本文へスキップ

TEL. 075-611-2790

〒612-8039 京都市伏見区御香宮門前町184



ショートメッセージ2017年2月

2月26日 大斎節前主日(マタイ17:1〜9―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
(マタイによる福音書17章6〜7節)

 たとえばわたしたちが、王様が主催するパーティーに誘われたとします。突然の招待状です。日時をチェックすると、およそ1か月半後の日曜日。早速手帳に赤丸をつけて、招待状をなくさないように冷蔵庫に貼り付けたところで、ピンポーンとベルが鳴ります。何だろうと玄関を開けてみると、新品のタキシードが届けられていました。添えられた手紙には、「パーティーには必ずこのタキシードを着てください」。着てみると丈はピッタリなのですが、お腹が入りません。無理に閉めると、パーンとはちきれそうです。
 このときわたしたちには、二つの選択肢が示されます。一つは一か月半の間、必死にダイエットするという方法。お腹の周りのお肉を落として、晴れてパーティーに参加するというものです。そしてもう一つは、せっかく自分の元に来た招待状を冷蔵庫からはがして、破り捨てるというものです。自分はパーティーに行くのは、ふさわしくない。そのような場に行くのは、また今度の機会にしよう。そういってあきらめることです。
 わたしたちは信仰を持つということは、前者のようにしっかりと節制をして神さまの前に出ることだと思っているかもしれません。普段から言動に気をつけ、良い行いをし、人のために汗を流す。それがクリスチャンだと考えてはいないでしょうか。でもそうできない自分に気が付くと、神さまはとても遠い存在になってしまいます。せっかくの神さまからの招待状を、ゴミ箱に捨ててしまうのですね。
 今日の箇所で、三人の弟子とイエス様は、高い山に登られます。そこで、イエス様の姿が光り輝くという出来事が起こります。ペトロはそこに仮小屋を建てようと提案しました。イエス様と共に、栄光に包まれていたいと考えたのです。
 しかしイエス様は、山の上に留まりませんでした。もしもイエス様が山にとどまっていたなら、だれがそこにたどり着けるのでしょう。救いにあずかることができるのでしょうか。精一杯ダイエットをして、タキシードを着こむ。そして神さまの前に、正しいものとして立つ。そのようなことができる人などいるのでしょうか。
 イエス様は山を下ります。それは、自分の力で山に登ることのできない、多くの人の苦しみを知っているからです。自分の力だけで歩けない、たくさんの人の痛みを知っているからです。わたしたち一人ひとりのために、苦しみの中にあえて身を委ねられた、それがイエス様なのです。
 神さまの元にたどり着けない、その前に立てないすべての人の元に、イエス様は来られました。そしてわたしたちを、そのままの姿で受け入れてくださいます。

2月19日 顕現後第7主日(マタイ5:38〜48―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
(マタイによる福音書5章44節)

 人はどうしても、何かをされたらやられた以上のことをしてしまいます。傷をつけられたのは片方の目だったのに、相手の両目を傷つける。そしてそれがどんどんエスカレートして、最終的には命の奪い合いにまでなるのです。
 そうならないようにと決められたのが、「目には目を、歯には歯を」でした。やられた以上のことはやるなというのです。つまり同等の報復は、禁じられてはいませんでした。しかしイエス様は、その戒めに新たな一言を付け加えられます。
 そのときイエス様の周りで話を聞いていた群衆の多くは、疲れ果てていました。それこそ、右の頬を打たれるようなこともあったでしょうし、訴えられ下着を取られることもあったでしょう。不条理に歩かされることも。
 群衆は思っていたかもしれません。イエス様だったらこの現実から解放してくれると。しかしイエス様は言われます。右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい。下着を取られそうになったら、上着も渡しなさい。一ミリオン行けと言われたなら、倍の距離を行きなさい。その苦しみから解放してくれると思いきや、正反対です。
 このイエス様の言葉は、我慢を強いているように聞こえるかもしれません。しかし果たしてそうでしょうか。ただ歯向かわずに、復讐もしないのであれば、右の頬を打たれたら、じっと歯を食いしばっていたらいいわけです。下着を取られたら上着だけを着て耐えたらいいのです。一ミリオンが過ぎるのを、じっと待てばよいのです。しかしイエス様は、それ以上のことを要求されます。求められた以上のことを与えるようにと言われるのです。たとえそれが不条理であっても与える。それは同時に、その相手にさらに関わることでもあるのです。
 その相手は、わたしたちからすると「敵」と言っていいかもしれません。その敵に関わり、さらに愛するようにとイエス様は言われるのです。自分に危害や損害を与える人を愛する、その人と関わっていく。そんなことができるでしょうか。
 でもイエス様は確かに、敵を愛せとわたしたちに命令をされています。それは、神さまがまず、わたしたちを愛して下さったからなのです。神さまは悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。このようなわたしたち、愛することすらできないわたしたちに、光も水も与えてくださるのです。わたしたちは決して完全な者ではありません。しかしこの神さまの愛をシャワーのように浴びたのだから、あなたたちも周りの人たちに与えなさいと言われるのです。
 イエス様が命じておられるのは、具体的な行動です。自分が嫌なところに、一歩足を踏み入れることです。神さまの愛に包まれ、歩んでいくことなのです。

2月12日 顕現後第6主日(マタイ5:21〜24、27〜30、33〜37―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
(マタイによる福音書5章21節)

 「腹を立ててはならない」、新共同訳聖書の今日の箇所を開いてみると、このような小見出しがつけられています。そのように書かれると、イエス様はわたしたちに道徳を教えているように感じるかもしれません。しかしわたしたちは「腹を立てる」ことなく生きていくことなど、本当にできるのでしょうか。
 イエス様の時代にいたファリサイ派や律法学者たちは、罪から身を遠ざけようとしました。罪という沼地があったとすると、彼らはそこに絶対に近づこうとはしなかったわけです。だから罪を犯した人がいたとしても、手を差し伸べませんでした。「自分の力でその沼地から出て来なさい。そして泥をきれいに洗い流したら関わってもいいよ」、それが彼らの考えでした。
 彼らファリサイ派や律法学者たちは、正しい者と呼ばれていました。そして彼らはいつも怒っていました。神さまに背き、罪を犯し続ける人々に対して、怒りをぶつけていました。自分こそが正しいと思ったときに、周りの人を侮辱し、否定し、「愚か者」と言う。でもわたしたちも、同じようなことをしてしまうときはないでしょうか。
 イエス様は、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するために来られました。それはわたしたちに新しい倫理観を教えるためではありません。外見だけでなく内面まで裁かれる神さまの前では、わたしたちは誰一人として罪から逃れることはないと言われているのです。
 わたしたちは罪の沼地に、どっぷりと浸かっています。身動きが取れないほど、その泥は、深く、重く、体にのし掛かってきます。泳ぐどころか、前に進むことすらできない、それがわたしたちの状態です。
 それではわたしたちは、その泥沼の中でただ沈んでいくしかないのでしょうか。
 神さまはそれを良しとはされませんでした。神さまの独り子であるイエス様を、わたしたちの間に遣わされたのです。
 イエス様はその泥沼に、舟を出されました。岸辺から「お〜い」と声を掛けられるのではないのです。自ら舟に乗り込み、わたしたちの間に来てくださる。そしてどうされるのか。手を差し出すのか。違うんですね。ご自分も泥沼の中に身を委ね、わたしたちを抱え上げ、舟に押し上げてくださる。それがイエス様なのです。
 わたしたちは、腹を立てることなく生きることなど不可能です。自分の力だけで、罪の沼地から出てくることなど出来ないのです。しかしそんなわたしたちのために、イエス様は来てくださいました。そして「この舟に乗りなさい」と罪深いわたしたちを導いてくださる。福音という名のその舟に。

2月5日 顕現後第5主日(マタイ5:13〜20―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
(マタイによる福音書5章16節)

 あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。今日はこのイエス様の言葉について思いを深めていきたいと思います。
 この言葉は、山上の説教の最初の方で語られました。「幸いである」と集まってきた群衆に向かって語られた直後です。
 イエス様が「幸いである」と語った相手、それは、「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、そして「義のために迫害される人々」でした。そのような人たちは、馬鹿にされ、のけ者にされ、神さまの祝福などあなたたちには与えられないと言われていた人たちでした。しかしその人たちに向かって、イエス様は「あなたたちこそ、幸いなのだ」と宣言されたのです。
 そう言われた彼らは、どう思ったでしょうか。ボロボロの身なりで、必死の思いでイエス様の元にやってきた彼ら。どう生きていいのか、何を信じていいのか分からないまま、足を引きずりながら、何度も倒れながら、何かを求めてイエス様のところに来たのです。
 彼らは何よりもまず、自分のために歩いて来ました。暗闇に包まれたこの状況を何とかしたい。その彼らに、「幸いである」と言われたイエス様。彼らには、その言葉だけで十分だったのかもしれません。その言葉を聞いて、彼らは受け入れられ、このまま生きていいのだと思ったことでしょう。
 しかしイエス様の言葉はそこで終わりませんでした。あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光であると言われます。よく見ると、あなたがたは地の塩になれ、ではありません。世の光になれたらいいね、ということでもないのです。あなたがたはすでに、地の塩であり世の光なのだと宣言されているのです。
 地の塩、それは何でしょう。自分自身が目立つのではなく、周りの人のために生きていく。自分というものが埋もれてしまおうとも、ただただ隣にいる人のために生きていく。そのような生き方です。
 世の光、それは何でしょう。自分で光り輝くことなどできません。しかしイエス様の光をまとい、暗闇にいる人を照らすこと、それが世の光の働きです。
 わたしたちもまた「幸いである」と宣言された一人ひとりです。そして地の塩、世の光として生きることを求められています。決して特別な能力がなくてもいい。わたしたちには、塩としての賜物が、光を輝かせる賜物が与えられています。それを決して隠してしまわずに、隣にいる人のために用いましょう。

バナースペース

日本聖公会 桃山基督教会

〒612-8039
京都市伏見区御香宮門前町184

TEL 075-611-2790
FAX 075-611-2790