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ショートメッセージ2017年4月

4月30日 復活節第3主日(ルカ24:13〜35―印刷用PDFはこちら

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すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
(ルカによる福音書24章31節)

 エマオに向かう二人の弟子たちがいました。彼ら二人は歩きながら、エルサレムで起こった一切のことについて、ずっと話していました。イエス様がエルサレムに入り、とらえられ、十字架につけられ、死んで葬られた。ところが三日の後に女性たちが墓に行ってみると、イエス様の姿はそこから消えていた。そして墓に行った女性たちは二人の天使に、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と言われた。不安の中で、恐れの中で、彼らは話をしていました。その会話の中に、そして二人の歩みの中に、イエス様は入って来られました。
 桃山基督教会では、再来週、伝道開始100年・礼拝堂聖別80周年を迎えます。ずっと記念誌のために、資料集めをしてきました。そこにあったものは、幾度となく訪れる苦難の足跡でした。戦争のこと、突然の別れ、活発に活動していた集まりがいつの間にか消えたこともありました。何年も洗礼者が与えられないことも、大切な人が教会から離れて行ったこともありました。
 そのたびに、嘆きの声が聞こえてくるようでした。神さまのみ心に従って歩もうとしているはずなのに、神さまが喜ぶと思っておこなったことなのに、どうして。
 しかし、もしもそれが嘆きのままでずっと続いていたなら、今この教会はなかったのかもしれません。でも今、わたしたちはこうして、桃山基督教会で賛美しています。祈りをささげています。100年の歩みが示すもの、それは苦難の歴史だけではありませんでした。苦しみも悲しみもあったでしょう。でもそれと同じぐらい、いやそれよりもはるかに優る喜びがあったのです。
 エマオに向かった二人のそばには、イエス様がいました。一緒に語り合い、一緒に歩き、そして一緒に食卓を囲みました。わたしは思います。この二人の弟子は、わたしたち信仰者の姿なのではなかろうかと。わたしたちは何度だって、エマオに向かう弟子たちのように、イエス様の姿を見失い、恐れの中で歩いていきます。神さまって本当にいるの、守ってくれるの。どうしようもない不安の中で歩くのです。
 でもふとした瞬間に、イエス様がいてくださっていることに気づかされてきたのです。自分たちの力だけで、歩いているのではない。イエス様がいつもいてくれる。その思いがこの教会の礎なのです。
 エマオの物語は、わたしたちに伝えてくれます。イエス様は、いつもわたしたちと共にいてくださると。わたしたちが一人で歩いていると思っていても、必ずイエス様はいてくださいます。そのときにはイエス様とはわからなくても、心燃やされる瞬間、温かいものがあふれた瞬間、そのときに、イエス様の手はわたしたちを包み込んでいるのです。

4月23日 復活節第2主日(ヨハネ20:19〜31―印刷用PDFはこちら

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イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
(ヨハネによる福音書20章21節)

 先週は復活日でした。その日に読まれた箇所には、空の墓を見たマグダラのマリアと弟子たちの姿がありました。聖書はそのあと、マグダラのマリアが墓の前で復活のイエス様と出会った場面を描きます。そしてマグダラのマリアは弟子たちに、「わたしは主を見ました」と伝えました。
 今日の箇所の前半は、弟子たちがその知らせを聞いた日曜日の出来事です。でもその場は、喜びであふれているようには思えません。それどころか、弟子たちは家の戸に鍵をかけ、ブルブルと震えていました。イエス様と一緒に行動していた自分たちにも、危険が迫っていると感じていたのでしょうか。またイエス様が墓からいなくなった原因を自分たちに押し付けられ、とんでもない目にあわされるかもという思いもあったかもしれません。イエス様が復活なさったという出来事は、弟子たちにとって自分たちとは関係のないことのように感じているようです。
 そこにイエス様は来られます。イエス様はご自分の復活とは一体何なのか、彼らに伝えるのです。イエス様は弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と告げます。平和というと、戦争のない状態だと感じてしまうかもしれません。しかし正確には、「あなたがたに平安あれ」ということです。この言葉を言うために、イエス様は彼らの真ん中に立ったわけです。
 心騒ぎ、目の前が真っ暗になり、何も信用できない。誰もそばにいてくれない。恐くて仕方がない。わたしたちにも、何度だって経験のあることです。どうしてこんな目に合うのか。前に進もうにも進めない。うずくまって泣いてばかり。その姿は2000年前から今に至るまで、何度も何度も繰り返されてきたわたしたちの姿です。イエス様は十字架で息を引き取られ、墓に葬られ、そして三日後に復活されました。なぜ復活しなければならなかったのか。それはわたしたちに「平安」を与えるためです。イエス様が与える平安、それはイエス様が共にいてくださる、絶対に見捨てない、必ず守ってくださるということなのです。
 だからわたしたちは心を騒がせなくていいのです。その伸ばされた腕にしっかりとしがみつけばいい、暖かい胸の中に飛び込んで行けばいい。それがイエス様の復活の意味です。イエス様が与えてくださる約束なのです。
 この物語は、今も続いています。心落ち着かず、嫌な思い、苦しい気持ち、今にも叫びだしたくなるようなこともあると思います。しかしイエス様は今日も、心に鍵をかけ、震えている人のところに来てくださいます。あなたの心の中にも平安をもたらし、いつもそばにいるということを伝えるために。

4月16日 復活日(ヨハネ20:1〜10―印刷用PDFはこちら

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週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
(ヨハネによる福音書20章1節)

 今日の聖書の箇所が伝えるイエス様の復活の物語は、不思議な出来事です。イエス様の復活物語は、様々なパターンで伝えられています。鍵をかけた部屋に現われたとか、疑っていたトマスの前に現われた、泣いているマグダラのマリアに、エマオに向かう弟子たちに、漁をしている弟子たちの元に、いろいろな形でイエス様は現れます。
 しかし、今日読まれたヨハネによる福音書の20章1節から10節では、それらとはまったく違う角度から、わたしたちにイエス様のご復活を伝えていきます。
 物語はこのような言葉から始まります。「週の初めの日、朝早く」。週の初めとは今でいう日曜日です。今日のような日曜日、その朝に驚くべき出来事が起こりました。その目撃者はマグダラのマリアでした。彼女はただ一人、墓へと向かいました。だれかと示し合わせたわけでも、何かをしなければならないという義務感からでもない。ただ彼女はイエス様に会いたい、その顔を見たい、その思いだけで行動しました。
 彼女には必要でした。イエス様という存在が何よりも必要でした。イエス様がおられないなんて考えられないわけです。しかし彼女の目は、イエス様の姿をとらえることができませんでした。
 イエス様はご自身が復活されたしるしを与えられます。それはイエス様はすでに、墓の中にはいないということでした。そこにおられないことがしるしなのです。死を克服して勝利した、イエス様の出来事がここに現わされているのです。とても不思議なことです。もしも墓の中を覗き込んだときに、亜麻布に包まれたままのイエス様がむくっと起き上がったならば、それこそ「生き返った」ということが見える形で示されたのでしょう。しかし彼女たちは、見えないものを見ることで、信じるようにされたのです。
 難しいことです。2000年前の彼女たちにとってもそうだったでしょうが、今を生きるわたしたちにとっても、頭で理解することは無理です。しかしわたしたちは知っています。イエス様が墓の中から出られ、復活されたという事実を。見てはいないけれども信じている。それがとても大切なことなのです。
 見えないものに目を注ぎましょう。目には見えないけれども、確かにわたしたちに起こっている出来事に目を注ぐのです。神さまはわたしたち一人ひとりのためにイエス様を十字架へと向かわせました。彼は息を引き取り、墓へと葬られました。しかしイエス様は、死の中から起き上がりました。わたしたちが一人で歩くことがないように。
 主のご復活、おめでとうございます。

4月9日 復活前主日(マタイ27:1〜54―印刷用PDFはこちら

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百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
(マタイによる福音書27章54節)

 イエス様は、社会から見捨てられ、虐げられてきた人と共に歩んでいきました。病気の人、罪人や徴税人、娼婦、人々に敬遠され、蔑まれ、馬鹿にされてきた人たちの元に行き、手を差し伸べ、関わっていかれました。自分はもうだめだ、神さまにも人にも見放された、そう思う人たちのところに行き、高らかに宣言されたのです。神さまはあなたたちのことを愛していると。
 しかしそのイエス様は、十字架につけられます。彼の十字架での死は、神さまのみ心でした。イエス様は十字架に付けられるためにこの世に遣わされました。すべては神さまのご計画の中にあったのです。
 神さまの子どもであるイエス様は、わたしたちの元に遣わされました。普通だったら、何不自由なく過ごせたはずです。しかしイエス様は、わたしたちと同じ人間として来られました。人間、それは弱いものです。ちょっとした誘惑で心が揺れ動き、神さまの前に正しくなれず、罪を背負って生きていきます。イエス様はそのようなわたしたち人間と、同じところに立たれたのです。わたしたちの苦しみや悲しみ、涙、怒り、すべてを受け止め、理解し、背負ってくださる。それがイエス様なのです。
 イエス様が歩いた十字架への道は、本当だったらわたしたちが歩かなければならないものです。わたしたちは何度でも、神さまを悲しませています。わたしたちの心の中には、たくさんの悪い思いが渦巻いています。神さまに対しても、隣にいる人に対しても、優しくなれない。傷つけてしまいます。
 もしも今、神さまが目の前にあらわれたとしたらどうでしょうか。胸をはって、「わたしは何も悪いことをすることなく生きてきました。あなたの前に正しい者です」と言えるでしょうか。残念ながらわたしたちは、神さまの前では誰一人、潔白ではありません。それどころが、ドロドロです。しかし今日の福音書は、そのようなわたしたちに対しての福音、良き知らせなのです。
 イエス様が十字架へ向かった理由、それは神さまが、わたしたちにそのような道を歩ませることを望まなかったからです。神さまは、わたしたち一人一人を大切にしてくださいます。だからわたしたちが十字架へと向かって欲しくなかった。十字架に付けられ、滅びへと進んで行くことが耐えられなかったのです。
 わたしたちが生きる者となるために、神さまの前に立てる者となるために、イエス様はすべての罪を背負って、本当だったらわたしたちがつけられるはずの十字架に付けられたのです。
 十字架は、イエス様のその死によって、死の象徴から、わたしたちのいのちのシンボルとなりました。わたしたちは十字架を見るたびに、イエス様が「あなたたちは生きよ」と強く望まれたことを思い起こすのです。

4月2日 大斎節第5主日(ヨハネ11:17〜44―印刷用PDFはこちら

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すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
(ヨハネによる福音書11章44節)

 幼稚園の子どもたちに、「神さまってどんな人だと思う?」って聞くことがあります。みんな、いろんなことを言います。「優しい」、「怒ったら怖い」、「いつも見ていてくれる」など様々です。でも不思議なことに、子どもたちは感覚的に、神さまはすぐそばにいてくれると思っているようです。
 しかし大人になっていくにつれ、わたしたちと神さまとの距離は少しずつ離れていくように思います。神さまはちょっと離れたところにいて、必要なときだけ来てくれればいい。逆に言うと、神さまがずっとそばにいたら困るのです。親子の関係だってそうです。小さい頃はいつも一緒にいてほしかった親が、だんだんうっとうしくなってしまう。でも離れているようで、いつもそばにいるのが親です。たとえ肉体的には離れていたとしても、その心はいつもそばにいる。神さまも同じです。わたしたちがどんなに離れていても、神さまは決して手を離そうとはされないのです。
 神さまはその独り子であるイエス様をわたしたちの元に遣わされました。神さまから離れ、自分勝手に生きようとするわたしたちのもとに。イエス様はわたしたちの元に来られ、手を差し出し、抱きかかえ、歩いてくださいます。わたしたちと同じ位置まで下りてきて、同じ目線に立たれるのです。
 今日の箇所で、涙を流すイエス様の姿が描かれました。それは死の前に恐れ、立ちすくみ、涙する人々の姿を見たからでした。わたしたちも日常の中で、どうしようもない現実に涙を流してしまうことがあると思います。イエス様はそのようなわたしたちを見て、どうされるのでしょうか。「信仰の薄い者よ、泣くな」と叱られるのでしょうか。
 そうではありません。イエス様はわたしたちの悲しみを負い、共に涙を流してくださるお方です。わたしたちの心を知り、わたしたちと同じところに来て、一緒に泣いてくださるのです。
 そして、涙を流しながらも、恐れるな、信じてほしいと、わたしたちに語り続けます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 大斎節も、残り二週間となりました。イエス様がわたしたち一人ひとりのために十字架につけられる、そのときを思い起こすときです。イエス様は涙を流しながら、わたしたちに、生きてほしいと望まれました。ただ滅びていく存在から永遠の命を得る存在へと変えてくださる、そのことを信じたいと思います。
 そして復活日にわたしたちもまた、復活の命にあずかりたいと思います。

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