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ショートメッセージ2017年11月

11月26日 降臨節前主日(マタイ25:31〜46―印刷用PDFはこちら

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そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
(マタイによる福音書25章40節)

 終わりの日には、すべての人が右と左に分けられると聖書は書きます。そして右の人はこう言われます。「わたしの父に祝福された人たち、お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と。うれしい言葉です。しかし左の人たちはこう言われます。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」。右か左か、その違いはまさに、天国と地獄です。
 右に分けられるのか、それとも左なのか。どうすれば右に行けるのか。とても大きな問題です。その右と左の分かれ目は、6つの行為をしたかどうかだそうです。
 それは「飢えているときに食べさせ」、「のどが渇いていたときに飲ませ」、「旅をしていたときに宿を貸し」、「裸のときに着せ」、「病気のときに見舞い」、「牢にいたときに訪ねた」ということです。ところが右側にいた人は「そんなことした覚えはないけど」と言い、左の人は「わたしはやったじゃないですか」と抗議するわけです。
 ここでポイントになるのは、誰に対してそれらの行為をしたかということです。「最も小さい者の一人」に対してしたのかどうか、それが問題なのです。
 「靴屋のマルチン」というトルストイが書いた物語があります。イエス様はマルチンに、「明日あなたのところに行く」という約束をします。マルチンはイエス様をもてなそうと準備をします。一日中待ちますが、マルチンの家に来たのはおじいさんや赤ちゃんを抱いたお母さん、リンゴを盗んで怒られている子どもと怒っているおばあさんでした。マルチンはその一人一人をもてなします。あたたかい食事を与え、お茶を飲み、上着を与え、必要なお金を渡し、罪を赦し、仲直りさせてあげます。
 それらのマルチンの元に来た人たちは、みなイエス様でした。でもマルチンは、この人たちに親切にしたら何かいいことがあるかも?とか、この人はひょっとしたらイエス様?なんて思っていませんでした。ただ心から親切にしただけです。わたしたちの周りにも「小さくされた人たち」がたくさんいます。わたしたちはその人たちに目を向けているでしょうか。わたしたちはその人たちの存在を、無視してはいないでしょうか。
 わたしたちは多くの物を与えられています。一方的に神さまから、受けきれないほどの恵みを与えられています。その恵みの、ほんの一部でもいい。形になるものでも、思いでも、祈りでも、ささげていきたいと思います。
 そのときにわたしたちは、その「最も小さい者」と呼ばれる人たちと共に、右の列に招かれるのではないでしょうか。

11月19日 聖霊降臨後第24主日(マタイ25:14〜15、19〜29―印刷用PDFはこちら

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主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
(マタイによる福音書25章21節)

 イエス様は、「天の国は次のようにたとえられる」と語られます。
 ある人が旅行に出かけることになりました。そのときに彼は自分のしもべたちに自分の財産を預けました。一人には5タラントン、一人には2タラントン、そしてもう一人には1タラントンを預けます。そしてその額は、それぞれの力に応じたものだったそうです。
 タラントンとは当時、その地域に流通していたお金の単位です。1タラントンは6000日分、つまり16年半の賃金に相当するので、かなりの額になります。1日の賃金を計算しやすいように1万円とすると、1タラントンは6000万円、2タラントンは1億2000万円、そして5タラントンはなんと3億円という大変な額です。
 もしもそれだけのお金を預けられたとしたら、どうでしょうか。自分のお金ならまだしも、主人の財産です。株や先物取引に投資して失敗したら、それこそ背任罪に問われることでしょう。
 しかし、5タラントン預かった人と2タラントン預かった人は、それぞれ預かったお金を倍に増やしました。主人はとても喜びます。しかし1タラントン預かった人は、それを地の中に隠してしまいます。「盗まれたら大変だ」と思ったのかもしれません。彼は預かった1タラントンをそのまま主人に返します。その行為に怒った主人は、そのしもべから預けておいたタラントンを取り上げてしまいます。
 さて、タラントンとはお金のことだけを意味しているのでしょうか。タラントンは英語の「タレント」の語源です。タレントとは、才能や技量という意味を持ちます。
 神さまはわたしたちに多くのタラントンを与えてくださいます。この「タラントン」とは、「賜物」のことです。わたしたちは神さまから、どのような賜物を与えられていますか。なにも特別な技量や才能だけを意味しているのではありません。他人に対して笑顔で接することができる、隣の人の涙に心から共感できる、傷ついている人のそばにいることができる。それらもすべて大切な賜物です。
 1つ1つ数えてみますと、1タラントンなどでは足りないほどの賜物を、わたしたちは神さまからいただいています。しかしわたしたちは、その賜物を地の中に隠してしまってはいないでしょうか。与えられた賜物を、神さまのご用のために用いているでしょうか。
 まず、自分に与えられた賜物を覚え、感謝しましょう。そして人のためにその賜物を惜しむことなく使うのです。そのときに神さまは、「忠実な良いしもべだ。よくやった」と喜んでくださり、さらに多くの賜物を与えてくださるのです。

11月12日 聖霊降臨後第23主日(マタイ25:1〜13―印刷用PDFはこちら

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だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
(マタイによる福音書25章13節)

 今週の福音書は、10人のおとめのたとえです。王子の婚宴を待つ10人のおとめがいました。そのうち5人は賢いおとめで、残りの5人は愚かなおとめだったそうです。賢いおとめはいつ婚宴が始まってもいいように、予備の油を準備していました。ところが愚かなおとめは、予備の油を持っていなかったため、婚宴に間に合わず、その祝いの席から締め出されてしまったという物語です。
 イエス様は、天の国とはこのようなものだと言います。そして「目を覚ましていなさい」と語られます。わたしたちはこのたとえから、どのようなメッセージを受け取ればよいのでしょうか。
 この物語を読んで、自分はどちらのグループに属していると思いますか。自分は賢いおとめの一人だと思っているなら、それでいいでしょう。しかしいつも準備をして待つことのできない自分に気づく人は、多いのではないでしょうか。
 いつも目を覚ましているということは、心をいつも神さまに向け、いつどのようなときにも神さまの声に耳を傾けることだと思います。しかしわたしたちは、本当に弱いところを多く持つ一人一人です。完全な人など、この世にはいないのではないでしょうか。だとしたら、愚かなおとめであるわたしたちは、天の国から締め出されるしかないのでしょうか。
 イエス様はこのたとえを、十字架に向かわれる歩みの中で語られました。すでにイエス様は、十字架につけられなければならないことをご存じでした。イエス様はわたしたちを生かすために来られたのです。締め出すのではなく、天の国に招くために十字架につけられるのです。
 イエス様はわたしたちに、準備をするように言われます。油を用意するように言われるのです。イエス様は暗闇からわたしたちを導き出す光として、この世に来られました。わたしたちがイエス様を受け入れるということは、わたしたちが手にするともしびが、いつまでも燃え続けるということです。用意している油が、いつまでも尽きないということです。
 わたしたちの備えとは、そういうことではないでしょうか。24時間、いつどのようなときも神さまに心を向け続けることは、難しいかもしれない。しかしイエス様を信じ、救い主として受け入れる。そのことで、わたしたちは天の国の祝宴に招かれるのではないでしょうか。

11月5日 聖霊降臨後第22主日(マタイ23:1〜12―印刷用PDFはこちら

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あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
(マタイによる福音書23章11〜12節)

 この日曜日、桃山基督教会ではバザーが開かれました。目的は「九州地方災害被災者支援」で、収益はすべて、その働きのために用いられます。その週にこの福音書の言葉を聞くのは、決して偶然ではないと思います。
 イエス様は、当時ユダヤ教の中心にいた律法学者たちやファリサイ派の人々のことをこう言いました。「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」と。
 この言葉に、ドキッとする方も多いのではないかと思います。現在多くの災害が、日本や世界の人々を襲います。また、戦争やテロによって、突然愛する人を失い、途方に暮れている人たちがいます。そのときに、自分は一体何をしていたのだろうか。遠く離れた地で、「かわいそうに、辛いだろうに」という思いを持つものの、何も実行することができない自分の姿に気づかされるのです。
 しかしイエス様は、律法学者やファリサイ派の人々の「実行しない」姿だけを批判されているのではありません。彼らは、「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうとも」せず、「宴会では上座、会堂では上席に座るのを好み」、「広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれることを好む」のだと言われます。簡単に言うと、他人のことはどうでもよく、人前で「いい恰好」ばかりする彼らの姿を批判されているのです。
 そしてさらに、イエス様は言われます。「仕える者になりなさい、へりくだる者になりなさい」と。イエス様はその生涯で、罪人や徴税人、娼婦といった、社会から疎外され、人々にさげすまれていた人たちと一緒に食事をし、手を差し伸べられました。「いい格好」をするのではなく、共に痛み、共に悲しみ、共に涙を流しながら歩まれたのです。
 ではわたしたちは、どうすればよいのでしょうか。わたしたちに出来ることは何なのでしょうか。それは目に見える行動であり、また目に見えない行動でもあると思います。しかし何をするにしても、仕え、へりくだる思いがなかったならば、傲慢な思いだけが前に出てしまいます。今困難な立場にいる人のことを思い、祈りましょう。そしていつもその人たちのことを心に留め、共に歩むことが必要なのです。
 わたしたち一人ひとりには、神さまから与えられた賜物があります。それぞれできることは違います。直接現場に行くことができる人もいれば、お金や物品を送ることができる人もいます。しかし一つだけ、みんなでできることがあります。それは心を一つにし、祈ることです。目には見えない小さな祈りかもしれません。でもその心からの祈りを、神さまは祝福してくださるのです。

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