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ショートメッセージ2016年10月

10月30日 諸聖徒日(マタイ5:1〜12―印刷用PDFはこちら

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心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
(マタイによる福音書5章3節)

 今日この教会では、逝去者の方々をおぼえて諸聖徒日礼拝をささげます。この礼拝では、山上の説教の冒頭が読まれました。山上の説教のそれぞれの言葉は、わたしたちに何を伝えているのでしょうか。
 イエス様の元にはおびただしい数の人が集まってきました。彼らは何故、イエス様の元に来たのでしょうか。それはイエス様によっていやされた人の話を聞いたからです。興味本位ではなく、イエス様に会えたら自分も変えられるとの思いで、遠くから来たのです。わたしたちが礼拝に集められるのも、聖書の言葉に聞くことも同じです。わたしたちの一番の目的は、イエス様に会い、その言葉を聞きたいということではないでしょうか。
 イエス様はその群衆の姿を見ます。彼らの表情を見て、イエス様は瞬時に悟ったに違いありません。彼らが自分を求めているということを。そしてイエス様は山に登り、この山上の説教を語られました。
 イエス様は語ります。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。イエス様が最初に発せられた言葉は、「幸いだ」という宣言でした。イエス様の元に集まった人々にとって、その言葉は希望の光だったと思います。今置かれている状況から逃れたくて、何とか一歩前に進みたくて、暗闇の中から抜け出したくて、イエス様の元にやってきました。その自分たちに向かってイエス様は「幸いだ」と宣言されるのです。
 心の貧しい人よ、とイエス様は言われます。心とは霊のことです。そして貧しいという言葉はホントのスッカラカン、まったく何もない状態を示します。たとえて言うなら、台所で使うスポンジを暑い砂漠に1か月くらいほったらかしにしておく。どうなるかは想像つきますよね。カピカピです。からっからです。水分など一滴もなく、どんなに絞り出そうとしても、自分の中から水分は出てきません。
 わたしたちも自分の力で歩けず、前に進むことができなかったことがあるでしょう。その状況は、からからになったスポンジと同じです。わたしたちもまた、イエス様が「霊において貧しい者」と呼びかけた、その一人ひとりなのです。
 この諸聖徒日の礼拝で山上の説教が読まるのは、この礼拝に集うわたしたちがイエス様のみ言葉に飢え乾いていることを思い起こすためです。そして神さまにより頼まなければ何もできない自分自身に気づくためです。
 心の貧しい者。それはわたしたちなのです。自分の力で生きていくことのできない自分に気づき、神さまにすがりつくわたしたち。その姿を見てイエス様は、「あなたたち心の貧しい者よ」と呼びかけてくださいます。からからの心に、神さまの恵みが一しずく落ちてくる。そのときにわたしたちは、歩く力を得るのです。

10月23日 聖霊降臨後第23主日(ルカ18:9〜14―印刷用PDFはこちら

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言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
(ルカによる福音書18章14節)

 今日のたとえの登場人物は、ファリサイ派の人と徴税人です。ファリサイ派は何度も聖書に出てきますが、たいてい悪いように描かれています。しかし当時の人々にとって、ファリサイ派の人々は尊敬に値する人であって悪い人とは見られていませんでした。
 ファリサイ派の人は一生懸命に律法を学び、厳格に律法を守りました。そしてしてはならないことなどを細かく決めていきます。さらにそれを他の人に伝えるために学校を作ったり、父親が子どもに教えるように指導したりしました。また自分自身にも大変厳しく断食や献げ物も律法で決められた以上におこなっていました。彼らは決していい加減な人間ではなかったのです。
 しかし神さまはファリサイ派を義とされませんでした。そこには二つの理由があります。まず彼は、自分自身にだけ頼っていたということです。彼の祈りを聞くと、彼は神さまに何も求めていないことに気づかされます。自分の力で断食し、自分の力で献金し、自分の力で正しい者になっているという自負は、裏返すと神さまなしに正しい者になれるという傲慢な思いでもあるのです。
 一方徴税人は、自分が罪人であることを認めています。だから神さまの前に堂々と立つことができません。自分の罪深い姿を神さまの前にさらけ出すことができないのです。徴税人は、神さまの憐みに頼るしかありませんでした。神さまが彼に手を差し伸べてくださることを求めるしかなかったのです。
 ファリサイ派が義とされなかったもう一つの理由は、そんな徴税人を見下し、彼の元に行かなかったことです。徴税人との間に壁を作ってしまい、手を差し伸べることをしませんでした。徴税人のために祈ることもなかったのです。
 神さまを必要とせず、自分の力に頼った。自分とは違い罪深い徴税人とは、一切関わろうとしなかった。これが、ファリサイ派が義とされなかった理由です。そのファリサイ派の姿を示して、イエス様はわたしたちに語られます。あなたたちも、ファリサイ派と同じなのではないかと。
 あなたは本当に神さまに全てを委ねているのか。自分の力で、自分を信じ、生きているのではないかと。またわたしたちの周りには、いろいろな方がおられます。その人たちのために祈るのではなく、ファリサイ派が徴税人にしたように蔑み、その人たちを受け入れようとしなかったら、わたしたちも神さまに義とはされないのです。
 わたしたちは自分が神さまにより頼まなければ生きていけない存在であることを知り、助けを必要としている人のために祈り、手を差し伸べる者でありたいと思います。

10月16日 聖霊降臨後第22主日(ルカ18:1〜8―印刷用PDFはこちら

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ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
(ルカによる福音書18章3節)

 イエス様は弟子たちに、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、今日のたとえを語られました。このたとえに出てくるのは、やもめと裁判官です。聖書に出てくるやもめは、特に夫と死別した女性を指すことが多いです。今でこそ日本では女性も働くことができ、年金などの社会保障もある程度充実していますので、たとえ夫が先に天に召されても何とか生きていくことはできます。
 ところがイエス様の時代に女性が夫を亡くしてしまうと、その生活は一変していました。子どもが彼女の面倒を見てくれたらいいのですが、身寄りがないと生きていくすべがないのです。
 さて、やもめは裁判官に「相手を裁いて、わたしを守ってください」と願います。やもめは社会的にとても弱い立場にいました。そのために、土地や財産を搾取されることも多かったそうです。それを防ぐために裁判を起こしたのかもしれません。
 ここで大事なことは、やもめは自分で自分を守ることができないことをよく知っていたということです。裁判官に頼らなければ生きることのできない自分を、よく知っていたのです。とにかく裁判官にこの状況を聞いてもらわないといけないという強い気持ちが彼女にあり、執拗に願ったのです。
 さてイエス様は、絶えず祈らなければならないことを教えるために、このたとえを弟子たちに話されました。つまりこのたとえは祈りについてのたとえです。やもめの願いは、祈りなのです。自分の力では生きていけないことを知り、何とかしてくださいと手を伸ばす。すぐに聞き入れられなかったとしても、門前払いにあったとしても、何度も何度も叫び続ける。それが祈りなのだとイエス様は伝えるのです。
 根負けした裁判官は、やもめのために裁判を起こします。しかしそれは、やもめにこれ以上関わりたくないからでした。やもめとの関係を切りたいからでした。ではわたしたちが祈りをささげる神さまは、どうでしょうか。神さまは、わたしたち一人一人を愛しておられます。わたしたちのことを大切にしてくださいます。イエス様は言われます。「やもめのことを人とも思わない裁判官ですら、やもめの願いを聞き入れたのだ。それならばあなたたちのことを深く愛しておられる神さまが、あなたたちの願いを聞き入れないはずなどないだろう」と。
 これが今日、聖書を通してイエス様がわたしたちに与えられた約束なのです。神さまは必ず聞いてくださいます。わたしたちの心からの叫びを。魂の底から湧き上がってくる嘆きを。だからわたしたちは神さまにすべてを委ね、何度も何度でも願い求めるのです。
 その祈りは必ず聞かれます。

10月9日 聖霊降臨後第21主日(ルカ17:11〜19―印刷用PDFはこちら

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その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
(ルカによる福音書17章15節)

 今日の物語には、重い皮膚病を患っている10人の人が出てきます。当時、重い皮膚病にかかったら、社会から完全に隔離されていました。病気が治ることはまずありませんでした。だから彼らには、生きる希望も夢もありませんでした。わずかな施しを与えられながら、小さな村の隅でひっそりと暮らしていたのです。
 そこにイエス様がやって来ます。彼らは遠くの方からイエス様に向かって叫びます。「イエス様、先生、どうかわたしたちを憐れんでください」。叫ぶ彼らを、イエス様は遠くからじっと見ます。この「見る」という言葉には、知るというニュアンスが含まれています。イエス様は見ることで、彼ら10人の痛み、苦しみを知ります。そして彼らに命じられます。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と。
 彼ら10人はイエス様に触れられもせず、いやされたという実感もありません。しかしイエス様の「行きなさい」という言葉だけを信じるのです。ここが、今日の一つ目のポイントです。わたしたちは、肉体を持ったイエス様に出会うことはできません。手を触れていただくこともないでしょう。しかし、イエス様が共にいてくださるという約束を胸に、歩むのです。イエス様が必ず、わたしたちを生きる者にしてくださると信じるのです。それが信仰なのです。
 彼ら10人は、祭司の元に向かいました。ここまでは皆、合格です。しかしもう一つ大事なポイントがあります。10人は祭司の元に行く途中に、イエス様の言葉通りにいやされます。そのとき9人は、そのまま祭司の元へ急ぎます。祭司に体を見せると、自分が元いた共同体に戻れるのです。彼らは喜び踊って行ったことでしょう。
 けれども1人だけは、イエス様の元に戻ってきました。自分が清くされたことに驚き、大声で神さまを賛美しながら、イエス様に感謝を伝えるために戻って来ました。9人とこの1人の違いは、ユダヤ人とサマリア人という違いだけでした。
 聖書に出てくるユダヤ人は、自分たちを神さまから選ばれた者だと思っていました。イエス様にいやされながらも感謝することのなかった9人の心には、自分たちは選ばれた民であり、救われて当然だという思いがあったのかもしれません。そしてサマリア人のことを、救いから外れた人だと蔑んでしました。
 わたしたちの心の中にも、同じような思いがないでしょうか。自分は神さまに手を差し伸べられて当然なのだ。自分は正しい人間なのだからという思いが。
 そうではないのですね。神さまはわたしたちを一方的に憐れんでくださいます。それはわたしたちが素晴らしいことをしたからでも、良い人間だからでもないのです。このサマリア人のように、神さまから遠く離れた小さな一人なのです。
 しかし神さまは、その小さな一人にも目を向けられます。わたしたちはそのことに対し、心から感謝をささげたいと思います。主に感謝!

10月2日 聖霊降臨後第20主日(ルカ17:5〜10―印刷用PDFはこちら

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主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
(ルカによる福音書17章6節)

 「わたしどもの信仰を増してください」、今日の箇所の冒頭で、弟子たちはこのようにイエス様に頼みます。イエス様と弟子たちは、エルサレムへと向かって歩いていました。イエス様はすでに二度、ご自分の受難を予告されており、その道行きは十字架に向かうものだと誰もが気づいていました。十字架、それは当時のユダヤ人にとっては死刑の道具以外の何物でもありませんでした。そして十字架を背負って歩くこととは、死刑執行の場所に歩いていくことを意味していました。
 十字架へと向かうその途中で、イエス様は弟子たちを教えていきます。しかしその一つ一つの教えは、弟子たちに対して「こんな自分でいいのだろうか」という思いを持たせるものでしかありませんでした。そしてイエス様の命じることを何一つできない自分を知ったときに彼らがとった行動は、イエス様に信仰を増してほしいと頼むことでした。
 この弟子たちの気持ちが、わたしにはわかるような気がします。例えばこのようなイエス様の教えがあります。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。果たしてわたしには、そんなことができるのだろうか。実際に頬を打たれなくても自分が嫌な思いになるような言葉を掛けられたときに、わたしは相手に対して左の頬を向けるような態度で接することなどできるのかと思うのです。そうではなく相手の右の頬も左の頬さえも、打ち返したいと思ってしまう自分がいます。そのときに自分の信仰のなさを感じるのですね。
 イエス様はその弟子たちに、「からし種一粒ほどの信仰があれば」と返します。「あなたたちは信仰というが、からし種ほどのちっぽけな信仰すら持っていないのではないか」と言われるのです。信仰とは神さまからの恵みに対する応答です。神さまがまず与えてくださったから、信仰が生まれるのです。神さまから素晴らしいものをいただいたことに感謝して、神さまに対して心を向けることが信仰なのですね。
 弟子たちには、神さまからの恵みがなかなか理解できなかったのかもしれません。しかしイエス様の十字架を経て、十字架につけられ復活されたイエス様こそが、神さまから与えられた一番のお恵みだということに気付かされたのです。復活のイエス様が目の前に現れて初めて、彼らは神さまに対して心から応答できました。つまり本当の信仰を持つことができたのです。
 わたしたちも同じです。神さまが与えてくれた大きな恵みにわたしたちが気づかされるときに、わたしたちは神さまの方に心を向き直すことができます。神さまから頂いた愛を知り、応答する。それが信仰なのです。

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