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ショートメッセージ2017年10月

10月29日 諸聖徒日(ルカ6:20〜26―印刷用PDFはこちら

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今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
(ルカによる福音書6章21節)

 イエス様は語られます。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と。この言葉と同じようなものがマタイ福音書にも出てきます。しかしその舞台は山の上であり、その箇所は「山上の説教」と呼ばれています。それに対し、このルカによる福音書は、平地で語るイエス様の姿を描きます。この「平地」ということに、焦点を当ててみたいと思います。
 イエス様の前には、おびただしい数の民衆がいました。貧しく、飢え、泣いており、人々に憎まれ、追い出され、汚名を着せられている人がそこにはいました。イエス様は彼らに語り掛けます。大声で叫ぶのではなく、そこにいる人たちと同じ目線にまで下りていき、手を差し伸べながら語り掛けるのです。一人ひとりをじっとみつめ、あなたがたは幸いだ、と宣言する、それがイエス様の姿なのです。
 「あなたがた」という呼びかけも、心に留めておきたいと思います。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」。あなたがたなのです。目の前にいる、あなたが幸いなのです。イエス様はそのように宣言されているのです。
 イエス様のもとに来たおびただしい民衆は、イエス様の教えを聞くために、病気をいやしてもらうためにやってきました。彼らの状況はそれぞれ違っていたでしょう。しかし誰もが、傷つき、苦しみ、痛み、何かにすがろうとイエス様の元にやって来たと思います。それは間違いないことだと思います。そしてわたしたちも、同じ状況の中でイエス様の声を求めているのではないでしょうか。
 わたしたちは突然、悲しみの中に落とされてしまうことがあります。涙を流しながら神さまに助けを求め、叫んだこともあるでしょう。さまに助けを求め、叫んだ日のことを思い起こす方もおられると思います。イエス様はそんなわたしたちに、「あなたがたは幸いだ」と語られます。「今、泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」。その言葉は、わたしたち一人ひとりにとって、大きな慰めです。素晴らしい祝福です。
 涙が笑顔に変えられる。これは大逆転です。神さまにすがるしかない、生きていけない。神さま、どこにいるんですかと叫ぶ人々に、イエス様は宣言されます。あなたがたは幸いなのだと。なぜなら、神の国はあなたがたのものなのだからと。
 その声を、どうぞ感じてください。イエス様は遠くから、上の方から語られているのではありません。スピーカーから声だけが届いているのではありません。自分の力では動くことすらできなくなった人の元に、涙に暮れて前が見えなくなった人のそばに、そして生きることすら嫌になってしまった人と共に、イエス様はおられ、そして今も何度も何度も語り掛けて来られるのです。

10月22日 聖霊降臨後第20主日(マタイ22:15〜22―印刷用PDFはこちら

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彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
(マタイによる福音書22章21節)

 聖書にはイエス様に敵対する存在として、ファリサイ派という人たちがよく出てきます。しかし彼らは真剣に神さまを求めていました。律法を忠実に守り、周りの人に教えていきます。しかし律法を守ることができない人とは決して交わらず、罪人だといって自分たちから遠ざけました。それに対しイエス様は、罪人と言われていた人たちと交わり、一緒に食事をします。そしてファリサイ派が厳格に守っていたものよりも大切なものがあると説くのです。
 わたしたちにも経験があると思いますが、自分がずっと大切にしてきたことを崩されたときに、すべてを否定されたような気分になります。そして、相手を受け入れることなど、できなくなるのです。ファリサイ派はイエス様に対して、そのような思いを持っていたことでしょう。そしてなりふり構わず、イエス様を陥れようとします。ファリサイ派と考え方がまったく違い、ローマの支配を受け入れていたヘロデ派の助けを借りてまで、イエス様を自分たちの前から消し去ろうとします。
 ユダヤ人にとって、ローマに税金を納めることは生活が苦しくなる以上の屈辱を与えられることでした。銀貨には神格化されていた皇帝の肖像が刻まれており、銀貨を使用することは異教の神々を拝むことを意味していたのです。
 もしイエス様が、「律法に適っている」と答えると、それは他の神々を拝んでよいということと同じです。それは、群衆には絶対受け入れることのできないものです。群衆はイエス様から離れていくことでしょう。しかし「適っていない」というとヘロデ派は反逆罪でイエス様を捕らえることになります。
 イエス様は言われます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。この言葉を聞いて、イエス様はうまく罠をまぬがれたなどと感心していてはいけません。イエス様が言いたかったのはこういうことです。「皇帝のものは皇帝に返したらいい。そんなこと勝手にしたらいい。しかしいいか、神さまのものはあなたのものではない。神さまに返しなさい」。
 政治的な議論でも、世俗の仕組みについての話でもありません。神さまとわたしたちとの関係はどうなのだ、そのことに議論を集中させます。わたしたちは神さまのものなのだから、神さまのために生きなさいということです。神さまにすべてをお返しして、神さまにすべてを委ね、その思いを求めて生きていくのです。
 神さまはわたしたちを、神の似姿としてつくられました。わたしたちにはすでに、神さまの姿が刻まれています。そのことを信じ、自分の思いから自由になって、神さまのみ心にそって生きてほしい。それがイエス様からのメッセージなのではないでしょうか。

10月15日 聖霊降臨後第19主日(マタイ22:1〜14―印刷用PDFはこちら

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王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
(マタイによる福音書22章3節)

 ある王が王子のために婚宴を開きます。王は家来たちを使って、婚宴に招いておいた人々を呼ばせます。決して突然呼ばれたのではありません。あらかじめ、「あなたを招待する」と言っておいた人に声を掛けたのです。ところがその王の呼びかけは無視されます。「食事の用意が整いました」と言ってもまた無視され、ある人は畑に、ある人は商売に出かけてしまいます。さらに他の人たちは、王の家来を捕まえ、乱暴し、殺してしまうわけです。
 彼らは自分の用事を優先して、王様の誘いを断わりました。さらに跡継ぎであるはずの、王子の婚宴をないがしろにします。それは王子がやがて王を継承するのを認めていないことを意味します。その態度を王は怒り、彼らの町ごと滅ぼしてしまいます。
 これは天の国のたとえです。この物語は当時自分たちは選ばれた民だと自負していたイスラエルから、天の国が取り上げられたことを描いています。そして王は、婚宴の席にありとあらゆる人を招きます。通りにいた善人も悪人も、みな連れてきます。天の国は、選ばれた人だけが入る場所ではなくなりました。すべての人に、その扉が開かれたのです。
 ここでこの箇所が終われば、ハッピーエンドです。しかしたとえ話はここでは終わりません。王は婚宴に来た客を見るために、宴席に入ってきました。そこに礼服を着ていない人を見つけます。彼は礼服を着ていなかったばかりに、外の暗闇へと放り出されてしまいました。
 では彼が着なかった礼服とは、何を意味するのでしょうか。礼服は、とても便利なものです。それを着ると、誰が誰だかわからなくなります。そして、すべてを隠してくれます。泥だらけの格好も、傷だらけの身体も、今までどんな人間でどんなことをしていたのか、それらをすべて礼服は隠すのです。
 わたしたちにとっての礼服とは、何なのでしょう。それはわたしたちが神さまの前に立つときに、わたしたちの罪を覆ってくれるものです。わたしたちの礼服、それはイエス様です。わたしたちはイエス様を身にまとい、祝宴に向かうようにと促されているのです。
 神さまはわたしたちを愛し、わたしたちが再び神さまの前に立つことができるように、天の国の宴に集うことができるようにと、イエス様を遣わされました。そのイエス様を受け入れるとき、わたしたちの身体はイエス様に包まれるのです。
 わたしたちは神さまに招かれています。その神さまの愛に応えるために、イエス様を救い主として受け入れ、キリストという礼服を身にまといましょう。

10月8日 聖霊降臨後第18主日(マタイ21:33〜43―印刷用PDFはこちら

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農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
(マタイによる福音書21章38節)

 聖書には、さまざまなたとえ話が出てきます。そこにはぶどう園など、当時の生活の中で馴染みのある舞台が多く登場します。さらに旧約聖書を見ていくと、イスラエルはしばしばぶどう園にたとえられており、今日の内容はイエス様がイスラエルの民を批判し、彼らはぶどう園、つまり天の国から追い出されると警告されていると気づかされます。しかしそれだけで終わってよいのでしょうか。
 聖書は今を生きるわたしたちにも語り掛けてくる書物です。この世界がぶどう園であったなら、わたしたちは神さまからぶどう園の管理を任された農夫だといえると思います。しかしわたしたちは、このぶどう園のたとえの農夫同様、神さまから遣わされた僕を追い返しているのではないでしょうか。
 わたしたちは自分たちが持っているもの、お金や名誉、土地や財産、家族、自然、そして自分の命さえも、自分で得たものだと勘違いしてしまいます。確かに努力はしたでしょう。歯を食いしばったことも、涙を流したことだってあったと思います。しかし一からすべて、自分で得たのではないのです。
 ぶどう園のたとえの中で、主人は垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てました。農夫にぶどう園を貸す前に、準備を万全にしていました。わたしたちに対してもそうです。裸で生まれたわたしたちに、神さまはすべてのものを与えてくださいました。しかしわたしたちは全部、自分のものだと考え、僕が来ても、また神さまの息子が来たとしても、拒絶してしまう。否定してしまうのです。
 このぶどう園の農夫は、わたしたちの姿です。わたしたちは神さまに様々なものの管理を任されています。でもそれらのものを自分のものとして握りしめてしまい、神さまにお返しすることができないのです。そしてついにはイエス様までも否定し、追いやってしまう、それがわたしたち人間の姿です。
 でもそんなわたしたちを、神さまは見捨てませんでした。最後に遣わされた息子、イエス様は確かに十字架によって殺されてしまいます。しかしその捨てられたものが、「隅の親石」となります。隅の親石とは家の土台です。基礎です。復活されたイエス様は、わたしたちの歩みを支えてくれるものとなってくれるのです。
 わたしたちは本当に弱いものです。自分の力だけでは、神さまのみ心にそった生き方などできません。しかし、イエス様が支えてくれるから、土台としていつも導いてくれるから、わたしたちは生きることができるのではないでしょうか。
 そして、ぶどう園で収穫を得、たくさんの人たちと分かち合うのです。そこにはイエス様も共にいてくださいます。

10月1日 聖霊降臨後第17主日(マタイ21:28〜32―印刷用PDFはこちら

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この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
(マタイによる福音書21章31節)

 イエス様のたとえ話には、二人の兄弟が登場します。二人はお父さんから、ぶどう園へ行って働いてほしいと頼まれます。二人の反応は対照的でした。兄は父に対して、きっぱりと断ります。「いやです」と。でも弟は違いました。「承知しました」、理想的な答えです。
 この返事の通りに、弟がぶどう園に出かけ、兄が家でゴロゴロしていたとしたら、物語は簡単でした。兄が怒られ、弟が褒められる。誰にでもその様子は想像できるし、納得することでしょう。しかしイエス様のたとえ話では、そうはいきませんでした。
 「承知しました」と言ったはずの弟は結局ぶどう園に行かず、「いやです」と答えた兄は「考え直して」ぶどう園に出かけていきます。何とひねくれた兄弟だと思いますが、イエス様の言葉から、弟はユダヤ教の指導者たちであり、兄は徴税人や娼婦たちをさしているとこがわかります。
 ユダヤ教の指導者たちは、神さまの言葉に従い、敬虔に歩んでいると自負していました。ところが神さまの恵みを自分たちだけで享受し、周りの人たちを排除していきます。神さまから見たらその姿は、ぶどうの実を食べるだけ食べて、その収穫には参与しようとしない、結局ぶどう園に行かなかった弟の姿と同じなのです。
 一方徴税人や娼婦と呼ばれる人たちは、神さまから遠く離れたところにいると思われていました。神さまの恵みは、彼らになど与えられない、そう誰もが考えていたのです。本人たちもそう思っていたことでしょう。どうして神さまの恵みが感じられないのに、ぶどう園になど行かなければならないのか。
 しかし彼らの元に、イエス様が来られました。イエス様は彼ら徴税人や娼婦たちのように、人々から蔑まれ、相手にされなかった人たちと交わり、食事をし、手を差し伸べられたのです。彼らはイエス様に出会い、その心の向きを、神さまへと変えられました。そしてイエス様に従い、歩んでいくのです。それが「ぶどう園に行く」ということです。
 わたしたちも呼ばれています。何度わたしたちが「いやです」と言ったとしても、いつかきっと、神さまに心を向けてほしいと。与えられたぶどうの実を自分だけで食べて満足せずに、周りの人に分け与えてほしいと。そのために、ぶどう園に行って収穫を手伝ってほしいと。
 「考え直して」、わたしたちはぶどう園に行くことができるでしょうか。「神さま、わたしが何をすればよいのか、お示しください」と祈ることができるでしょうか。神さまはその思いを待っておられます。

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