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ショートメッセージ2017年5月

5月28日 復活節第7主日(昇天後主日)(ヨハネ17:1〜11―印刷用PDFはこちら

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聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
(ヨハネによる福音書17章11節b)

 だれかが自分のために祈っていると気づくことは、とても大事なことだと思います。健康で何にも不安なことがないときには、あまり気にならないかもしれません。でも苦しいとき、悲しいとき、自分の力で歩くことができなくなったときに、誰かが自分のことを思い、祈ってくれていたら、温かいものを感じられるのはわたしだけではないと思います。
 今日の福音書には、イエス様が弟子たちのためにお祈りをする場面が書かれています。「聖なる父よ、わたしに与えてくださったみ名によって彼らを守ってください」。そのイエス様の祈りの言葉に、今日は心を向けてみたいと思います。
 イエス様は弟子たちの前で、天を仰いで祈り始められました。それまでイエス様は、弟子たちに対して告別説教と呼ばれる長い説教をされています。逮捕され、十字架へと向かっていくその直前に、イエス様は弟子たちにたくさんのことを語ります。イエス様は説教をするとき、弟子たち一人ひとりの顔を見ながら、語り掛けていったことでしょう。ゆっくりと、理解できるように、丁寧に。そのイエス様の視線の先には、弟子たちとともに、わたしたちの姿もあるように思います。
 そしてイエス様は説教を語り終えたあと、天を仰がれます。天に視線を移すのです。十字架の直前に、弟子たちに絶対に伝えておかなければいけないメッセージを語った後、視線を天に向け、弟子たちの目の前で彼らのために祈るイエス様の姿がそこにはあります。
 イエス様が弟子たちの目の前で祈られた祈り。それは今も、ずっと、祈り続けられています。「弟子たちを守ってください」というイエス様の言葉は、今、わたしたちに向けられています。わたしたちの目には、イエス様の姿は見えないかもしれません。しかしイエス様は約束されました。わたしたちと共にいて、わたしたちを守ってくださると。そのためにイエス様は、ずっとわたしたちのために祈ってくださるのです。
 どうぞ、脳裏の片隅にでもいいです。イエス様が、あなたの名前を呼びながら、「この人のために祈ります」と、祈る姿を覚えておいてください。また教会にも、家庭や地域や職場やいろいろな場所にも、あなたのことを思い、いつもお祈りにおぼえてくれている人がいることを、絶対に忘れないでください。
 イエス様の祈る姿や、多くの方々があなたのために祈る姿は、目には見えないかもしれません。でも、事実、祈られているのです。そのことを信じ、希望をもって日々を過ごしていきましょう。大丈夫です。イエス様は共にいてくださいます。

5月21日 復活節第6主日(ヨハネ15:1〜8―印刷用PDFはこちら

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わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
(ヨハネによる福音書15章3節)

 桃山基督教会には、葡萄の樹という名前の教会報があります。その創刊号は1940年9月15日に発行されました。そこにはこのような言葉が書かれていました。
 「この(葡萄の樹という)名前は、教会がキリストという一本の葡萄の樹に連なる枝であるというイエス様の御譬えからとりました。その故に、我々は同じ枝に連なる兄弟姉妹として、互いの苦楽を共に致したいと存じます」。
 つまりわたしたちの教会は、自分たちが葡萄の樹の枝であることと同時に、隣にいる人も同じようにイエス様に連なっているのだということを、ずっと大切にしてきたということです。ではぶどうの木とは、どのようなものでしょうか。
 ぶどうの木はツル性落葉木です。園庭にある藤の花と同じ種類です。前に植木屋さんと、藤棚の剪定について話したことがあります。植木屋さんは言われました。大切なことは、一本一本の枝を大切に扱うということだそうです。たとえば不要な枝かどうかを判断するときには、端っこのところと根っこの部分とを二人がかりで引っ張ります。そしてちゃんとつながっている枝かどうかを判断して、いらない枝だったら切除します。要はその枝一本一本をきちんと把握して、本当に必要なものかどうかを確かめる。その根気のいる作業が必要なのです。
 想像してみてください。わたしたちは一本一本の枝です。どうにかこうにか、イエス様という幹に連なっている、そんな枝です。そこへ神さまがやってきて、本当に栄養はいっているか、ちゃんと実を結ぶように育っているか、丁寧に点検するのです。
 こう言うと、わたしたちは少し不安をおぼえるかもしれません。本当に自分はイエス様につながっているのだろうかと。その時には、イエス様のこの言葉を思い出してください。「わたしもあなたがたにつながっている」。イエス様は決してわたしたちから手を離さない。大丈夫だよ。そう約束してくださるのです。
 ぶどうの枝は、まっすぐ育ちません。楠のように、まっすぐと自分の力で伸びていく、そんな枝ではありません。向こうに伸びたと思ったら、いつの間にかこっちに戻ってきて、伸びないのかなあと思っていたら、急にまた伸び出して。まるでわたしたちです。そして周りを見ると、同じような枝だらけです。みんな思い思いのところに伸びるから、ある枝は他の枝の邪魔をしてしまったり、またある枝はとなりの枝にからみついて、どうしようもないことになってしまったり。でもお互いがお互いを支え合いながら、共に成長していくのがぶどうの木です。
 わたしたちは一人として、同じ人はいません。そして一人として、自分一人だけで豊かな実を結ぶ人などいないのです。しかしイエス様に連なり、共に支えあうことで、わたしたちは助け合いながら素晴らしい実をつけていくのです。

5月14日 復活節第5主日(ヨハネ14:1〜14―印刷用PDFはこちら

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イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
(ヨハネによる福音書14章6節)

 今日読まれた福音書の言葉を、わたしは毎週目にします。桃山基督教会の礼拝堂の正面に二枚の掛け軸がかかっていますが、そのうちの一枚にこの聖句が書かれているからです。
 今日、5月14日に桃山基督教会では「伝道開始100年・礼拝堂聖別80周年記念礼拝」がおこなわれます。今から100年前、伏見の地で新たな集まりが生まれ、そして80年前に現在のところに教会が建てられました。いつ礼拝堂につけられたのかという記録はありませんが、かなり昔の写真にも掛け軸は出てきます。きっとたくさんの人たちが礼拝中にこの言葉に心を向け、この言葉に励まされ、この言葉に希望を与えられたのだと思います。
 「わたしは道であり、真理であり、命である」。この言葉を、わたしたちはなぜ大切にしているのでしょうか。それはわたしたちが、イエス様に生かされていること、いつも共にいてくださり、支えられていることを実感したいと願っているからだと思います。イエス様が「一緒に行こう」と言ってくださった言葉を思い出し、迷ったときには手を差し伸べ、歩けないときには背負って下さることを信じたいからではないでしょうか。
 「わたしは道であり、真理であり、命である」。この言葉はまた、お葬式のときにもよく読まれます。わたしたちはたとえ天に召されても、道であるイエス様が神さまの元へと導いてくださるから、わたしたちは悲しみの涙を流しながらも、その向こうにある希望に目を向けることができるのです。
 これからもこの教会には、たくさんの人が訪れることでしょう。その方々と一緒に、わたしたちは感じていきたいと思います。道であり、真理であり、命であるイエス様が、いつもわたしたちと共におられるということを。わたしたちに道を示し、わたしたちに真理の光を浴びせ、そしてわたしたちに命を与えてくださる方が、わたしたち一人ひとりの名前を呼び、一緒に歩いてくれるということを。
 「わたしは道であり、真理であり、命である」。わたしたちはこれからもこの言葉を胸に、歩んでいきたいと思います。
 桃山基督教会、そしてみなさんの上に、神さまの祝福が豊かに与えられますように。

5月7日 復活節第4主日(ヨハネ10:1〜10―印刷用PDFはこちら

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わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
(ヨハネによる福音書10章9節)

 わたしたちとイエス様とは、一体どんな関係なのでしょうか。わたしが子どものころ、神さまに対して持っていたイメージは、「とても怖い存在」というものでした。いつも神さまに見張られているという感覚があったのです。この感覚は、旧約聖書の中にも見られます。
 そのころ、人々は神さまから与えられた掟を守ることに必死になっていました。しかし、すべてのことをきちんと守れるのであればいいのですが、実際に出来ないことのほうが多いのです。例えば殺すなという命令があります。確かに肉体的に人の命を奪ったことはないかもしれません。でもイエス様は言います。人に向かって馬鹿と言うことだって、駄目なのだと。その基準に立つと、わたしたちのうち、だれが神さまの前に正しいものとして立てるのでしょうか。
 イエス様は、そんな神さまの言いつけを守りたくても守れない人たち、神さまの前に立つことが出来ず、周りの人たちからも虐げられ、差別されていた人たちの元に来られました。そして言われるのです。自分は羊飼いであり、また羊の門であると。イエス様とわたしたちは、そのような関係なのだと言われます。
 羊とはとても弱い動物です。目がとても悪く、群れから外れたら自分の力で戻ることができません。だから羊は、お互いにぴったりくっついて行動します。食べ物のある草むらにも、自分たちの力だけではなかなかたどり着くことができない。また転んでひっくりかえったら、起き上がることすらできない、それが羊なのです。
 その弱い羊たちを守り、導くのが羊飼いです。一匹一匹を名前で呼び、飲み食いできる場所に連れて行き、敵が来たら命がけで守り、寝ることも惜しんで世話をする。そして羊たちは、自分の羊飼いの声を聞き、安心して牧場へと導かれます。それが羊と羊飼いとの関係です。その関係の中に、イエス様とわたしたちがいるのです。神さまは、わたしたちを見張るためにイエス様を遣わされたのではありません。わたしたちを生かすために、弱くて倒れやすいわたしたちを正しい場所に導くために、イエス様を羊飼いとして遣わされたのです。
 さらにイエス様は、羊の門でもあります。門というと、入口です。わたしたちは、神さまの元に、神の国に入りたいと願います。でもその入口に、自分の力でたどり着くことができないのです。イエス様がいくら羊飼いとして来られ、こっちだよって導こうとしても、倒れるときがある。動けないことだって、いくらでもあるのです。
 だから門であるイエス様は、自ら来てくれるのです。歩くことができなくなっても、わたしたちの方にやってきて名前を呼び、その手を握って門の中へ導いてくださる。そのためにイエス様は、わたしたちの元に来てくださったのです。

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