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ショートメッセージ2016年11月

11月27日 降臨節第1主日(マタイ24:37〜44―印刷用PDFはこちら

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だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
(マタイによる福音書24章44節)

 今日から降臨節です。12月25日の降誕日に向けて心を整えていく期節です。今日のイエス様の言葉にも「目を覚ましていなさい。用意していなさい」。という言葉がありました。ではわたしたちはどのような準備をしておくべきなのでしょうか。
 あるところに一人の旅人がいました。彼は鳥や植物を観察するのが大好きで、その日も山に出かけていきました。そして道の途中できれいなものや珍しいものを見つけるたびに、夢中になってしまって、いつしか山の奥深くまで進んでいました。気が付くと、あたりは薄暗くなっています。あわててふもとに下りようとしましたが、道がまったくわかりません。
 どうしていいのかわからず、彼は叫びます。「お〜い、助けてくれ〜」。とにかく何度も何度も叫びます。必死です。誰でもいいから、自分のことを見つけてほしい。その一心で力の限りに叫びます。でも誰も近くはいませんでした。
 叫び疲れ、もうあきらめかけてぐったりしていると、ふとどこからか声が聞こえてきます。かすかな声です。「どこから聞こえるんだろう」、必死になって、声のする方向を探します。「こっちか、いや、あっちだ」。その声の方向に目をやると、一筋の光が見えました。そして彼は光を目指して、歩いていくのでした。
 彼が準備したもの、用意したもの、それは何だったでしょう。静かに聞く耳でした。遠くから自分を呼ぶその声に耳を傾ける耳でした。そして目でした。一筋の光でさえも見つけることのできるような目でした。
 わたしたちも、この旅人と同じような経験をしたことはないでしょうか。わたしたちはそれぞれの道を歩いています。しかし何度も迷い、幾度も傷つき、倒れてしまいます。声を枯らして助けを呼び、この暗闇から抜け出したい、歩く道を示してほしい。そう叫び続けたことはないでしょうか。
 そのときに、神さまは何をしているのか。黙って見ているだけなのでしょうか。そんなことはありません。神さまはわたしたちが、また神さまの元に戻って来られるようにと、必死に探しておられます。神さまは何度も、何度でもわたしたちの心の扉の前で、ノックし続けているのです。
 でもその声が、かき消されて聞こえないことがあります。心の中を思い煩いが支配してしまい、神さまの声が心の耳に入ってこない。たとえ声を聞いたとしても、神さまに背を向けてしまい、小さな光に気が付かない。
 目を覚ます、準備する。それは小さな声に、わずかな明かりに気づくことができるように、心を静め、そなえることです。この世のものに執着せず、神さまにのみ心を向けるのです。神さまは必ずわたしたちの心に、イエス様を生まれさせてくださいます。

11月20日 降臨節前主日(ルカ19:29〜38―印刷用PDFはこちら

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ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
(ルカによる福音書19章33〜34節)

 桃山基督教会では5月の親子礼拝と11月の子ども祝福式のときには、人形やペープサートなどを使ってお話をしています。今回はマックス・ルケードの「たいせつなきみ」をもとに、お話をしました。
 この物語に出てくるのは、木でできた小人たちです。彼らはいつも二種類のシールを持ち歩いていました。一つの箱には誰かを褒めたいときに貼る金ぴかシールが、そしてもう一つの箱には誰かをけなしたいときに貼るねずみ色シールが入っていました。
 小人の一人、パンチネロはいつも、ねずみ色のシールを貼られていました。そして何をやっても駄目な自分が嫌になり、外に出ることも少なくなっていきます。
 そんなある日、パンチネロは体に一つもシールが貼られていないルシアに出会います。彼女の体にシールを貼ろうとしても、シールがくっつかないのです。「なぜルシアにはシールはつかないんだろう」、そう首をかしげるパンチネロに対し、ルシアは自分たちをつくったエリに会いに行くことを勧めます。そのあとパンチネロがどうなったかは、ぜひ絵本を買って読んでください。
 わたしたちは普段の生活の中で、周りの人たちに金ぴかシールやねずみ色シールを貼っていませんか。また周りの人から何色のシールを貼られているのだろうと、気になってしまうことも多いと思います。
 でもこの物語はわたしたちに、大切なのは周りの目ではなく、神さまがわたしたちを愛してくださっていることだと伝えてくれます。計算がそんなに得意でなくても、足があんまり速くなくても、自分の思ったことをはっきり言うことが出来なくっても、神さまにとってそんなことはどうでもよいのです。神さまはそれでも、わたしたち一人一人を大切に思ってくださる。心から愛してくださるのです。
 今日の聖書の中で、エルサレムに入るイエス様を乗せたのは何だったでしょうか。リムジン?馬?違います。子ろばです。それも誰も乗せたことのない子ろばです。荷物だって十分に運んだこともないでしょう。小さな小さな存在です。誰も目を掛けることなどないその子ろばに、イエス様は目を向けました。イエス様はその子ろばを用いてくださったのです。
 イエス様は伝えてくださいます。あなたたちは小さな小さな一人ひとりかもしれない。でも神さまはあなたたちのことをちゃんと見てくださっている。用いてくださる。
 どうぞこれからも神さまのよい子どもとして、健やかに歩んでください。

11月13日 聖霊降臨後第26主日(ルカ21:5〜19―印刷用PDFはこちら

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しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。
(ルカによる福音書21章18〜19節)

 イエス様たちは、エルサレム神殿に到着しました。当時エルサレムというと、政治と宗教の中心地でした。その中にそびえたつ神殿です。それはそれは、立派なものだったことでしょう。彼らは、それまでに見たことのないものを見て、口々に「これはすごい」、「なんてすばらしいんだ」とつぶやきます。
 しかしイエス様はそんな彼らに言います。こんなに立派な神殿でも、所詮は人間のつくったもの。いつかは必ず崩れるのだと。
 たくさんの自然災害のニュースを見るたびに、このイエス様の言葉が響いてくるように思えます。自分の支えとしていたものが、あっという間に崩れてなくなってしまう現実を、わたしたちは何度も目の当たりにしてきました。わたしたちは時々、人間の知恵は神さまをも超えると過信することもあります。しかしそれらはすべて崩れていくのです。
 そして崩れるのは、建物だけではありません。人の心でさえも、ちょっとしたことで簡単に崩れてしまいます。新聞やテレビには、毎日のように心のバランスを崩して、悲しい事件を起こしてしまった人のニュースが流れます。しかしそれは決して他人事ではありません。わたしたちの周りにも、そのような人はいるのです。そしてわたしたち自身の心も、同じようにいつ崩れてもおかしくないのかもしれません。
 ではなぜ、崩れてしまうのでしょうか。それは土台がしっかりしていないからなのです。人間の作った物により頼み、自分の力だけで生きているからなのではないでしょうか。
 イエス様はそのようなわたしたちが命を得て生きる者となるために、忍耐をするようにと言われます。忍耐という言葉には、あるものの下にじっとしておくという意味があります。忍耐しなさいとは、しっかりした土台の上に立ち、そこから離れずに踏みとどまりなさいという命令なのです。
 わたしたちの土台、それは神さまです。わたしたちが悲しみの中に叩き落され、苦難に襲われようとも、神さまの元から離れないようにと、イエス様は励まされているのです。
 そしてイエス様は、同時にわたしたちに約束してくださいます。「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」。わたしたちを神さまは、ずっと守ってくださるのです。何があっても、恵みを注ぎ続けられ、愛を与え続けられるのです。
 その言葉を信じ、神さまにすべてを委ねて歩いていきましょう。

11月6日 聖霊降臨後第25主日(ルカ20:27〜38―印刷用PDFはこちら

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神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。
(ルカによる福音書20章38節)

 キリスト教の中で一番理解できないと、多くの人が感じていること。それは復活ということなのかもしれません。わたしたちが想像する復活とは、いわゆる「蘇生」ではないかと思います。生きている状態と同じ形で、再び生活すること。それを復活と捉えているように思います。今日の場面では、復活を信じていなかったユダヤ人のグループ、サドカイ派の人たちがイエス様に議論を吹っ掛けます。
 サドカイ派の人たちは、当時の結婚の慣習を例に挙げます。二人以上の夫と結婚した人は、復活したときに誰の妻になるのでしょうか、簡単に言えばこういうことです。実は当時の結婚の考え方と現在のそれとは、大きな違いがありました。当時の結婚の一番の目的は、子孫を残すことでした。それには理由があったのです。
 自分たちの財産や職業を受け継がせることも一つの理由です。しかしそれ以上に重要なことは、自分の子孫を残すことによって、その子や孫の中にその人自身が生き続けると考えられていたことです。子どもさえ生まれたらたとえ自分が死んだとしても、その子の中で生き続けることができる。だからめとったり、嫁いだりということが、とても大事だったのです。
 しかしイエス様は言われます。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」。その人が復活にあずかり生き続けるならば、自分を生かすためだけに子孫を残す必要はなくなります。では一体、復活とは何でしょうか。
 イエス様は言われます。復活とはわたしたちが思っているようなことではないと。わたしたちの想像もつかないような出来事なのだと。
 神さまはアブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神だと言われます。決して過去形ではありません。今も、神さまは天に召された多くの人たちに対して、「わたしはあなたの神である」と言い続けておられます。そしてわたしたちに対しても、「わたしはあなたの神である」と宣言してくださるのです。
 わたしたちは神さまの宣言により、「わたしとあなた」という関係に入れられます。神によって生きる者とされるのです。それが永遠の命をいただく、すなわち復活にあずかるということです。たとえ肉体が滅んだとしても、神さまの元で、神さまのお守りの内に生き続ける。それがイエス様の約束であり、未来への希望なのです。
 わたしたちが神さまからいただく復活、それはわたしたちの想像とはまるで違うでしょう。楽しみです。どのような復活がわたしたちに用意されているのでしょう。
 わたしたちは希望をもって歩んでいきたいと思います。神さまは必ず、わたしたちをよい方向へ導いてくださいます。

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