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ショートメッセージ2016年6月

6月26日 聖霊降臨後第6主日(ルカ9:51〜62―印刷用PDFはこちら

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イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
(ルカによる福音書9章51節)

 イエス様がエルサレムに向かうことは、十字架の死へと着実に足を進めていくことです。イエス様はその顔をあげ、エルサレムに向けました。ご自分の向かう方向をエルサレムへと、つまり、受難、死、そして復活へと定められたのです。
 その道の途中イエス様は人々に、イエス様に従うとはどういうことかを伝えていきます。特に強調されていることは、他のことには気を留めずに、わたしのことを第一に考えなさいということのようです。しかしそれは何と難しいことでしょうか。
 親子連れの姿を想像してみたいと思います。お母さんの言うことをしっかりと聞いて、ピンと背筋を張って歩く子がいます。またなかなか言うことを聞かずにお母さんを困らせている子もいます。また、なかなか前に進まない親子連れ、道端に花が咲いていればいっしょにその花を見て、飛行機雲を見つけたらじーっと眺めて、ゆっくりゆっくりと進む人たちもいます。
 わたしはずっと、イエス様に従うというのは最初の親子のように、イエス様の言うことをきちんと聞いて、決まりも守り、寄り道しないで真っ直ぐについていくことだと思っていました。
 しかし聖書を読んでいくと、そうでもないようです。イエス様がエルサレムに行く途中、どこへも寄り道せずに、振り返らずに歩いたかというと、そうではありません。弟子たちにいろいろなことを教え、泣いている人がいたら共に泣き、苦しんでいる人の痛みを負い、倒れている人に手を差し伸べながら歩まれたのです。
 わたしたちはイエス様に従うように、招かれています。わたしたち自身、何度もよそ見をし、自分のことが気になり、イエス様から離れてしまうこともあるでしょう。でもイエス様は、あなたの手を決して離しません。一緒に歩こうと、イエス様はわたしたちを十字架への道へと招いてくださいます。
 なぜイエス様はそれほどまでに、わたしたちを招かれるのでしょうか。それは十字架への道が、死で終わるようなものではないからです。
 イエス様に従う先は、十字架が終点ではないのです。十字架で終わらない。そのあとに復活があるのです。わたしたちはイエス様の十字架の死と復活にあずかり、新しい命をいただくのです。十字架を背負い、イエス様に従う間には、様々な苦しみや痛みがあるかもしれません。しかしイエス様は約束してくださいました。わたしたちは生きる者となるために、イエス様と共に歩むのです。
 わたしに従いなさい。その声に、わたしたちは希望をもって答えていきたいと思います。

6月19日 聖霊降臨後第5主日(ルカ9:18-24―印刷用PDFはこちら

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自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
(ルカによる福音書9章24節)

 イエス様が語られたこの言葉を聞くとき、わたしたちはどのような思いを持つでしょうか。自分を捨てる。自分の十字架を背負う。イエス様に従う。その一つ一つの命令はわたしたちの心に大きな葛藤をもたらすでしょうし、そしてイエス様のために命を失う。この言葉はわたしたちに様々な思いを抱かせるものとなります。
 イエス様は自分の十字架を背負うようにと言われました。この言葉を聞いた弟子たちや周りの人々の顔は曇ったことでしょう。なぜなら今でこそ十字架はキリスト教のシンボルであり、首から下げ、部屋の隅に飾っても、なんら違和感はありません。ところが、イエス様の時代の十字架は処刑の道具であり、人々がとても嫌がるものでした。
 さらに、十字架を背負いなさいというイエス様の言葉を聞いて人々がすぐに思い浮かべたのは、処刑場まで歩かされる犯罪者の姿でした。十字架刑は、人々からよく見られる場所でおこなわれていました。いわゆる晒し者です。小高い山や丘の上でおこなわれることが多かったようです。その場所まで、十字架を背負う人は行かなければなりませんでした。
 つまりイエス様の「自分の十字架を背負え」という言葉は、「あなたも処刑場についてこい。処刑されるために一緒に来い」という、大変厳しい言葉なのです。そしてそれは、「わたしのために命を失う」ということをも意味します。
 もしもイエス様に従うことが、この十字架までで止まってしまうならば、そこには希望はありません。しかしイエス様は、同時にこう言われています。
 人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。
 人の子、つまりイエス様は十字架に向かわれます。そのときに多くの苦しみを受け、殺されます。しかしそのあとに、とても大切なことを言われています。「三日目に復活することになっている」。死ですべてが終わってしまわないのです。神さまのみ心によって、復活することになっているのです。
 神さまの意思によって、イエス様は十字架へと向かいます。しかし神さまは、イエス様の死ですべてを終わらせません。復活があるのです。そのことが決まっているのです。だからあなたがたも、わたしの後に続きなさい。あなたがたが死によって、すべてを終わらせてしまわないように、新しい命に生きることができるように、わたしの後に従いなさい。それが今日、イエス様がわたしたちに下さったメッセージなのです。
 その希望をもって、わたしたちはイエス様の跡を歩んでいきたいと思います。

6月12日 聖霊降臨後第4主日(ルカ7:36-50―印刷用PDFはこちら

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イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
(ルカによる福音書7章50節)

 あるファリサイ派の人がイエス様を、食事の席に招きました。ファリサイ派というと、聖書の中ではまるで悪役であるかのように描かれている人たちです。その食事の席に、この町にいた一人の罪深い女がイエス様の後ろから近寄ってきます。そして彼女はイエス様の足もとに近づき、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエス様の足に接吻して香油を塗ったとあります。
 この場面を少し想像してみましょう。とは言いましても、当時のユダヤでの食事風景を少し説明しておかないといけないと思います。わたしたちは食事をするときに、食卓につきます。テーブルがあって、その周りに座って食べると思います。また食事の場所についても、ある程度仕切られた空間でおこなうと思います。
 ところが当時は、食事の場所に、他人が勝手に入ってくるのは珍しいことではなかったそうです。ただしある場合を除いてはですが。
 また食事ですが、このころのユダヤでは寝そべっておこなっていました。料理に頭を向け、左手で頬杖をつきながら体を支え、右手を伸ばして料理をほおばりました。そして、足は中心から放射線状に広がっておかれていたわけです。
 ですから、招待客ではない人も近づきやすかったのです。イエス様が食事をしている足もとに、その罪深い女も近づくことはできたのです。ただ「できる」ということと、「してもよい」ということは、まったく違いました。彼女は罪深い女でした。彼女のような「罪人」はそのような食事の席に行ってはいけなかった。なぜならば、彼女に触れてしまうと他の人まで汚れてしまうと、ファリサイ派の人たちは考えていたからです。
 その女性の姿を見て、またそのことに対して何もしようとしないイエス様に対して、ファリサイ派の人は心に憤りを覚えます。彼女は正しくないことをしたという思いが、彼の中にあったのでしょう。
 ファリサイ派のシモンと彼女との違いは何だったのでしょうか。イエス様は負債のたとえを語られます。多くゆるされた者は多く愛すというたとえです。彼女は多くゆるされたという自覚がありました。だから愛さずにはいられなかった。イエス様が近くに来ていると聞くと、いてもたってもいられなかったのです。
 わたしたち一人一人も同じです。こんなわたしたちの罪をも、イエス様は赦してくださいました。罪深いわたしたちのままで、一人一人を受け入れてくださったのです。
 そのことに気づきましょう。イエス様がわたしたちには必要なのです。

6月5日 聖霊降臨後第3主日(ルカ7:11-17―印刷用PDFはこちら

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主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
(ルカによる福音書7章13節)

 二つの行列が出会いました。一つはイエス様を中心とした行列。その中には弟子たちや大勢の群衆が一緒にいました。イエス様の言葉を聞き、またイエス様によっていやされてきた多くの人たちに出会い、喜びに包まれた行列でした。そしてもう一つの行列は、墓場へと向かう行列でした。一人の人の死によって、悲しみに包まれた行列です。その中心には一人の母親がいました。
 喜びの行列は、悲しみの行列によってさえぎられました。しかし喜びの行列の中心にいたイエス様は、真っ直ぐ棺の横で泣き続ける母親の元へと向かいました。
 彼女の悲しみ、それは息子が死んでしまったという事実に直面した涙でありました。そしてまた、彼女のこれからの人生に、起こると思われる出来事に対しての悲しみでもありました。彼女はやもめでした。夫に先立たれて、一人息子と二人だけで生活をしてきました。現在の日本では、女性が一人で生きていくことも珍しくはありません。しかし当時のイスラエルでは、女性が自分で生計を立てて暮らすことはとても難しいことでした。
 つまり女性にとって、一人息子の死は、自分の生活のすべを失うことを意味したのです。大勢そばに付き添ってきた町の人たちも、みんな悲しみに包まれていました。なぜならば、彼女がこれから置かれる状況を、みんな分かっていたからです。助けたくても、自分たちだって生きるのが精いっぱいです。どうすることもできない。だから悲しみの行列になるのです。
 そのときイエス様は、棺の元で泣き続けるやもめの女性に言いました。「もう泣かなくともよい」。こう言ったイエス様の表情はどうだったのでしょうか。怒りながら言ったのでしょうか。笑いながらでしょうか。わたしは思います。きっとイエス様も目に涙をためて、いや涙を流しながら母親に語り掛けたのではないだろうかと。
 もうあなたは泣かないでいい。その涙は、わたしが引き受けた。あなたの悲しみは、わたしが一番よく知っている。そしてそのイエス様の言葉は、わたしたちが悲しみの中にいるときにも、いつも語り掛けられているものなのです。
 わたしたちの人生の中には、苦しいことも、悲しいことも何度だってあります。しかしイエス様は、ここでわたしたちに約束されているのです。わたしたちの悲しみを、いつだって共に背負うということを。わたしたちが涙を流すときには、イエス様も共に涙を流してくださるということを。
 イエス様はわたしたちに、いつも共にいるということを約束してくださいます。そしてわたしたちの気持ちを共感し、寄り添ってくださるのです。これこそが、わたしたちに与えられた大きなお恵みなのです。

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