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ショートメッセージ2017年8月

8月27日 聖霊降臨後第12主日(マタイ16:13〜20―印刷用PDFはこちら

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わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
(マタイによる福音書16章19節)

 イエス様は弟子たちに対し、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞きます。そのときにペトロは「あなたはメシア」と言います。この言葉はペトロの信仰告白と言えます。ここでメシアと訳されている語は、ヘブライ語で油注がれた者、救い主という意味です。この語のギリシア語訳が「キリスト」です。ですからペトロはこう言っているのです。「イエス様、あなたはキリストです」と。
 わたしたちもイエス・キリストと言うとき、ペトロと同じように信仰告白をしています。実はそこにはこのような意味があるのです。「イエス様こそ、わたしたちの救い主であるキリストです」。
 さてイエス様は、ペトロの信仰告白に対し、「あなたはペトロ」と返します。ペトロとは「岩」という意味です。しかし聖書に出てくるペトロのイメージは、申し訳ないですが「岩」とはかけ離れているように思います。でも確かにイエス様は、ペトロのことを岩と呼び、その上に「わたしの教会」を建てると言われました。教会とはもともと、「呼び集められた」という意味です。従ってイエス様がいう「わたしの教会」とは、イエス様によって集められた人たちであるともいえます。
 当時の神殿や会堂は、神さまに呼び集められた人たちが集う場所だったでしょうか。少なくともイエス様はそうは思っていませんでした。人を排除し、差別し、何かと理由をつけては共に交わることをしない。天の国の門を閉ざす場所でした。
 岩の上に建つイエス様の教会、そこでは、集められた人々に救いの道を閉ざすことがあってはならないのです。ペトロはその鍵を預けられます。
 ペトロが強い人間で、自分の力だけでその地位に立っていると思っていたならば、ペトロは人々を罪の鎖に縛り付けたまま、天の国の門を閉ざしていたことでしょう。それは律法学者やファリサイ派の行動と、まさしく同じことです。しかしペトロは、自分の弱さを知っていました。涙も何度流したことでしょう。恐れに負け、不安の中、戸惑い、イエス様を見捨ててしまう自分をよく知っているのです。その弱い自分がイエス様に呼ばれ、イエス様をキリストと告白することで、天の国の鍵を預けられました。周りには神さまに集められた、神さまにすがるしかない人たちがいます。ペトロはどうして、天の国の門を閉ざすことができるでしょうか。
 イエス様は教会を、ペトロの、そしてわたしたちの信仰告白の上に建てられました。そして、その呼び集められた一人ひとりに、鍵が与えられているとしたら、わたしたちはどうするべきでしょうか。門の扉を閉めるのでしょうか。それともその扉の鍵を開け、すべての人たちと共に神さまの恵みに感謝するのでしょうか。

8月20日 聖霊降臨後第11主日(マタイ15:21〜28―印刷用PDFはこちら

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イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
(マタイによる福音書15章26〜27節)

 イエス様の前に、一人の女性があらわれました。彼女は悪霊によって苦しめられている娘をいやして欲しい、その一心でイエス様の元にやってきました。このような人は、きっと大勢いたと思います。でも今までのいやしの物語と決定的に違うところがあります。それは、彼女はユダヤ人ではなかった、つまり異邦人であったということです。
 この時代、ユダヤの人々は、イスラエルの民こそが神さまに選ばれた民であり、救いにあずかると思っていました。そして異邦人と呼ばれる人たちは、救われるはずがない、神さまの裁きの前に滅んでしまう者なのだと考えていたのです。
 イエス様は彼女の求めに対し、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と拒絶します。当時ユダヤ人は、動物の死体やゴミをあさる犬を、「汚れた動物」だとみなしていました。今のように、かわいいペットとは考えていませんでした。そしてユダヤ人は異邦人のことを、犬と呼んで差別していたのです。
 イエス様はこれらの言葉を、どういう気持ちで発せられていたのでしょうか。イエス様は女性の信仰が本物なのか、何度も試されたのでしょうか。結果的にカナンの女性はイエス様に何度も食い下がって、願いを受け入れられました。
 この聖書の箇所から、わたしたちは二つのことを学びたいと思います。一つはこの女性の姿勢です。彼女の娘は病気でした。そして彼女には、イエス様に頼るしか道が残されていませんでした。できればいやしてほしいなぁというレベルではないのです。何が何でもいやしてくれ。食卓の下でおこぼれを待つ犬でもいい。それでいいから、恵みをください。この彼女の信仰に学ぶところは、大いにあると思います。
 二つ目です。わたしたちはいつの間にか、この物語に出てくる弟子たちのようになってはいないでしょうか。弟子たちは、必死でイエス様にすがるカナンの女性を見て、こう言いました。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と。何と愛のない言葉でしょうか。しかし当時の多くのユダヤ人は、同じように異邦人は排除されて当然だと考えていたのです。ではわたしたちはどうでしょうか。教会に来て、礼拝を受け、聖餐をいただくときに、それは自分の特権だと思ってはいないでしょうか。知らず知らずのうちに、排他的になってはいないでしょうか。
 わたしたちは受けた恵みを、自分だけのものとして握りしめていてはいけないのです。世の中の様々な壁を乗り越えて、外に向かって、イエス様を伝えていく。それがわたしたちに求められている、信仰者としての姿なのです。

8月13日 聖霊降臨後第10主日(マタイ14:22〜33―印刷用PDFはこちら

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しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
(マタイによる福音書14章30節)

 弟子たちを乗せた舟が逆風のために、進まなくなりました。その彼らの元に、イエス様が湖の上を歩いて来られたのです。ありえないような光景の中、一番弟子であったペトロはイエス様に対して、こう言います。「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と。自分に不思議な力を与えてほしいと願うのではなく、イエス様の命令によって歩かせてほしいと言うのです。
 わたしたちも聖書を読み、礼拝に参加する中で、イエス様に従って歩んでいきたいと願います。しかしその道は、大変厳しいものです。差別された人たちや罪人と呼ばれた人たちと共に生き、手を差し伸べ、歩んで行かれたイエス様。そしてイエス様は自分の命を差し出すまでに、人々を愛し抜きました。わたしたちは本気で、イエス様と同じように生きることなどできるのだろうか、そのような思いになります。
 それはたとえて言うなら、湖の上を歩くようなものです。わたしたちは自分の考えで湖の上など歩けないと決めつけます。同じようにイエス様が歩んだようには歩めないとすぐにあきらめてしまうかもしれません。しかしペトロは違いました。「わたしは歩きたい、だからイエス様、そう命じてくれ」。このペトロの信仰、すごいと思うのです。周りの弟子たちは、きっと思っていたでしょう。「お前なんかには無理だ、やめとけ」。でもその中で、イエス様はペトロに「来なさい」と告げます。
 ペトロは、その一歩を踏み出します。それが大事なのです。わたしたちはイエス様の導きに、呼びかけに、招きに、その一歩を踏み出せているでしょうか。「いやいや、イエス様、ここは水の上です。立てるはずがありません」。自分の乏しい経験を元に、首を横に振る。それは実は、神さまのみ業を否定することとイコールなのです。
 物語には、まだ続きがあります。ペトロは驚くべきことに、水の上を歩いてイエス様に近づいていきました。でも急に怖くなります。現実を見てしまったのです。ただイエス様を信じて一歩を踏み出したのに、現実に気がついて、恐れをなしてしまう。わたしたちにもよくあります。イエス様を信じて歩き出しても、強い風は吹いたまま、足もとの水がコンクリートにはかわらない。でも信じて、何とか信じて、二歩、三歩と足を前に出すけれども、恐れてしまうのです。
 しかしイエス様は、恐れ、沈みかけていたペトロの元に行き、手を差し伸べられました。何度も信じては疑い、でも疑いながらまた信じていくペトロの姿。イエス様はそのペトロの信仰を、「良し」とされたのではないでしょうか。
 わたしたちの信仰も、それでよいのです。たとえ途中で怖くなったとしても、沈みそうになってイエス様に助けを求めたとしても、それでいいのです。
 恐れずに、イエス様に従い、まず一歩踏み出していきたいと思います。

8月6日 主イエス変容の日(ルカ9:28〜36―印刷用PDFはこちら

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その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
(ルカによる福音書9章36節)

 毎年8月6日、聖公会では「主イエス変容の日」をおぼえてお祈りします。変容とはイエス様の姿が山の上で変わり、イエス様が神の子であるということが啓示された出来事です。
 ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子たちは、イエス様と共に山に登り、その様子を間近に見ます。そして栄光に包まれるイエス様を見たときに、もうこの場から離れたくないと思ったことでしょう。わたしたちはどうでしょう。もし今、光り輝くイエス様が目の前に現れたとしたらどうするでしょうか。イエス様の弟子ペトロは、イエス様にこのような提案をします。
 「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」
 彼はどうしてこのようなことを言ったのでしょうか。わたしには少し分かるような気がします。この喜びのときを終わらせたくなかった。いつまでも栄光に包まれたイエス様のそばにいたかった。少しきつい言い方をすれば、「恵みを独り占めしたかった」とも考えられます。
 イエス様は彼ら三人の弟子たちだけを、山に連れていきます。他の九人の弟子たちは麓に残されたままです。自分たちは特別だという気持ちはなかったでしょうか。また群衆も、山についてくることは許されませんでした。ペトロたちに、自分たちは選ばれた者だという思いがあっても不思議ではありません。
 しかしイエス様は、山を下ります。それは彼の栄光を本当に必要としている人は、麓にいるからなのです。もしイエス様が山にとどまったままだったら、誰が自分の力だけでイエス様の元にたどり着くことができるのでしょうか。すべてを捨てて、イエス様がいる場所にまで到達しなければ救われないとしたら、誰一人、その恵みにあずかることなどできないのです。
 イエス様は誰のために来られたのか。それは自分の力で歩くことのできない人のためです。どこにイエス様がいるのか、まったくわからない人のためです。神さまに背を向け、もがき続けている人のためです。イエス様はその人たちに手を伸ばし、共に歩んでくださるのです。
 もしあなたがすでにイエス様に出会っているならば、祈りましょう。「どうかわたし以外のところにも、イエス様、行って下さい。隣に今、悲しんでいる人がいます。苦しみの中にある人がこんなにもいます。どうかその人と共にいて下さい」と。イエス様は必ず、すべての人に神さまの愛を届けてくださいます。

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