本文へスキップ

TEL. 075-611-2790

〒612-8039 京都市伏見区御香宮門前町184



ショートメッセージ2017年7月

7月30日 聖霊降臨後第8主日(マタイ13:31〜33、44〜49a―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
(マタイによる福音書13章44節)

 まずイエス様は、群衆に語られました。天の国は、からし種に似ている、そして天の国はパン種に似ていると。からし種というのは、とても小さい種です。くしゃみをすれば飛んでいくようなものです。でもそれが蒔かれると、2〜3メートルの木になって、その下で鳥が憩うようになります。またパン種、これはパンを発酵させるために小麦粉などにまぜるもの、形状は違いますが、イースト菌を思い浮かべてください。去年の教会キャンプで、手作りパンを作りました。材料にイースト菌を混ぜてコネコネして、袋に入れたまま日向に放置します。すると忘れたころに、袋がパンパンにふくれていました。天の国はそういうものだというのです。
 どちらも、もともとは小さくわずかなものです。その小さなものが、とてつもない成長をとげる。大量の粉の中に隠されたようなわずかなものが、粉全体を変えていく。天の国とはそういうものなのだと、イエス様は目の前にいる群衆に語ります。あなたがたの心に蒔かれたみ言葉は、今はからし種のように、パン種のように、小さな、わずかな、存在でしかないかもしれない。でも、そのみ言葉は、あなた自身を包み込むほどのものになる。そのみ言葉は、あなたの心の中で絶えずかき混ぜられ、いつしかあなたの心全体はみ言葉で満たされる。その希望を今は信じられないかもしれないけれども、み言葉の種は、確かに蒔かれたのです。
 さらに続けてイエス様は家の中に入り、弟子たちだけに語ります。そこで、隠された宝と良い真珠のたとえを語ります。そこにはこんな言葉がありました。手に入れるために「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」。何かすばらしいものを見つけたら、今持っているすべてを手放してでも、それを手に入れるのだと言われています。天の国はそういうものだと、弟子に言われるのです。弟子になるとはどういうことでしょうか。一言でいうと、他のすべてを捨てることだといえるかもしれません。しかしそれはなかなかできないことです。でもこのたとえでは、宝や真珠を見つけた人は、「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」のです。その素晴らしいものに出会った瞬間、価値観がまったく変わり、今まで固執きたものがどうでもよいものとなるのです。これが本当の、「捨てる」ということなのです。
 群衆には、天の国の出来事とは今は小さくても、必ず大きくなるという希望を語りました。そして弟子たちには、あなたたちに与えられた喜びは、ほかのものとは比べものにはならないほど価値のあることだと告げられました。イエス様はわたしたちの心の中を、すべてご存じです。イエス様は聞く人にあわせて、今、必要なみ言葉を語られるのです。今あなたの心には、どのみ言葉が響いているでしょうか。

7月23日 聖霊降臨後第7主日(マタイ13:24〜30、36〜43―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。
(マタイによる福音書13章30節)

 敵である悪魔が蒔いた毒麦のことは、刈り入れの時まで放置しておきなさいと、イエス様は語られます。刈り入れとは終わりの日のことです。福音書が書かれた時代、キリスト者と呼ばれる人たちは、大変な状況の中にいました。もともとは同じユダヤ教だったのに、会堂から追い出され、迫害を受けていく。キリスト教など認められていない、異端とされていた時代です。その中で信仰を大切に守り、伝えようとして、福音書が生まれていきます。
 隠れた場所でひっそりと過ごし、周りに目を光らせながら生きていく。いつ襲われるかもしれない。密告者が現れるかもしれない。村の人たちどころか、親、兄弟ですら信じられない。そうした状態の中でいるわけです。彼らの共同体は、いつしか排他的になっていったことでしょう。疑心暗鬼が渦巻く中で、あいつは毒麦だ、抜いてしまえといったことが、当たり前のようにおこなわれていきます。でもそれは本当に、イエス様の求めていることなのでしょうか。
 あくまで想像です。マタイ福音書が生まれていく中で、たくさんのイエス様の資料が集まってきたと思います。その中で、この毒麦のたとえに出会った。彼のまわりには、毒麦を探し、どうやったらうまく抜けるのかと、自分たちで何とかしようとする自分たちの姿が目に入ったのかもしれません。そしてイエス様のこの言葉に出会い、思いを新たにしたことでしょう。
 神さまは、憐れみ深く、忍耐強いお方なのです。毒麦だからといって、すぐに引っこ抜いて燃やしてしまえという方ではない。それなのに、わたしたちはすぐに、あいつは仲間ではない、彼とは話が出来ないと言って、毒麦を何とかしようとするのです。しかし考えてみて下さい。そもそもわたしたちは本当に良い麦なのでしょうか。毒麦ではないといえるのでしょうか。良い麦として人を裁き、毒麦の罪を問い詰めることができる人など、この世にはいないのです。
 わたしたちは完全な麦ではない。でも、麦の部分が少ししかなかったとしても、神さまは忍耐してくださる。どうしても自分の力で良い麦になれなかったとしても、イエス様は罪人のために祈ってくださる。
 教会にも、わたしたちの心の中にも、毒麦は入り込みます。でもそれは、わたしたち自身の姿でもあります。だからわたしたちは、すべてを委ねるのです。きれいなところも、汚い部分も含めて、心を清くしてくださいと。
 すべての人を天の国に招きたい、そのイエス様の思いを、わたしたちは感じ取り、歩んでいく必要があるのではないでしょうか。

7月16日 聖霊降臨後第6主日(マタイ13:1〜9、18〜23―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。
(マタイによる福音書13章22節)

 たとえには、二つの面があります。一つは難しいことを、わかりやすいように説明することです。今日の種蒔く人のたとえですと、絵本などにもしやすく、聞いた人も自分の心は四つの土地のうちどれだろうかと考えるでしょう。わたしたちは聖書を通して、種はみ言葉であり、種を蒔く人は神さまだと理解していますのでそう簡単に考えます。しかし当時の群衆はそこまで理解できていたのでしょうか。
 さて、聖書日課の中で読まれなかった10節から17節の「たとえを用いて話す理由」も一緒に読んでいくと、ある事実に気づかされます。それは10節以降の部分では、そこには18節からの「種を蒔く人のたとえの説明」も含みますが、イエス様は舟の上の人たちだけに語られたということです。岸辺にいた群衆には、18節以降のイエス様の言葉は届かなかったのです。
 イエス様は舟に乗って、このたとえを語り始めました。普通は群衆から少し離れた舟の上から語ることで、言葉をはっきりと伝えようとしたのだと想像します。しかしこのようにも考えることができるのです。イエス様は群衆との間に距離を置き、舟の上にいた人にだけ秘密を語られたのだと。
 岸辺にいた群衆が耳にしたイエス様の言葉は、種が蒔かれた土地によって、育つこともあればそうでないこともある、そこまででした。良い土地に落ちた実は、たくさん実を結ぶ。農業を営んでいる人たちにとっては、当然のことです。でもそれが一体何を意味するというのか、まったくわからない。これがたとえのもう一つの面、「謎」、「覆われたもの」というものです。
 このように考えると、わたしたちの関心は自分がどの土地なのかということではなく、別のことに移っていくのではないでしょうか。それは、わたしたちは果たしてどこでこのたとえを聞いているのかということです。イエス様と一緒に舟の上で聞いているのか。それとも群衆のように、岸辺で聞かされているのか。
 人々はイエス様を見て、その言葉を聞いていました。でも目を閉じ、耳を塞いでしまう。み言葉に背を向け、受け入れない。そして人々はイエス様の乗る舟に乗りこまずに、少し離れたところでただの傍観者になることを選択したのです。
 わたしたちはどうでしょうか。み言葉の種をせっかく受け取りながら、見もせず聞きもせず、無駄にしてしまう。そのようなことはないでしょうか。
 イエス様のおられる舟に乗るということ、それはイエス様に従い、イエス様に身を委ねるということを意味します。良い土地になることも同じです。
 わたしたちは今、イエス様と共に舟に乗っているでしょうか。この固く閉ざされた心を、神さまあなたが耕してくださいと、心を差し出しているでしょうか。
 神さまは今も、み言葉の種を蒔き続けておられます。

7月9日 聖霊降臨後第5主日(マタイ11:25〜30―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
(マタイによる福音書11章29節)

 今日の箇所の冒頭に、神さまをほめたたえるイエス様の姿がでてきます。それは神さまがそのお恵みを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになったからでした。まさに大逆転です。それまでの常識がひっくり返されています。完成された者にではなく、幼子や未熟な者に、神さまの恵みがあらわされる。それこそが、神さまのみ心なのだとイエス様は言われるのです。
 神さまの恵みは排他的なものではなく、すべての人に与えられます。ではその恵みとは、どのようなものでしょうか。イエス様はひとつの言葉を、わたしたちに与えられます。
 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
 この言葉を、少し原文に忠実に訳してみたいと思います。このようになります。
 来なさい!すべての者たちよ。わたしの元に。あなたたち労苦し、重荷を負う者は。「わたし」があなたたちを休ませよう。
 イエス様は呼びかけます。来なさい、と。聖書では「だれでも」となっており、来る、来ないはその人の自由というようにもとれます。しかしイエス様の呼びかけは、「すべての者たち」に向かっています。みんな来なさい。全員来なさい。それがイエス様の思いなのです。
 そして「わたし」であるイエス様が、すべての人を休ませてくれます。休むとは、ひと時の休息というレベルではありません。ある人はこんな風に訳していました。「新しい、新鮮な命が与えられる」ことだと。砂漠をさまよっている中、ようやくオアシスを見つけ、駆け寄って水を手にすくい、思いっきりのどを潤す。「ああ、生き返った」、心の底から、そのような思いが沸き上がる。それがここでいう休息です。
 そしてイエス様は、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と続けます。わたしたちはたくさんの重荷を背負って生きています。わたしたちが自分で担う軛は、肩に食い込み、首を絞めつけるようなものかもしれません。しかしイエス様は、わたしの軛を負いなさいと言われます。イメージしてください。この当時、家畜は二頭が横に並んでくびきにつながれていました。わたしたちがもし左側にいたとしたら、右側にいるのは誰でしょうか。それは、イエス様ではないでしょうか。イエス様がわたしたちの横にいて、わたしたちの歩みに合わせて歩んでくださるのです。
 イエス様は、悲しむ人がいたら一緒に涙を流し、苦しむ人の横で代わりに血を流し、神さまに対して負い切れない負債を負った人の代わりに十字架につけられます。わたしたちはイエス様の真横で、その姿に学んでいきたいと思います。

7月2日 聖霊降臨後第4主日(マタイ10:34〜42―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
(マタイによる福音書10章34節)

 このイエス様の言葉ですが、なかなかすっと心に入ってこないという人も多いのではないかと思います。わたしたちが教会に足を運び、礼拝するのはなぜなのか。それは心休まりたいから。希望を与えてほしいから。確かな約束をもって、導いてほしいから。わざわざ苦しい思いをするために、来ているのではないのです。
 しかしイエス様は言われます。「わたしは、平和をもたらすために来たのではない」と。「平和」という語は、世界において争いがない状態をイメージさせるかもしれません。だから平和といわれると、自分とはあまり関係のないものだと感じてしまう人もおられるでしょう。
 今日は少し、この言葉のイメージを自分に近づけて、イエス様のみ言葉の意味を深めてみたいと思います。「平和」と訳されている語は「平安」とも読むことができます。平和というとなんだか世界全体の問題のように思えますが、平安というと、わたしたちの心の内側のこととしてとらえることができるのではないでしょうか。
 波一つない海の上、ただ静かな風だけがそよぐ原っぱ、満点の星空の下で遠くに聞こえる虫の声に心を向ける。もしも今、わたしたちがその中にいたとしたら、心休まることでしょう。文字通り、「平安」な心を持つことができます。
 イエス様との出会いが、わたしたちの心に平安だけを与えてくれるものだとしたら、どれほど嬉しいことでしょう。しかし現実は、そうではありません。教会に通うことで、また祈ることで、わたしたちは時に傷つき、痛み、明日に向かって歩くのがつらくなることだってあります。
 イエス様との出会いによって、わたしたちの心は揺り動かされます。ときにはマイナスの方向に、向かって行ってしまう。でもわたしたちは知っています。イエス様は必ず、わたしたちのそばにいてくれることを。そして苦しみ以上の喜びが、そして涙にまさる笑顔が与えられることを。
 イエス様は、剣(つるぎ)を与えるために来たと言われました。わたしは思います。その剣の矛先はわたしたちに向けられているのではなく、イエス様ご自身に向けられているのではないかと。
 イエス様はわたしたちに剣を与え、その刃でご自身を貫くようにと、促されます。わたしたちは、本来であれば自分たちが刺されるはずだった剣をイエス様に向け、本来であれば自分たちがつけられるはずだった十字架に、イエス様をつけたのです。
 でもそうやって、死の中から復活したイエス様は、わたしたちに命を与えてくれました。不安の中で、恐れの中で、歩み続けるわたしたちが、生きるものとなるように。それこそがイエス様が遣わされた目的なのです。そのために、イエス様は剣を引き受けて下さったのです。

バナースペース

日本聖公会 桃山基督教会

〒612-8039
京都市伏見区御香宮門前町184

TEL 075-611-2790
FAX 075-611-2790