわけではありません。「わたしがあなたがたを愛したように」と言われています。イエス様の愛が、すべての源なのです。
 ではイエス様の愛とは何でしょうか。イエス様がわたしたちに示された最も大きな愛、それは十字架でした。イエス様の十字架、それはわたしたちを愛するが故になされた出来事でした。ご自分が十字架につけられることで、わたしたち一人ひとりが滅びから救われるのです。
 「愛とは自己を失うこと。愛するとは他者の内に住むこと」と書いた人がいました。本当の愛とは、自分の思いや欲求などすべて捨て去ることです。イエス様は、何もかも捨てて、十字架に向かわれました。それが、イエス様が示されたわたしたちに対する愛なのです。そのように、あなたたちも愛し合うものとなりなさい。イエス様がすべてを捨ててわたしたちの内に住んでくださったように、あなたたちも自分を捨て、すべてをイエス様に委ねるようにと言われているのです
 わたしたちは自分の力だけでは、互いに愛し合うことなどできない者です。イエス様はそのことをよくご存じです。だからこそわたしたちをこれでもか、というほど愛し、わたしたちの内に住み、わたしたちを愛の交わりの中に生かしてくださるのです。
 その愛の中に、すべてを委ねましょう。自分の思いを捨て、欲望を脱ぎ去り、イエス様を心の中に受け入れて歩むのです。そしてイエス様がなさったように、お互いを愛し、また愛されていく者となりましょう。

4月17日 復活節第4主日(ヨハネ10:22-30―印刷用PDFはこちら

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わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
(ヨハネによる福音書10章27節)

 今日の箇所に、このような言葉がありました。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。
 この言葉は、イエス様に対するユダヤ人のものでした。イエス様とは一体何者なのか、わたしたちのメシアなのか、はっきりと示してほしい。彼らユダヤ人が待ち望んでいたメシア像は、政治的にも、社会的にも、自分たちを解放してくれる人であり、力によって悪を追い払ってくれる、そのような救い主でした。
 このユダヤ人の気持ちに思いを馳せている中で、大きな地震のニュースが入って来ました。木曜の夜に熊本を襲った大きな地震。その地震は収まる気配も見せずに、金曜未明に本震が起こり、ひっきりなしに広い範囲で余震が繰り返されています。
 その状況を目の当たりにしたときに、もうやめてくれ、沢山だ。そのような思いが胸の底から湧きあがってきました。
 みなさんも、今回の地震で同じような思いを持たれた方がおられるかもしれません。また、阪神淡路大震災、東日本大震災、ネパール大地震、御嶽山噴火、広島の土砂災害、鬼怒川の氾濫、ありとあらゆる自然災害の前に、わたしたちはなすすべなく、茫然と立ち尽くすしかない。そしてなぜ、どうしてと叫び声をあげるのです。
 その姿は、「いつまでわたしたちの魂をもてあそぶのか」と叫んだユダヤ人とどう違うのでしょうか。わたしたちは復活のイエス様に出会っているはずです。イエス様が共にいて下さるという思いを持っているはずなのです。でも時々、その確信が揺らぎます。まざまざと悲惨な状況を見せられて、発する言葉。あなたは本当にわたしたちの救い主ですか。メシアならばそうだとはっきり言って欲しいというイエス様に対するその言葉は、果たしてユダヤ人だけのものでしょうか。わたしたち一人一人の言葉ではないのでしょうか。
 しかし神さまは、わたしたちをお見捨てにはなりません。神さまはそのようなわたしたちのために、イエス様に疑いの目を向け、拒絶し、裏切り、否定するわたしたちのためにその独り子をお与えになりました。
 わたしたちが信じる者となるために、神さまはその独り子イエス様を世に遣わされました。イエス様の十字架の死と復活を通して、わたしたちが神さまの愛に触れ、イエス様と共に歩むものとなるように、イエス様が来てくださったのです。
 イエス様の声に聞きましょう。聖書の言葉から、祈りを通して、イエス様の声に聞き、イエス様のみ跡に従って行きたいと思います。

4月10日 復活節第3主日(ヨハネ21:1-14―印刷用PDFはこちら

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イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
(ヨハネによる福音書21章12節)

 今回、イエス様はティベリアス湖畔で弟子たちに現れました。ティベリアス湖畔はガリラヤにある場所です。今まで復活のイエス様が現れたのはエルサレムで、宗教や政治の中心地でした。片やガリラヤは生活の場です。人々が日常生活を送り、生きている場所、それがガリラヤです。
 このことは、わたしたちにとっても、とても嬉しいことです。エルサレムのような場所に行かないと復活のイエス様に会えないのであれば大変です。でも普段、わたしたちがいるところに来てくださるのがイエス様なのです。
 弟子たちは漁に出かけました。お腹がすいたから仕方なく行ったのでしょうか。そうではないと思います。イエス様が彼らを「人間を獲る漁師」として遣わされたから、彼ら弟子たちは漁に出かけたのです。意気揚々として、彼らは舟を沖に漕ぎ出したのではないでしょうか。
 しかし、その彼らを待っていたものは失望でした。彼らは夜通し漁をしました。しかし何も取れませんでした。でもそこにイエス様が来られるのです。
 自分たちの力ではどうすることも出来なかったことが、イエス様がいて下さるだけで可能になる。そのような経験はないでしょうか。
 仕事で壁にぶつかってしまい、何をしてもうまくいかない。その時にふと、祈りを忘れていたことに気づき、静かに祈る。すると不思議なことに、それまで見えていなかったものが見えてきて、どうしたらよいかが示される。
 人間関係でうまくいかないことがあって、精神的にもイライラしてしまい、もう人と会うのも嫌になってしまう。何も手につかなくなって、目を閉じて涙をこらえていたときに、ふと聖書の言葉が頭をよぎる。その言葉を何度も思い返すうちに、もう一度歩いてみようって気になる。
 聖書を通してイエス様は、「わたしはいつも共にいる」ということを、弟子たちに、そして今ここにいるわたしたち一人ひとりに伝えたかったのです。
 でも、わたしたちは忘れてしまうのですね。イエス様が一緒にいてくださっていることを。だからわたしたちは、イエス様が共にいることを思い出すために礼拝に集い、聖書のみ言葉を聞き、賛美するのです。そして陪餐にあずかり、それぞれの遣わされた場所に向かっていくのです。
 イエス様を感じましょう。そしてイエス様の声に耳を傾け、遣わされた場所で網を打ちましょう。

4月3日 復活節第2主日(ヨハネ20:19-31―印刷用PDFはこちら

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それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
(ヨハネによる福音書20章27節)

 先週、わたしたちはイエス様の復活をお祝いしました。そして今日読まれた物語は、イエス様が復活したその日の夕方と、その八日後、つまり次の日曜日の出来事となっております。
 復活の日の朝、マグダラのマリアの元に復活したイエス様が現れたとあります。そのマグダラのマリアは弟子たちに、「わたしは主を見ました」と告げます。
 しかし弟子たちは、マグダラのマリアの言葉を通してイエス様が復活されたと聞いたにもかかわらず、ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。家の戸に鍵をかけるのは、怪しい人が入って来ないためだとか、泥棒に家のものを持って行かれないためだとか、そういう理由があります。また人と会いたくない、誰の訪問も受けたくない、他の人と自分たちとの間を遮断したい、そのような時に鍵をかけるのではないでしょうか。
 しかしイエス様は、その鍵のかかった扉をこえて弟子たちのところに来られました。それは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」というメッセージを伝えるためです。十字架につけられたイエス様は復活されました。でもそれで終わらないのです。復活の日の夕方、マグダラのマリアの言葉を信じられず、扉を閉め、鍵をかけてガタガタと震えていた弟子たちの中にイエス様は来られました。そしてまた、他の弟子たちの話を信じることのできなかったトマスの元にも来られたのです。
 イエス様が来られたのです。恐れや戸惑い、不安、暗闇を感じ、明日に向かう一歩を踏み出すことのできない人たちの元に、イエス様は来られました。そして今、ここにいるわたしたちのところにも、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と何度だって来られるのです。
 今、この場にイエス様がいてくださる。ふとした心の隙間に、神さまが感じられる。礼拝の中で、御言葉に触れたときに、聖餐をいただいたときに、人と関わった時に、心の扉を閉め切って一人暗闇に閉じこもった時に、どんな時にもイエス様は来てくださる。「わたしはいつもあなたたちと共にいる。大丈夫、安心しなさい」。そう言って、わたしたちを包み込んでくださっている。わたしたちが気づくまで、何度でも心の扉をノックし続けてくださるのです。それが復活のイエス様との出会いなのです。
 主は共におられます。

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