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ショートメッセージ2017年3月

3月26日 大斎節第4主日(ヨハネ9:1〜13、28〜38―印刷用PDFはこちら

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弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
(ヨハネによる福音書9章2節)

 この当時、病気になることや不幸が起こること、また貧しいことなどは、神さまからの罰だと考えられていました。逆に裕福で、子どももたくさん生まれ、健康な人は神さまに祝福されているとされていました。わたしたちの身近なところでも、同じようなことがあるかもしれません。その行いが悪いから災いが起きてしまうという、因果応報という考え方です。
 今日の福音書では、生まれつき目の見えない人を見た弟子たちがイエス様にこのように尋ねます。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。弟子たちは、この目の見えない人を罪人として捉えていました。彼は誰かが罪を犯したから、生まれつき目が見えないのだと言うのです。それがイエス様の弟子たちの考えでした。
 しかしイエス様のまなざしは、その人をただ罪人として捉えてはいませんでした。イエス様は彼を見てこう言います。「神の業がこの人に現れる」と。つまり誰もが視線の先からそらし、罪人だと決めつけ、関わることをしなかった人を見て、神さまはこの人に手を差し伸べてくださるのだと宣言されたのです。
 彼はイエス様に見いだされ、見える者とされていきます。なぜ彼はそうされたのでしょうか。信仰深かったのか。あるいはイエス様に必死に頼んだのでしょうか。いいえ、彼は何もしていません。ただ暗闇の中にいた彼に、イエス様は近づき、手を差し伸べました。
 わたしたちはこのドラマを、自分の物語として感じていきたいと思います。自分は見えているのだ、わたしにはすべてがわかっている。わたしたちがそう思った瞬間に、本当に大切なことが見えなくなってしまう、それがわたしたちなのです。
 目の見えなかった人は見えるようになりました。それは、世の光であるイエス様の姿を見ることができたからです。イエス様の光、それはもしかすると、自分が光の中にいると思ったら輝かないようなものかもしれません。暗闇にわたしたちがおり、神さまの助けをただひたすら待っている時に、イエス様は近づいて来られます。そしてその光にわたしたちは気づかされるのです。
 イエス様は人の目に触れられない存在に目を注がれました。同じようにわたしたちもまた、イエス様に目を注がれた一人ひとりです。そしてイエス様によって目を開かれたならば、次はイエス様の視線の先にあるものに、イエス様と一緒に目を注いでいきましょう。
 イエス様はわたしたちを必ず照らしてくださいます。

3月19日 大斎節第3主日(ヨハネ4:5〜26、39〜42―印刷用PDFはこちら

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サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
(ヨハネによる福音書4章7節)

 サマリアの町にある井戸のそばに、イエス様は座っていました。正午ごろのことです。そこへ、一人の女性が水を汲みに来ます。この地域で正午に水汲みをすることは、あまりなかったようです。なぜならばその時間帯は大変暑く、体力を浪費するような行動はできるだけ避けていたからです。しかしこのサマリアの女性は、正午に水汲みに来ました。
 当時水汲みは、女性が主におこなっていたそうです。朝の涼しい時間帯に水汲みに来たならば、井戸の周りではたわいもない会話が繰り広げられていたでしょう。人のうわさ話や陰口なども、日常的にあったと思います。この女性は、その輪の中にいたくなかったのかもしれません。
 彼女には五人の夫があったと書かれています。当時の社会の中で女性が自分の意思で夫をコロコロと変えていくことは難しいことです。夫が彼女を排除したと考えた方が自然です。夫が亡くなったということもあったかもしれません。しかし彼女が子どもを産まないから、他に魅力的な女性があらわれたから、彼女と一緒にいることが嫌になってしまったから。様々な理由をつけて、男性が一方的に彼女に「出て行け」と告げた可能性が高いのです。彼女に罪があろうとなかろうと、何度も捨てられ、裏切られたのかもしれません。
 そして周りの人にレッテルを貼られた彼女は、自分の存在を消すように、自分がいることを悟られないように、人がいない時間帯を選んで行動したのでしょう。そこにユダヤ人であるイエス様が彼女に話しかけます。「水を飲ませてください」と。
 何げない会話です。しかしここで、イエス様は二つのタブーを犯しています。一つは男性から見知らぬ女性に話しかけるということです。まして教師だと見られていたイエス様が、公の場所で女性と話すなど、あってはならないことでした。もう一つは民族の問題です。ユダヤ人とサマリア人は敵対しており、ユダヤ人がサマリア人に話しかけることもありえないことでした。
 イエス様は水をくださいと言われました。しかし同時に、生きた水の話もされます。水を欲しながら、水を与えようと言われるその姿は、一見すると矛盾するようにも思えます。しかし、イエス様が覚える肉体的な渇きをいやす水と、心の渇きを満たしてくれる生きた水とは本質的に違うのです。肉体の渇きをいやす水を持つ女性、その女性の心は渇いていました。イエス様はそのことを何よりも知っていました。二人の会話は、イエス様が彼女の渇きを知り、女性という、またサマリア人という垣根を超えてその人に関わられたことから始まったのです。
 どんな人にでも、神さまは関わってくださいます。どんなにつらい生活をし、人の目を避けて生きていても、イエス様は必ず見いだし、生きた水を与える約束をしてくださるのです。

3月12日 大斎節第2主日(ヨハネ3:1〜17―印刷用PDFはこちら

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イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
(ヨハネによる福音書3章3節)

 今日の福音書には、一人の人が登場します。彼はファリサイ派に属するユダヤ人たちの議員でした。そのことからニコデモのことを、イエス様に抵抗する者としてとらえることもあるようです。しかし本当にそうでしょうか。
 ファリサイ派の人は、神さまから与えられた律法をきちんと守ることで、神さまの前に自分の力で正しい者となろうとしました。また罪だけでなく、罪人と呼ばれる人たちと自分たちを分け隔て、関わることもしませんでした。
 ところがイエス様は罪深い人に手を差し伸べ、罪人と共に食事をされます。ファリサイ派の人たちには、それが信じられませんでした。会堂で教えるような人が、罪から自分の身を守らずに生活している。そのことがどうしても理解できなかったのです。
 そのファリサイ派の一人であるニコデモは、ある夜、イエス様のもとに来ます。彼は人目を避けて来たのでしょう。ファリサイ派の人たちにも、イエス様のうわさは伝わっていたと思います。しかし彼らは、素直に話を聞きに来ることが出来ませんでした。なぜなら、自分たちこそ神さまが与えてくださった律法を正しく解釈し、守っていると自負していたからです。しかしニコデモは、人々の目から隠れながらイエス様に会いに来ました。
 ニコデモはイエス様が福音を伝え、人々に寄り添っていく姿を見ます。そしてその教えと行動は、自分が今まで学んできたこととはまるで違いました。律法を忠実に守ることで、神さまの前に立てるものになれると思っていたニコデモは、イエス様の出現によって、自分の生き方に疑問を持ったのかもしれません。
 わたしたちは今、この二人の会話を、どのように聞いているでしょうか。ニコデモは必死でした。何とか自分が神さまの前に正しく生きていくことができるように、そして神の国に迎え入れられるように、その思いで必死にイエス様にヒントを求めていきました。そしてその答えは「新たに生まれる」ということでした。
 「新たに生まれる」の、「新たに」という語は「上から」と訳すこともできる言葉です。「上から生まれさせられる」。ニコデモは何とか自分の力で神さまに近づきたかったのだと思います。しかし新たな生は神さまから一方的に与えられるものです。
 わたしたちは自分の力で神さまの救いを得るのではありません。神さまからの一方的なお恵みによって、見捨てられても仕方のない、どうしようもないわたしたちが、目を掛けられたのです。そして生きる者とされるのです。
 わたしたちを生かすために、神さまはイエス様を与えてくださいました。そのイエス様の十字架によって、わたしたちは新たにされるのです。

3月5日 大斎節第1主日(マタイ4:1〜11―印刷用PDFはこちら

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イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
(マタイによる福音書4章4節)

 今日の福音書、舞台は荒れ野です。荒れ野というと、町中から離れた寂しいところです。岩がゴツゴツしていて、草木もまばらにしか生えていません。しかしここでは神さまに出会うことが出来ると考えられていました。
 出エジプト記では、モーセに率いられたイスラエルの人々が40年間荒れ野をさまよいます。荒れ野で神さまは、雲の柱や火の柱を送って人々を導き、また天からマナという食べ物を与えて養われました。そこでは神さまを感じることができたのです。
 その荒れ野に、イエス様は宣教を開始される直前に行かれました。40日間断食をして、ただひたすら神さまと対話されます。わたしたちはこの40日間を思い浮かべた時に、げっそりとしたイエス様を想像するのではないでしょうか。頬はこけ、生気がなくなったイエス様を思い浮かべるのです。
 だからわたしたちはその姿に倣い、復活日までの40日間という大斎週の間、イエス様と同じように暗い顔をして過ごしていく。
 しかし、荒れ野という場所で、これからいざ宣教に向かうというそのときに、イエス様は本当にそのような顔をしていたのでしょうか。
 わたしは思います。決してそうではないと。荒れ野での40日間、イエス様は神さまと対話し、神さまのみ手によって養われたイエス様は、神さまのみ恵みにのみ包まれていたと思うのです。つまりイエス様の心は、神さまのお守りとお導きによって充実していたというのが、40日間の断食を終えたそのときだったと思います。
 肉体は食物を得なければ、維持できない。これはわたしたち人間が考える常識です。しかしイエス様は言われます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と。
 イエス様はこの箇所を通して、わたしたちも神さまの口から出る一つ一つの言葉に頼るようにと告げられます。たしかにパンも大事かもしれません。しかし神さまからの導きがないと、わたしたちは本当の意味で生きることができない。そのことをイエス様はわたしたちに教えておられるのです。
 復活日までの40日間、わたしたちは神さまの恵みを感じながら、毎日を過ごしていきたいと思います。神さまのお恵み、それは神さまがわたしたちにイエス様を遣わしてくださった事です、そしてその大切な独り子を十字架へと向かわせたことです。そのことによって、わたしたちは神さまの前に立てるものとされました。
 そのことに感謝しつつ、4月16日のイースターを喜びをもって迎えることができればと思います。

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