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ショートメッセージ2017年12月

12月31日 降誕後第1主日(ヨハネ1:1〜18―印刷用PDFはこちら

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その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
(ヨハネによる福音書1章9節)

 今日の聖書には、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」という言葉がありました。イエス様がこの地に来られた出来事は、すべての人にとって光となるはずでした。しかし人々は光を拒絶し、暗闇から出ようとはしませんでした。
 そもそも人は、光を求めているのでしょうか。本当の光で照らされたいと願っているのでしょうか。もしかすると多くの人は、光など必要ないと思っているのかもしれません。その理由の一つは、怖いからなのかもしれません。光に照らされると、すべてが明るみに出されます。つまり隠していた醜い部分もすべて、さらけ出されるのです。わたしたちは何とかごまかそうとして着飾り、化粧をし、偽物の光で辺りを明るくします。しかしまことの光に向かって、顔を上げることができないのです。
 なぜ神さまはイエス様をわたしたちの元に遣わしたのでしょうか。どうして光を怖がり、自分勝手に歩く人間のために、そんなことをしなければならなかったのでしょうか。それはわたしたちが、神さまの大切な子どもだからです。神さまはわたしたちを決して見捨てず、正しい方へと導こうとされているのです。
 わたしたちは自分のことを、成熟した大人だと思っているかもしれません。しかしそうではないのです。神さまの言うことを聞かず、その言葉も理解できず、神さまに見つかるまいと暗闇に隠れ、光から顔を背ける子どもなのです。
 わたしたちがそのような状態のままでいることは、神さまのみ旨ではありませんでした。神さまに背を向けるのではなく、わたしたちが光に顔を向けるようになってほしい。その思いで神さまは、イエス様をわたしたちの元に遣わされたのです。
 暗がりで光を恐れ、怖がっている人のところに、自分のところになんか光は届かないと思っている人のところに、偽物の光に包まれ、本物の光に気づかない人のために、そこにイエス様は来られました。それがイエス様のご降誕なのです。
 本当の光に包まれ、神さまの前にすべてがさらけ出されることは、とても恐ろしいことです。でも、考えてみてください。わたしたちは神さまの大切な子どもなのです。欠点があってもいいのです。醜い部分があったっていい。人に言えないようなこともすべて、神さまはご存じです。いまさら隠したところで何になるでしょうか。
 わたしたちはそのままでいいのです。そのままで受け入れられるのです。たとえぼろぼろだとしても、汚れた状態でも、そのままのわたしたちを神さまは受け入れてくださいます。
 イエス様のご降誕を心から喜びましょう。そしてイエス様を、あなたの心に受け入れてください。それが神さまの思いなのです。

12月24日 降臨節第4主日(ルカ1:26〜38―印刷用PDFはこちら

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マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
(ルカによる福音書1章38節)

 今日の物語は、最初のクリスマスより1年近く前の出来事です。今から2000年前、ガリラヤのナザレという町にいたマリアには、ヨセフといういいなずけがいました。いいなずけとは、婚約はしていますが結婚式はしていない状態です。婚約後、女性は自分の父の家で一年間過ごし、そして花婿が迎えに来て正式に婚姻関係を結ぶというのが、当時の慣例だったそうです。
 彼女はまだヨセフと結婚していない状況で、天使ガブリエルを迎えました。彼女にとって、イエス様の誕生予告は簡単に受け入れられるものではありませんでした。それは彼女にヨセフという婚約者がいても、一緒には住んでいないからです。その状況で赤ちゃんを身ごもってしまったならば、大変なことになるのは火を見るよりも明らかでした。
 当時いいなずけがいる女性が妊娠してしまったら、婚約が解消されるだけではなく、石打ちの刑に処せられ、殺されることもありました。たとえ生きていくことが許されたとしても、生まれてくる子は一生後ろ指を指されるでしょう。不貞の女の子どもだと差別され、ずっと日影を歩いていかなければならない。そんな想像が彼女の頭の中を渦巻いたと思います。
 つまり彼女にとって神さまのみ心を受け入れることは、いばらの道を選ぶことなのです。天使は「おめでとう」と簡単に言いますが、人間の目から見ると、「おめでとう」で済まされる出来事ではないのです。
 このように最初のクリスマスは、戸惑い、不安、恐れから始まりました。本当のクリスマスは、そういうものなのです。わたしたちはイエス様の誕生を、一方的なプレゼントだと喜んでいるかもしれませんが、本当にイエス様を受け入れようとしたら、多くの犠牲を払い、困難な道に突き落とされることだってあるのです。
 その中で、マリアは天使ガブリエルに答えました。「お言葉どおり、この身になりますように」。彼女には、明るい光が見えたのでしょうか。そうではないと思います。彼女の目には、暗闇しか映っていなかったことでしょう。しかし、暗闇の中で神さまを信じたのです。恐れの中で神さまのみ心に従い、その身を委ねる決心をしたのです。
 わたしたちにも神さまは手を差し伸べてくださいます。イエス様を救い主として与えてくださいます。しかし受け入れることができずに、恐れの中で戸惑うこともあるでしょう。それでも、神さまのみ心を受け入れていきたい。そしてわたしたちの目には見えない神さまのご計画に、身を委ねることができたらと思います。
 あなたにとって素晴らしいクリスマスとなりますように、お祈りしております。

12月17日 降臨節第3主日(ヨハネ1:6〜8、19〜28―印刷用PDFはこちら

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彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
(ヨハネによる福音書1章7節)

 今週の福音書には、洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネは、しばしば「道備え」と呼ばれます。彼自身は光ではなく、光について証しをするために来たと書かれています。ここでの光とは、イエス様のことです。彼はイエス様をすべての人が信じ、受け入れるために行動していたのです。
 昔、山の中にある草木が生い茂った土地で、境界線の杭の位置を確かめたことがあります。三人で一緒に行動したのですが、わたしは始終、二番目に歩いていました。なぜかというと、先頭だとどこに行ったらいいかわからなくなるかもしれないし、突然クモの巣に引っかかってしまうと、とても嫌な気分になるからです。かといって、一番後ろも嫌です。ちょっと油断したすきに、前の人を見失ったら大変です。一人だけ迷子になったらと、考えただけでもゾッとします。
 だから、真ん中を歩きました。前の人が鎌で切り開くその後を、同じように歩いていきます。前の人がかがんだら同じようにかがみ、前の人がジャンプしたら同じようにジャンプする。そして先頭の人に続いて、境界線の杭を見つけます。
 そのときわたしは、汗をかきながらたくさん歩きました。少しだけしんどい思いもしました。でも、先頭を歩いていた人に比べたらどうでしょう。先頭を歩いている人は、終始手を動かし、目を配り、道を切り開いてくれたのです。その人に頼らなければ、杭にはたどり着けなかったかもしれません。道に迷ったかもしれません。先頭で道を切り開く人がいたから、たどり着けたのです。
 洗礼者ヨハネの物語は、わたしたちに二つのことを示しています。ヨハネは「すべての人が彼によって信じるように」なるために来ました。彼はわたしたちの先頭で、すべての人を導きます。すべての人には、今、この言葉を聞くわたしたちも入っています。ヨハネが示す道は、とても険しく、歩きづらいかもしれません。でもその道に向かう、その方向に向き直ることが、神さまの方を向くことになるのです。何度違う道を行っても、この場所の方が心地いいとじっとうずくまったとしても、「悔い改めよ、向きなおれ」といつも招いてくれる。それが神さまのみ心なのです。
 そしてもう一つ。神さまに向き直ろうとするわたしたちに求められていることがあります。それは、わたしたちの後ろにいる人たちのために、自らが道備えとなることです。わたしたち自ら、道備えをしなければならない。そう聞くと、ちょっと躊躇するかもしれません。でも、わたしたちは導かれるままに歩けばよいのです。喜びをもって歩むとき、わたしたちは神さまのために道を備える者とされるのです。
 クリスマス前のこの時期、わたしたちに求められていることは何か、考えてみましょう。

12月10日 降臨節第2主日(マルコ1:1〜8―印刷用PDFはこちら

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神の子イエス・キリストの福音の初め。
(マルコによる福音書1章1節)

 今週の福音書には、洗礼者ヨハネが登場します。イスラエルの人々は救い主があらわれる前に、旧約の預言者エリヤがやってくると信じていました。洗礼者ヨハネは預言者エリヤを彷彿とさせる恰好をしており、そして救い主が来る前に道を備えるために、また人々に救い主が来る前の準備をさせるために来ました。ですからイエス様のご降誕を前に心を備えようとしているわたしたちにとっても、この箇所はとてもふさわしいといえます。
 洗礼者ヨハネは、罪の赦しのための悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたとあります。罪という言葉は、聖書によく出てきます。でもその意味は、わたしたちが思い浮かべるものとは違います。罪というと強盗や殺人、詐欺といった、刑法に引っかかるようなものを思い浮かべるでしょう。しかし聖書の「罪」の意味は、また違うところにあります。
 罪の語源は「的外れ」です。ダーツをする場面を想像してみてください。普通だったら的をめがけて構えますが、あさっての方向を向いて構えているような姿、それを罪と呼ぶのです。つまり、本当だったら神さまに心も体も向けなければならないのに、まったく違った方を向いてしまっている。それが聖書のいう罪です。
 わたしたちは信仰生活の中で、いつも神さまに心を向け、歩んでいるでしょうか。自分の力だけを信じて、自分の思いだけで歩んでしまい、とんでもない方向に向かってしまうことはないですか。目を自分の足元だけに向けてしまい、日常のちょっとした出来事に恐れ、つまずき、倒れてしまってはいませんか。また神さまではなく、周りの人のことばかり気にしてしまうこともあるでしょう。あいつのここがダメだ、こいつはこれだからと、人の批判をすることに一生懸命で、神さまに心が向いていないこともあると思います。そのどれもが、聖書がいうところの「罪」なのです。
 ではわたしたちはどうしたらよいのでしょうか。悔い改めよと洗礼者ヨハネは叫びます。悔い改めとは、「向き直る」ことです。ちょっと角度を変えるくらいのことではありません。グルンとそれこそ180度、向き直って生き方を変えるのです。神さまに向き直り、神さまを見据えて歩んでいく。その決意をしなさい。そう生きる者になりなさい。それが今日の聖書のメッセージです。
 しかし、そうしたくてもなかなかできない、それがわたしたち人間の姿です。だから神さまは、イエス様をわたしたちの間におくられるのです。わたしたちにはイエス様が必要です。イエス様がわたしたちに関わり、神さまとの間に立ってくださる。そして神さまの方に向き直させてくださる。それこそが福音、グッドニュースなのです。

12月3日 降臨節第1主日(マルコ13:33〜37―印刷用PDFはこちら

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だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
(マルコによる福音書13章35節)

 今日は降臨節第1主日、教会では一年の始まりです。そしてその始まりのときに、イエス様の「目を覚ましていなさい」という言葉を聞きます。今日の短い福音書の中に、三度もこの「目を覚ましていなさい」という言葉が繰り返されています。この一年、この言葉を心の中に響かせながら信仰生活を歩みたいと思います。
 ではこの「目を覚ましていなさい」とは、どういう意味なのでしょうか。数時間であれば「目を覚ましていなさい」と言われても何とかなりますが、数日、数週間であればとても厳しい命令です。しかしイエス様はご自分が再び来られるまで、「目を覚ましていなさい」と言われています。
 イエス様はここで、肉体的な意味で目を覚ますように言っているのではありません。実はこの「目を覚ます」という言葉には、「気を配る」という意味もあります。
 先日、幼稚園で卒園生のクリスマス会がおこなわれました。その日に合わせて園庭の飾りつけをしました。お昼頃に会が終了するのにあわせて、電飾に明かりを灯しました。しかし素晴らしい晴天の中、部屋から出てくる子どもたちはツリーを見上げるものの、電飾が点灯していることには気づきません。そのときにふと辺りが暗くなりました。太陽が雲の陰に隠れたのです。ある子がツリーを指さして言いました。「あれ、電気がついてるよ」、それを聞いて周りにいた人たちも、「本当だ」、「気づかなかったね」と口々に言い合います。わたしの目には、ずっと光は届いていました。でもそれは、わたしがそこに光があるのを知っていたからなのです。
 目も心も光の方向に向け、わずかな光を感じていた。だからわたしは、光を受け入れることができたのです。イエス様の「目を覚ましていなさい」という言葉も、同じように捉えたいと思います。
 わたしたちが生きるこの世界には、様々な誘惑があります。いろいろなことに心を奪われていきます。その結果神さまから目が離れてしまい、その存在を見失ってしまうのかもしれません。それはまるで、子どもたちが園庭で小さな明かりに気づくことができなかったようなものです。
 「目を覚ましていなさい」、それはしっかりと神さまに心を向け、心静かに、必ず来てくださると約束された方を待ち続けることです。わずかな光を感じることです。それがわたしたちに求められていることなのです。
 この降臨節、神さまに心を向け、神さまが与えてくださる大きな恵みである、イエス様の誕生を迎えることができるように、祈っていきましょう。そこにイエス様は必ず来てくださいます。

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