本文へスキップ

TEL. 075-611-2790

〒612-8039 京都市伏見区御香宮門前町184



ショートメッセージ2017年6月

6月25日 聖霊降臨後第3主日(マタイ10:24〜33―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
(マタイによる福音書10章26節)

 今日の箇所には、「恐れるな」という言葉が三度出てきます。恐れるなとそれだけ何度も言わなければならないということは、逆に言えば弟子たちはそれほどまでに恐れていたということです。おののいていたということです。
 イエス様はその生涯において、多くの人々に教えを語り、苦しみをいやしてきました。その飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆を見て、イエス様は深く憐れまれました。この群衆をなんとかしたい、その思いに突き動かされ、イエス様は弟子たちを派遣することを決めます。弟子たちを呼び寄せ、人々の間に遣わされるのです。その中で、この「恐れるな」という言葉は出てきます。
 たとえば幼稚園の子どもがはじめて水の中に顔をつけるときに、怖がっている子どもを見てわたしたちは、大丈夫、安心していいから、何かあったらすぐ横にいるからと伝えると思います。決して怖がっては駄目だ、我慢しなさいとは言わないはずです。この場面の「恐れるな」も同じです。言葉だけを見ると、たじろいでしまうかもしれません。恐れてはいけない、ブルブル震えても怒られる、そう思うかもしれません。しかしイエス様が弟子たちに伝えたかったのはそうではありません。恐れる必要などないということです。これは禁止命令ではなく、励ましの言葉なのです。
 イエス様が活動されていた時代、そして聖書が書かれた時代、いずれの時代も恐れずに宣教できるような状況ではありませんでした。イエス様に従うことでユダヤ人の会堂から追放されることもありました。神さまを冒涜していると石で打たれ、殺された人も大勢いました。
 今の日本においては、福音を伝えることは命がけのことではないかもしれません。しかし、真理を語ることで苦しみを受けることはあることでしょう。自分が信じるもの、神さまが与えてくれているもの、わたしたちは神さまからどう思われているのか、たくさん語りたいと思っていても、語ることによって痛みを覚えることがあるのもまぎれもない事実です。でも中においてこそ、今日のイエス様の言葉を思い起こしたいのです。
 覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
 必ず真理は人々の前に現されます。神さまの愛は必ずすべての人々に知られるのです。それがいつのことなのか、だれにもわかりません。でも必ずその日はきます。イエス様はわたしたちを遣わされました。人々に真理、神さまの愛を伝えるために。
 わたしたちが神さまから受けたもの、その恵みに感謝し、それを周りの人たちに伝え、共に分かち合いましょう。恐れることは何もありません。

6月18日 聖霊降臨後第2主日(マタイ9:35〜10:8―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
(マタイによる福音書9章36節)

 今日の箇所には、イエス様が町や村を回る姿が描かれていました。来る日も来る日もいろいろな場所で、今、必要とされている人のところに向かう。これがイエス様の姿です。ではイエス様の原動力は、どこからきたのでしょうか。
 聖書にはこうあります。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と。イエス様は群衆を深く憐れみました。目に入るのは飼い主のいない羊のような群衆の姿です。羊は弱く、目も悪く、臆病で、自分たちの力だけでは何もできません。羊飼いなしには水場に行くことも、安全な場所で眠ることも、外敵の攻撃を避けることもできない。それが羊です。
 イエス様の目に飛び込んできたのは、まさに弱り果て、打ちひしがれた羊のような群衆の姿でした。何も手につかない。生きるのがつらい。全身から力が抜け、目はうつろで、どうすることもできない。そんな姿です。イエス様はその彼らを見て、深く憐れみます。「憐れむ」というと、「かわいそうに」というニュアンスを抱くかもしれません。しかし原語の意味は違います。ある人はこの語を、「わが『はらわた』、彼のために痛む」と訳しました。内臓がよじれるかのように、かきむしられるかのように、痛い。それが群衆を見たイエス様の感情なのです。
 イエス様にとって、群衆の痛み、苦しみは、他人事ではありませんでした。イエス様は自らのはらわたで、痛み、苦しみを感じられていた。これが聖書のいう憐みであり、イエス様が群衆に対し、そしてわたしたちに対して抱かれる思いなのです。
 イエス様の宣教は、ここから始まりました。つまり、イエス様が群衆を深く憐れんだということがスタートなのです。イエス様は群衆の苦しみや痛みに共感したからこそ、教え、福音を宣べ伝え、病気や患いをいやしたのです。教会に求められていることも、同じです。イエス様はわたしたちにも、同じようにしなさいと命じられています。
 しかしその行動の根本に憐れみがないと、それは宣教とはいえません。どんなに上手に説明しても、希望を語ったとしても、その根底に神さまの憐みがないと、それは意味のないもの、神さまのみ心にそったものではないのです。
 わたしたち自身、神さまから一方的に憐れんでいただきました。神さまの元から迷い出た羊であるわたしたちを導き、歩ませてくださいました。この喜び、感謝を伝えたい。わたしたちがそうであったように、打ちひしがれ、倒れている人と、心をひとつにしたい。その思いがイエス様のいう宣教なのです。
 神さまはあなたのことを大切にしている、憐れんでいる。そのことを一人でも多くの人と分かち合ってほしい。それが神さまの思いです。

6月11日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(マタイ28:16〜20―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイによる福音書28章19〜20節)

 今日の箇所は、「宣教命令」と呼ばれるところです。復活したイエス様は弟子たちに対し、「行って、すべての民を弟子にしなさい」と命じられます。この言葉をわたしたちはどのように受け取ればよいのでしょうか。
 宣教というと、街頭で大きな声を出したり、ビラを配ったり、家を訪問したりと、そのようなイメージがあるかもしれません。そして自分には関係ないことだと勝手に思ってしまう、そんなことはありませんか。
 もしわたしたちが自分の力だけで、自分で考え出した言葉で神さまの愛を語らなければいけないのであれば、とても大変です。逃げ出したくなる気持ちもわかります。しかし福音を伝えるということは、そういうことではないのです。
 簡単にいうと、「自分に与えられたものを伝える」ということです。たとえば近所に美味しいラーメン屋さんが出来たとします。友達に「今度出来たラーメン屋さん、美味しいから一緒に行こう」と誘うとき、実際に一度食べているかどうかで、その言葉の説得力はまるで違うと思います。
 では、わたしたちに与えられているものとは何でしょうか。わたしたちにはそれぞれ、得意なことがあると思います。歌を歌うことやお菓子を作ること、人と接するときに見せる優しさや、人のために祈ることなど。それらはみな、神さまがわたしたちに与えてくれたもの、「賜物」です。わたしたちはその賜物を生かし、隣にいる人のため、神さまのために用いるのです。
 宣教とは、聖書がどんなことを書いているのかを正しく理解し、説明することではありません。神さまから与えられたものを生かし、人に仕える。イエス様がそうであったように、人の間で生きていく。そのことによって、神さまの愛を伝えていく。それが宣教なのです。
 そして「聖霊が共に働いてくれる」ということも、忘れてはなりません。宣教は決して自分の力だけでおこなうことではないのです。イエス様は約束してくださいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。わたしたちは決して見捨てられてはいません。イエス様が与えて下さった聖霊がわたしたちを導き、助けてくれます。わたしたちがたとえ、何をすべきか迷ったとしても、身体の力を抜いて、聖霊の働きに身を委ねれば、必ず良い方向へと導いてくれるのです。
 「いつも共にいる」という約束を信じ、歩んでいきましょう。そして今、不安の中にいる人がいたら、「大丈夫、神さまはあなたを愛している」と伝えましょう。あなたが神さまに愛されているのと同じように。

6月4日 聖霊降臨日(ヨハネ20:19〜23―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
(ヨハネによる福音書20章22〜23節)

 今日は聖霊降臨日です。十字架上で息を引き取られたイエス様は墓に葬られ、三日後に墓からよみがえられて、復活の姿を多くの人たちに現し、天に昇られました。そしてその10日後に約束の聖霊を弟子たちに与えられます。ルカ福音書と使徒言行録には、このような出来事が語られています。しかしヨハネによる福音書を読んでみますと、この流れとは随分違っています。また流れだけでなく、使徒言行録のように炎のような舌が頭の上に乗るという出来事もありません。あるのは復活したイエス様が、直接弟子たちに息を吹きかけられるという描写です。
 この二つの物語、まったく違う聖霊降臨の物語に見えますが、どちらもまぎれもない真実です。それだけではなく最初の聖霊降臨から2000年の間、多くの人々が復活のイエス様と出会い、それぞれに違った聖霊降臨の体験をしてきたことでしょう。使徒言行録のように、何か熱いものが上から与えられたという経験をした人もいたでしょうし、ヨハネ福音書のようにイエス様の息を感じることのできた人もいたことでしょう。またそれらとは全く違う経験もあったと思います。
 わたし自身考えてみても、いつ聖霊が与えられたかというような体験は思い出せないものの、聖霊の働きを感じることはよくあります。説教をしているときに、ふと思いもしない言葉が口から出ていくことがあります。そのようなとき、あとから、「あの言葉は自分に対して語られた」と言ってこられる信徒さんがいます。自分の心の内を見透かされているような感じがしたと思ったら、今、自分に必要な言葉を与えられたのだと。
 でもそれは、正確にいうとわたしが語った言葉ではありません。わたしが何かをしたわけでもないのです。神さまがわたしの口を通して、その人に語ったのです。これを聖霊の働きと言わず、何と言えばいいのでしょうか。
 思い出してみればこれまでの人生の中で、嬉しいことも、辛いこともありました。喜びにあふれたこともあったし、涙が止まらない、そんなこともありました。しかし振り返ってみると、すべては神さまの導きであり、聖霊の働きであると思います。
 聖霊の働き、それは言葉にすることはとても難しいです。でも、神さまを信じていることで起こった不思議なこと、思いもしないことと言ったらどうでしょう。それだったらあるよ、という人はおられるかもしれません。それこそが、聖霊の働きです。それがわたしたちに起こっている、聖霊降臨の出来事です。神さまの力によって、聖霊の働きによって、わたしたちは日々生かされているのです。

バナースペース

日本聖公会 桃山基督教会

〒612-8039
京都市伏見区御香宮門前町184

TEL 075-611-2790
FAX 075-611-2790