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ショートメッセージ2017年1月

1月29日 顕現後第4主日(マタイ5:1〜12―印刷用PDFはこちら

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悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
(マタイによる福音書5章4節)

 今日の福音書は、山上の説教と呼ばれる箇所の最初の部分です。今日はその中でも特に、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」という言葉に心を留めたいと思います。
 先日ある青年がこんなことを言っていました。「何で悲しいことが幸せになるんですか。悲しいのに幸せだって、ありえない」。確かにそうだと思います。わたしたちは悲しい状態でいるのは嫌です。だから「悲しむ人々は、幸いである」と言われても、なかなかピンとこないのではないでしょうか。
 ところがここでいう「悲しむ」とは、アクシデントや感情の起伏の中で起こる一時的なものとは少し違います。この言葉をきちんと訳すと、「悲しみ続ける」となります。ずっとその状態のままでいる、悲しいままでいるのです。
 たとえて言うなら、泥沼です。昔、映画などで人が底なし沼に落ちていくシーンがありました。もがいても、もがいても、まったく浮き上がることができない。何とか首だけが出たような状態で、必死に助けを求める。悲しむ人々とは、悲しみという泥沼の中にどんどん沈み続けていく人のことです。いつまでも抜け出すことのできない悲しみの中に居続けるのです。
 この悲しみの最たるものは、神さまから離れてしまっていることです。わたしたちは、何度でも神さまに背を向けてしまいます。神さまの手を離し、正しい人間になろうとしてもそれができない現実を知ります。
 しかしイエス様は、わたしたちのその姿を見て、宣言されます。「幸いなるかな、あなたたち悲しむ人々よ」と。耳を疑う言葉です。そんなはずはない、そう思っても仕方のない言葉です。でもイエス様は確かに言われます。
 イエス様の目に映ったのは、自分たちが罪の中にいるということを知り、悲しみながら、神さまに何とかしてほしいと叫ぶ人々でした。そしてその中には、わたしたちの姿もあるのです。
 神さまの力によらなければ生きていけない、神さまの慰めがないと歩いていけない。そのどうしようもない状況に悲しみの涙を流す人々を、神さまは必ず慰めてくださると、イエス様は力強く宣言されたのです。
 これがわたしたちに与えられた希望です。わたしたちを悲しみの泥沼の中から引き上げてくださるイエス様に、この身を委ねましょう。
 イエス様はわたしたち一人ひとりの手を、しっかりと握りしめてくださいます。

1月22日 顕現後第3主日(マタイ4:12〜23―印刷用PDFはこちら

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イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
(マタイによる福音書4章19節)

 「悔い改めよ、天の国は近づいた」、イエス様はこのような言葉で宣教を開始されました。しかし「悔い改めよ」という言葉を聞いたときに、わたしたちは少し怖い気持ちになることはないでしょうか。
 悔い改めとは、自分が今、罪深いものであるということを告白し、神さまに憐れみを求めることです。でも果たして、そのようなことができるのでしょうか。イエス様は、ガリラヤという地に行かれました。そこには神さまに頼らないと生きられない、神さまにすがるしかない人々がいました。自分の力で悔い改めることができるのならば、苦労はありません。わざわざイエス様のもとに来る必要なんてないのです。
 旧約聖書には、たくさんの預言者が出てきました。その預言者たちは、神さまから離れてしまった人々に叫びます。「神の元に立ち返れ」と。その言葉を聞いて、人々は「そうだな」と思ったことでしょう。でも神さまのみ心に従って、生きていくことはできませんでした。それが人類の歴史です。しかし神さまはその状況を良しと思わずに、イエス様を与えられたのです。
 イエス様は伝道を開始されたとき、真っ先にガリラヤ湖の漁師の元に向かいます。そして四人の人たちに声を掛けます。イエス様の方から見つけてくれるのです。彼らの日常のただ中にイエス様はやってきて、じっと見つめられます。ペトロやアンデレがイエス様を探し求めたのではありません。イエス様が自ら来られたのです。
 わたしたちは神さまがどこにいるのか、見失ってしまっています。それがわたしたちの罪です。自分で神さまを見つけ、その方向に向かって歩くことができるなら、どんなによいことでしょう。でも、神さまをいくら探しても見つからない。それがわたしたちの姿なのです。
 そのわたしたちのところにも、イエス様は来てくださいました。わたしたちが探したのではありません。イエス様が来られたのです。イエス様はずっと、わたしたちの心をノックし続け、わたしたちの名前を呼び続けられています。わたしたち一人ひとりのところにやってきて、その姿をご覧になっているのです。
 ペトロとアンデレはイエス様の言葉を聞いて、すぐに網を捨てて、従いました。網は漁師にとって、自分の生活の糧であり、命をつなぎとめるものでした。大きな拠り所でした。しかし彼らは、網から手を離しました。彼らには、新しい拠り所ができたのです。そしてイエス様に従うときに、彼らは神さまに向き直ったのです。
 わたしたちも、そばに来て、わたしたちの姿に目を留め、呼びかけてくださるイエス様を感じましょう。そしてイエス様の声に聞き、拠り所にして歩むのです。イエス様は共にいてくださいます。

1月15日 顕現後第2主日(ヨハネ1:29〜41―印刷用PDFはこちら

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その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
(ヨハネによる福音書1章29節)

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。洗礼者ヨハネは、自分の元に来られるイエス様を見て、こう言いました。この罪とはいったい何なのでしょうか。わたしは初めて教会に行ったとき、「あなたは罪人だ」と言う牧師の言葉に少し恐ろしくなったのを覚えています。しかしわたしたちは罪というと刑法で禁じられていることを想像してしまいますが、聖書のいう罪の意味は、それだけではありません。
 罪とは人間の根っこにあるもので、的外れという意味も持ちます。たとえばダーツをするときに、的に当てようと思ったら身体も心も的に向けます。でも的外れなのです。あさっての方向を向いてしまっているのです。人間と神さまとの関係が、的外れな状態を罪と言います。神さまの方を向かずに、神さまから離れた方向に歩いていくこと、それが聖書のいう罪なのです。
 イエス様は、罪の中にいるわたしたちのところに来てくださいました。神さまに背き、自分勝手に生きているわたしたちの罪を取り除くために、イエス様は来てくださいました。神の小羊として来られたのです。
 イエス様はわたしたちの病を担い。わたしたちの痛みを負い、わたしたちの背きのために刺し貫かれ、わたしたちの咎のために打ち砕かれました。わたしたちは道を誤り、それぞれの方角に向かってしまいます。神さまからどんどん離れていきます。その罪を負うために、イエス様はわたしたちの元に来られました。
 イエス様に出会う前のわたしたちは、寒さの中、体を硬直させたような状態かもしれません。体を動かそうにも動かない。神さまの方に向き直ろうとしても、身を起こすことすらできない。周りの景色を見ることもできず、どこに神さまはいるのかとうなだれてしまう。
 神さまはそのようなわたしたちの姿をみて、放っておかれはしませんでした。神の小羊を遣わされたのです。その小羊とは、神さまの独り子でありながらわたしたちの身代わりとなり、十字架へと向かうイエス様です。その独り子をわたしたちに与えられたこと、それが神さまの愛なのです。
 この神さまの愛を受け入れたときに、わたしたちの冷え切った心は温められます。カチコチだった体は自由を取り戻します。今まで気づかなかった神さまの姿に気づかされます。そしてもう一度、わたしたちを神さまの方へと向き直してくださるのです。

1月8日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(マタイ3:13〜17―印刷用PDFはこちら

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イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
(マタイによる福音書3章16節)

 イエス様は何のために、この地に遣わされたのでしょう。どうして神の子が、わたしたちの間に生まれる必要があったのでしょう。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。天からの神さまの声が、洗礼を受けたばかりのイエス様に向かって掛けられます。イエス様の洗礼は、神さまのみ心でした。
 イエス様は罪深い者ではないのに、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるのはおかしいと思う方もおられるのではないかと思います。しかしこのイエス様の洗礼の記事は、イエス様とは何者なのかを語るときにどうしても外せないものです。
 イエス様の洗礼の場面を、少しだけ想像してみたいと思います。よく絵画などであるように、イエス様と洗礼者ヨハネが会話をしながら、二人だけでいる場面を思い浮かべてしまうかもしれません。しかし実際はどうだったのでしょうか。
 洗礼者ヨハネの元にはエルサレムとユダヤ全土から、そしてヨルダン川沿いの地方一体から人々がやって来ました。決して二人だけの静かな中で、イエス様の洗礼が行われたのではありませんでした。ヨハネの元で罪を告白し、洗礼を受けるために集まった大勢の人々の中に、イエス様は来られたのです。
 イエス様が来たからといって、人々が列を開けてくれるわけではありません。前の人に続いて、イエス様もゆっくりと進んでいきます。人々が必死に罪を告白している姿を見ながら、同じ歩幅で歩まれる、それがイエス様なのです。
 右を向くと、神さまに何とかしてほしいと叫ぶ人の姿があります。左を向くと、どうしても神さまに従えない自分の弱さに気づき、泣いている人がいます。前にも、そして後ろにも、自分の力だけでは生きられない、神さまの憐みを求めてやってくる人たちがいます。その真ん中に、イエス様は来てくださったのです。そして洗礼を受けられました。罪人と呼ばれる人たちの真ん中に立ち、共に歩まれるために。
 わたしたちは白く輝く、きれいな人間でしょうか。一点の曇りもない、清い者でしょうか。そうではないですよね。わたしたちの心は、悲しいけれども薄汚く汚れています。どんなに洗ったつもりでも、どうしてもきれいにならない、それがわたしたち人間なのです。イエス様はその間に来てくれました。ドロドロに汚れたわたしたちの間に立たれたのです。そしてわたしたちと同じように汚れ、わたしたちと同じ歩幅で歩んでくださる。それがイエス様の洗礼の意味なのです。わたしたちを決して一人にしない。そのためにイエス様は来てくださいました。
 イエス様はわたしたちの間にいてくださいます。

1月1日 主イエス命名の日(ルカ2:15〜21―印刷用PDFはこちら

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八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
(ルカによる福音書2章21節)

 1月1日は、教会の暦の上では主イエス命名の日と呼ばれています。幼子がイエスという名前を付けられたことを記念する日です。わたしたちはこの一年も、イエス様と共に歩みたいと思います。
 今日の箇所には羊飼いたちが登場します。この箇所の直前に彼らは、イエス様の誕生を誰よりも先に知らされます。しかしその頃の羊飼いは貧しく、身分の低い人たちでした。彼らの職業は蔑視され、社会の周辺に追いやられていたのです。しかしみ子が生まれたという喜びの知らせは、まずその人たちに届けられました。普通、子どもが誕生したという知らせは、まず誰の元にいくでしょうか。家族の元に、親戚の元に、親しい人たちの元に、そして一番大切に思う人たちの元に。
 救い主の誕生は、まず社会で一番小さくされていた人たちのところに届けられました。それは神さまにとって、その小さくされた存在が、一番大切だったことを意味します。羊飼いたちのところに主の天使がやって来て、救い主の誕生を告げ知らせたときに、彼らは非常に恐れました。それはそうでしょう。突然天から天使が近づいて来て、話しかけるのです。みなさんだったら、どう思うでしょうか。
 羊飼いたちは二つの意味で恐れたのではないでしょうか。一つは神的存在を見てしまったから。旧約の時代、神さまを見た者は必ず死ぬと言われていました。ですから、神さまにとても近い存在である天使を見てしまったことに恐れたのです。
 そしてもう一つ、羊飼いたちは自分たちのことを、神さまとは何の関わりもない、罪深い者だと考えていたと思います。だから天使が自分たちに声を掛けるはずなどないと思った。でもそれのありえない出来事が起こったから、恐れたのです。
 その大きな恐れは、わたしたち一人ひとりのものでもあるのです。わたしたちも神さまに手を差し伸べられ、語りかけられ、呼び集められました。でもその声に、すんなりと応答できたでしょうか。その呼びかけに恐れ、どうしていいのか分からない、それがわたしたちの姿なのではないでしょうか。
 羊飼いたちは、行って、イエス様を探し当てました。イエス様に会いに行く。それこそ、わたしたちにも求められていることなのです。わたしたちもイエス様に会いに、ベツレヘムへ向かうのです。
 こんなわたしたちにも神さまが目を掛けてくださったことをおぼえ、日々歩んでまいりましょう。イエス様はわたしたちと共にいてくださいます。

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