本文へスキップ

TEL. 075-611-2790

〒612-8039 京都市伏見区御香宮門前町184



ショートメッセージ2017年9月

9月24日 聖霊降臨後第16主日(マタイ20:1〜16―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
(マタイによる福音書20章14節)

 今日のたとえ話には、ぶどう園の主人とそこで働く労働者が出てきます。しかしイエス様が語られた内容は、ありえないものでした。イスラエルのぶどう園での労働は過酷です。その地域のぶどう園には、ツルを巻き付けさせるための棚がありません。乾燥しているため、地面の湿気を心配しなくてよいからです。したがってぶどうは地面や丘の斜面といったところに育つため、収穫のときに太陽をさえぎるものがありません。だから大変な重労働になるのです。
 つまり、夜明けからぶどう園で働いていた人たちは、約12時間、ものすごい苦労をして働き続けたのです。だから、自分と比べてわずかしか働かなかった人よりたくさんの賃金を求めたとしても、なんら不思議はありません。
 しかしここで、確認しておきたいことがあります。イエス様は「天の国は次のようにたとえられる」と言って、このたとえを始められたということです。一見不公平に見える物語ですが、これは天の国の物語です。神さまの基準をわたしたちに示しているのです。
 イエス様はファリサイ派といった、ユダヤ教の主流派の人たちと対立していきました。ファリサイ派は、この物語の夜明けから働き出した人たちだと言えます。彼らは神さまのことを第一に思い、律法を忠実に守ろうとしていきました。そしてあらゆる罪から、自分たちを遠ざけようとしていきます。彼らは人々の目から見たら、正しい人でした。わたしはずっとあなたのために働いていますと、胸を張って言っていました。そして神さまからご褒美がもらえるのを待つ、そういう人たちでした。
 一方、5時ごろにようやく声を掛けられた人には、その時間までかかった様々な理由があったと思います。しかし一つだけ、彼らに共通していたことがあります。それは、広場で待ち続けていたということです。常識的に考えて、もう雇ってくれる人が来る時間ではありません。でもこのままでは、生きていけないのです。救いの手を待つしかなかったのです。
 イエス様はそのような人たちと、関わって来られました。罪人や徴税人といった、だれにもかまってもらえずに、すべてをあきらめ、途方に暮れていた人たちと交わりを持たれました。それは神さまのみ心です。何時になろうとも、何度でも神さまは広場に出向きます。そして人々のところに来られ、声を掛けて連れて行き、必要なものを与えられます。「そうしたいのだ」、と神さまは言われているのです。
 神さまは、何度も広場に行って、まだぶどう園に来ていない人を探し続けます。人々がぶどう園に足を向けるのではありません。神さまが、「さあ、ぶどう園に行って、働きなさい」と言われ、人々はただ、その声に従うのです。そして神さまはわたしたちを含むすべての人に、十分な恵みを与えられます。

9月17日 聖霊降臨後第15主日(マタイ18:21〜35―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
(マタイによる福音書18章22節)

 弟子の一人、ペトロはイエス様に尋ねます。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」。そして続けて、「七回までですか」と聞きます。きっと七回という数は、ペトロにとって思い切り頑張った数だったでしょう。
 しかしイエス様は、それ以上の答えをペトロに返します。「七の七十倍までも赦しなさい」。イエス様は、限界のない赦しを求めておられます。そんな無茶な、と思うかもしれません。そしてイエス様は続けてあるたとえを語られました。
 一人の家来がある王様に、1万タラントンの借金をしていました。その返済を求められて、家来は王様に泣きつきます。しきりに願う家来を王様は憐れに思い、彼を赦し、借金を帳消しにしてあげます。しかしこの借金を帳消しにしてもらった家来ですが、外に出て、自分に対し100デナリオンの借金をしている仲間に出会います。そこで彼、ついさきほど借金を帳消しにしてもらった彼は、仲間の首を絞め、借金を返すように迫ります。そして仲間を牢に入れるのです。
 酷い話です。自分が赦されたのなら、他人だって赦しましょうと思うのが普通でしょう。でも当時の人にしたら、この話は「ありえない」物語でした。
 1万タラントン、100デナリオン、二つの金額がでてきます。この二つの額には、実は比較することができないほどの差があるのです。まずデナリオンですが、だいたい労働者の一日の日当に相当していたそうです。だいたい1万円として考えていきたいと思います。すると借金を帳消しにしてもらった男が、どうしても赦せなかった仲間の借金である100デナリオンは、だいたい100万円となります。決して安い額ではありません。100万円の借金を簡単に赦してあげる方が不自然でしょう。
 次にタラントンです。1タラントンは6000デナリオンに相当します。つまり1タラントンが6000日の日当分、16年5か月分の日当です。したがって1万タラントンは、16万年以上の日当に相当するのです。1デナリオンを1万円とすると1万タラントンは6000億円ということになります。日常生活からあまりにかけ離れた額です。100万円の借金をなかなか返してもらえないのを赦せない。これはよくわかります。でも6000億円を帳消しにしてもらった。ここがピンとこないのです。
 この物語は、わたしたちの物語でもあります。わたしたちは神さまに、罪を赦されました。1万タラントンの借金、この借金という語には「罪」という意味もあるそうです。その1万タラントン分の罪を、神さまは赦されたのです。わたしたちがその分、何かをしたわけではない。返す当てがあるわけでもないのです。
 でも神さまはわたしたちを憐れに思って、わたしたちを赦し、その借金を、罪を帳消しにしてくださいました。まったく一方的に、このことはなされたのです。では赦されたわたしたちは、どのように歩んでいくべきでしょうか。

9月10日 聖霊降臨後第14主日(マタイ18:15〜20―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
(マタイによる福音書18章20節)

 わたしたちとイエス様って、どんな関係なのでしょうか。人によって感じ方は様々だと思います。いつも陰で見守っている方、自分の前に立って導いてくださる方、一緒に泣いてくれる方。聖書を読んでいると、いろいろなイエス様の姿に出会うことができます。そして「イエス様は自分にも同じように接してくださるに違いない」という安心感を得るのではないでしょうか。
 今日の箇所で、イエス様はわたしたちとこのように関わると約束しておられます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と。今日はこの言葉について、少し考えていきたいと思います。
 ずいぶん前の話になりますが、わたしは祈りとは個人でするものだと思っていました。「隠れた場所で祈りなさい」というイエス様の言葉を大事にするがあまり、人前では形式的な祈りをし、本当に祈りたいことは夜中に布団の中でこっそりと祈る。そんなことをしていたように思います。
 でもある日、一人の人のために集まってお祈りしようという機会が与えられました。その場にはいないその人のために、一人ひとりが自分の言葉で祈りをつないでいく。涙を流しながら祈る人もいれば、神さまに心の葛藤を叫ぶ人もいる。わたしも「アーメン」と祈りながら、いろんな思いを感じていました。そしていつしか心の中に、お祈りをしている大切な人のことが浮かんできました。と同時に、イエス様も今ここにいる、その確信が与えられたのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」、そこにイエス様がいてくださるという約束が、自分の心にストンと落ちた瞬間でした。
 誰かと共にいること。そして一緒に祈ること。簡単そうで、本当は難しいことかもしれません。しかしそこには、大きな喜びがあります。豊かなお恵みがあるのです。そして何よりも、イエス様が一緒にいてくださいます。その約束に、心から感謝したいと思います。

9月3日 聖霊降臨後第13主日(マタイ16:21〜27―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
(マタイによる福音書16章24節)

 今週の聖書の中で、イエス様はご自分がエルサレムに行き、殺されること、そして三日目に復活することになっているということを告げられます。「打ち明け始められた」と書いてある通り、ことあるごとにイエス様は、弟子たちに対してそう言っていたのでしょう。イエス様は「このときから」受難について語り始められたと聖書は伝えます。では「このとき」とはどのようなときでしょうか。
 先週の場面を振り返ってみましょう。先週の場面でイエス様は弟子たちに対し、「あなたがたはわたしを何者だと思うのか」と問います。ペトロはイエス様にこう答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。イエス様こそわたしの救い主であると、信仰を告白したのです。イエス様はペトロのこの言葉を喜び、ペトロという岩の上に教会を建てること、そして天の国の門の鍵をあずけることをペトロに約束しました。
 そのすぐ後の出来事です。ペトロは鼻高々、意気揚々として弟子たちの先頭に立って歩いていたことでしょう。でもその中で、イエス様は弟子たちに対して何度も言うのです。自分は殺されることになっていると。
 ペトロはイエス様をいさめてしまいます。「そんなことがあってはなりません」と。ペトロの心には、大好きなイエス様を失いたくないという気持ちもあったでしょう。しかしもしもイエス様が殺されたとしたら、自分はどうなってしまうのか。せっかくイエス様にいただいたお恵みが、すべて意味のないものになってしまうかもしれないのです。
 ペトロの発言は、イエス様のことだけを思ってなされたものでしょうか。きっと自分のことを大切に思う気持ちもあったと思います。イエス様はそのペトロの思いを見透かされたのかもしれません。
 イエス様が命じられた「自分を捨てる」ということは、とても難しいことです。しかしこの言葉には「否定する」という意味もあります。自分の思いを優先するのではなく、神さまが何をされようとしているのか、神さまのみ心は何なのか。そのことを第一に考えていくことこそ、「自分を捨てる」ことにつながるのだと思います。
 イエス様はわたしたちと神さまとの架け橋になるために、十字架へと向かわれました。わたしたち一人ひとりを愛している、それが神さまのみ心でした。イエス様はその神さまの思いに従い、苦難の道を歩まれるのです。
 わたしたちもまた、神さまの思いに聞き、歩んでいきたいと思います。その歩みを、神さまは喜ばれるのです。

バナースペース

日本聖公会 桃山基督教会

〒612-8039
京都市伏見区御香宮門前町184

TEL 075-611-2790
FAX 075-611-2790