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ショートメッセージ2016年9月

9月25日 聖霊降臨後第19主日(ルカ16:19〜31―印刷用PDFはこちら

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この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
(ルカによる福音書16章20〜21節)

 今日のたとえにはまず、二人の人物が出てきます。金持ちとラザロです。金持ちの描写はこうあるだけです。「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。金持ちは高価な衣服を常に身に着けていたようです。そして毎日贅沢に派手な生活をしていました。しかしこの金持ちの行動は、このたとえを聞いている人たちにとっては何の違和感もないことだったと思います。
 といいますのも、神さまが祝福してくださることと財産が増えることとは、ほぼイコールのこととして捉えられていたからなのです。家畜が増えたり、土地を得たり、豊作になったり。それはすべて神さまが祝福を与えてくださったからだと考えられていました。だから金持ちが富を得たのは神さまの祝福の結果だから、どんなに贅沢してもいいのです。つまり神と富とは同じ方向にあると考えていたのですね。ところがイエス様は、それを真っ向から否定しました。神と富とに仕えることはできないと言い切ったのです。
 ファリサイ派の人たちは嘲笑いました。周りで聞いていた人たちも、同じ考えを持ったことでしょう。その中でイエス様は金持ちとラザロのたとえを語られるのです。
 贅沢に生活していた金持ちとは対照的に、ラザロは飢えていました。金持ちの門の前に放り投げられ、残飯でもいいから食べたいと願っていました。でも彼のそばに金持ちが来ることはなく、来るのは自分の体のできものを舐める犬だけでした。ラザロがこのような状況になったのは神さまの怒りを買ったからだというのが、当時の人々の考え方でした。彼は何か罪を犯したに違いないと考えたのです。
 しかしこのような考えを、イエス様は見事に覆されます。イエス様は語ります。二人が死んだあと、ラザロは天使たちによってアブラハムのすぐそばに連れていかれたと。そして金持ちは、陰府でさいなまれていました。立場が逆転したのです。人々の思いとは全く逆のことが神の国では行われると、イエス様は伝えられたのです。
 ラザロという名前、それは「神は助ける」という意味です。神さまが助けてくれないと生きることができない、神さましかもう頼れない。それがラザロなのです。わたしたちは金持ちのように、ラザロの存在に目をやらずに生きていくのでしょうか。それとも扉を開け、ラザロの元に駆け寄り、共に生きていくのでしょうか。わたしたちがラザロと同じ視点に立った時に、わたしたちの目にもイエス様という希望が見えてくるのです。神さまはそのようなわたしたちを、必ずみ許に引き寄せてくださいます。

9月18日 聖霊降臨後第18主日(ルカ16:1〜13―印刷用PDFはこちら

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主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
(ルカによる福音書16章8節)

 イエス様はたとえを語られます。ある金持ちに一人の管理人がいました。この管理人は、お金持ちの財産の管理を任されていました。ところがその管理人が任されていた財産を無駄遣いしていると、告げ口をする人がいたようです。
 普通ですと、無駄遣いした分を弁済するか、あるいはひたすら謝るか、そのようなことを考えるでしょう。しかしこの管理人は、まったく違う行動をとります。彼は、罪に罪を重ねるようなことをおこなうのです。彼は自分が首になるだろうと思いました。だから管理人であるうちに、金持ちに借りのある人々に恩を売ろうと考えました。彼らの借金を減額していったのです。この管理人は、主人のお金を無駄遣いしたばかりではなく、さらに主人の財産を勝手に減らしたのです。
 この管理人にはまったく痛みはありません。自分は何一つ失っていません。減っていくのは預かっていた主人の財産だけです。当時のイスラエルの常識に照らし合わせても、わたしたちの感覚でも、この管理人のおこないは許しがたいことです。たとえを聞いていた人たちは、きっと主人がこの管理人を許さない姿を想像したでしょう。しかしイエス様は、彼らの予想を裏切る結末を伝えます。
 主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた、そうイエス様は言うのですね。不正な管理人の、抜け目ないやり方をほめたわけです。もう間もなく自分は首になるという時に、管理人は急いで行動しました。その「ずるがしこい」行動を、主人はほめたのです。この管理人は、不正にまみれた富に対して、忠実に、賢く行動しました。ではあなたたちは、与えられた物に対してどうなのだと問われるのです。
 わたしたちは、たくさんの賜物を神さまからいただいています。でもその賜物を、わたしたちは自分のためだけに使っていることはないでしょうか。金持ちの主人が管理人に財産を管理させたように、わたしたちに神さまは賜物を与え、用いるようにと預けられています。しかしその賜物を、本当に賢く用いているのでしょうか。イエス様はわたしたちに言われます。不正な管理人が不正にまみれた富に忠実であったように、あなたがたは神さまから頂いたお恵みに忠実でありなさいと。
 そしてイエス様は、本当の管理人の姿も示されます。わたしたちは神さまに対して、罪深い者です。いわば返しきれない借金を背負っているようなものです。そのわたしたちの元に、イエス様は来られました。イエス様は十字架につけられることで、神さまとわたしたちとの間の借金の証文を破り捨てられたのです。
 あなたの罪を赦す。そのためにイエス様は来られました。罪を赦されたわたしたちが神さまと正しい関係になり、イエス様がわたしたちの友となるのです。神さまにとっては、大損かもしれない。しかしこれが、神さまのみ心なのです。

9月11日 聖霊降臨後第17主日(ルカ15:1〜10―印刷用PDFはこちら

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言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
(ルカによる福音書15章7節)

 今日のたとえは、イエス様の元に徴税人や罪人たちがやってきて、イエス様の話を聞こうとしていた中で語られました。その場にはファリサイ派の人々や律法学者たちもいたのですが、彼らはイエス様が徴税人や罪人と関わるのが気に入らなかったようです。彼らファリサイ派や律法学者は、神さまから与えられた律法を守ることで救われると信じていました。だから律法には何と書いてあるのか、いつも研究していました。そのような彼らにとって、イエス様のおこないは許しがたいものでした。なぜならイエス様は安息日にしてはならないことをするし、彼らから見るとイエス様の発言は、神さまを冒涜するものと映ります。そして今、目の前で徴税人や罪人を受け入れているのです。だから彼らは不平を言うのですね。
 わたしたちはこの場面を読むと、ファリサイ派や律法学者って何と心の狭い人たちなのだろうかと思います。しかし当時の社会では、ファリサイ派や律法学者がそう思うのは当然でした。もっと言うなら、ユダヤ人の多くも彼らと同じ考えでした。
 徴税人となど付き合えないし、罪人と関わったら自分たちまで汚れてしまう。そうやって人々は彼らを嫌い、無視していました。そのファリサイ派や律法学者たちに、イエス様はたとえを語られたのです。
 100匹の羊のうちの1匹が見失われました。この羊は好奇心旺盛でも自分勝手でもありませんでした自分から迷い出たのではなく、見失われたのです。野生動物が群れで行動しているとき、そのうちの一匹が足をくじいてしまい、歩くのが困難になったとします。すると周りの仲間たちはどうするでしょうか。ほとんどの場合、足をくじいた動物はその場に置いて行かれます。足手まといになるからです。その1匹のせいで敵に襲われたらたまりません。夕方までにオアシスにたどり着けないかもしれない。群れから離れていくその1匹は、足を痛めたり、年老いてしっかり歩くことができなくなっていたり、目や鼻が利かなくなっていたり、弱いがために他の仲間にいじめられていたり。普通の羊飼いであれば、そんな1匹のことなど、気にしません。だってそうでしょう。目の前には、元気な羊たちが99匹もいるのです。
 でもこのたとえに出てくる羊飼いは違います。羊という動物は大変弱い動物です。1匹だけにしておくと、夜も越せないことをよく知っていました。だから見つけ出すまで、探し回るのです。この見失った羊が、大切なのです。そしてこの羊飼いが小さな羊に対して注ぐ愛こそ、神さまの愛なのです。
 わたしたちも神さまから一方的に見いだされることによって、その関係が回復されます。わたしたちは神さまの声を聞き、その手につかまれ、歩いていけるのです。神さまは、あなたを愛しておられます。

9月4日 聖霊降臨後第16主日(ルカ14:25〜33―印刷用PDFはこちら

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だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。
(ルカによる福音書14章33節)

 今日の箇所で、イエス様は大変厳しい言葉を語られます。この言葉はエルサレムに向かうイエス様について歩いていた群衆に向かって発せられました。食糧が豊富にあるわけでもなく、泊まる場所も決まっていない旅を続けていた彼ら群衆。イエス様にとっては味方であったはずです。しかしその群衆に向かって、イエス様は語気を強めるのです。
 なぜそのような言葉をなげ掛けたのでしょうか。それは、イエス様に従うということは甘いことではないということを、十字架に向かう前にしっかりと伝えたかったのではないでしょうか。そしてイエス様に従おうとするわたしたちにも、その厳しさは伝わってくるのです。
 イエス様はこのように言われます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と。この「憎む」と訳された語は、わたしたちが一般に用いる、怒りや敵意を向けるという意味とは少し違います。原文では「背を向ける」というニュアンスをもちます。つまりイエス様の元に行くのであれば、家族や自分の命に対して背を向けなさい、ということになります。
 わたしたちには、大切なものがあります。家族も今の生活も、持っているものだってなかなか手放せません。でもイエス様は言われます。あなたがたはわたしの弟子となるのであれば、それらに背を向け、もっと大切なものに目を向けなさいと。そしてその大切なものこそ、神さまなのです。イエス様は決して自分のことを嫌いになりなさいと言っておられるのではありません。家族や自分の欲望にしがみついていないで、神さまに向き直りなさいと、イエス様はわたしたちに求めておられるのです。
 腰をすえて考えたときに、わたしたちは塔を建てることも、二万の兵に立ち向かうこともできない自分の力に気づかされます。しかしそれと同時に、イエス様を通して神さまからの豊かな恵みが与えられていることにも気づくはずです。だからわたしたちはその素晴らしい恵みに身を委ねるのです。
 たとえば海で浮こうと思ったら、身体の力を抜いて、波に身を任せるでしょう。自分の持っている物にしがみついていては、身体は沈んでいくばかりです。同じようにイエス様の弟子となるということは、イエス様は全てを委ね、歩いていくことです。自分の持ち物に背を向け、イエス様と共に歩んでいきましょう。

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