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ショートメッセージ2018年1月

1月28日 顕現後第4主日(マルコ1:21〜28―印刷用PDFはこちら

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人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
(マルコによる福音書1章22節)

 当時ユダヤ人は、安息日ごとに会堂に集まって礼拝をしていました。ある安息日のことです。イエス様が会堂に入り、教え始めました。それを聞いた人々は、非常に驚いたと聖書は伝えます。彼らはイエス様が、律法学者のようにではなく教えられたことに驚きを見せます。
 律法学者はいつも、過去の議論や聖書の言葉などを引き合いに出して、教えを伝えていました。そして会堂に集まる人々は、それを毎週のように聞いていたのです。安息日に会堂でおこなわれるのは、いつもと同じ祈りであり、いつもどおりの信仰告白であり、いつもと変わらない説教でした。
 わたしたちにとって毎週の礼拝も、同じようなものになっていないでしょうか。目新しさなど求めずに、淡々と決められた言葉を唱える。朝ごはんにいつも決まったものを食べるように、変化を求めない。それはそれで、一つの大事な礼拝のあり方だと思います。
 しかしその日常の中に、イエス様が来られました。会堂で教えるイエス様の姿に、人々は非常に驚きました。非常に驚くと書いてありますが、「ひっくり返るほど驚く」という意味を持つ言葉です。考えられないことが、目の前におこったのです。
 いつも和食の朝ごはんなのに、突然洋食が出てきた。確かに驚くかもしれませんが、ひっくり返るとまではいかないでしょう。ではイエス様のどのような姿に、人々はひっくり返ってしまったのでしょうか。
 キーワードは、「権威ある者として」です。この権威は、神さまから与えられたものです。イエス様は人々に、神さまの思いを直接示したのです。今日のこの場面、神さまの思いがわかる出来事がありました。
 会堂に一人の男が座っていました。彼は汚れた(けがれた)霊に取りつかれていました。「汚れ」という言葉には、特別な意味がありました。ユダヤ教では、いろいろなものを「清い」、「汚れている」と分けていました。人についても、こういう時には汚れているとか、こういうものに触ると汚れると考えていきます。
 だから汚れた霊に取りつかれた男には、だれも手を差し伸べようとはしませんでした。自分が「清い」と思い込んでいる人々は、そのような人には関わらないのです。
 しかしイエス様は違いました。汚れた霊はイエス様が何者なのかを知っていました。「かまわないでくれ」。その汚れた霊の叫びは、イエス様が汚れた霊に取りつかれた男に手を差し伸べようとされたことを示します。イエス様は、そのような人をも優しく包み込むために来られました。それが神さまの思いであり、愛なのです。
 そしてそれこそが、イエス様の権威ある新しい教えです。イエス様との出会いこそが、わたしたちに対する教えなのです。

1月21日 顕現後第3主日(マルコ1:14〜20―印刷用PDFはこちら

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イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
(マルコによる福音書1章17節)

 イエス様は、ガリラヤ湖のほとりで漁をしている人たちを見つけます。そして彼らに声をかけます。ペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネという二組のきょうだいの物語です。
 彼ら四人は漁師でした。漁師にとって、舟は必需品でした。彼らの耳に、イエス様のうわさは伝わっていたでしょうか。聖書によると、イエス様は奇跡を起こしたり説教をしたりなどという活動は、まだ何もしていません。つまり彼らは、「イエス様というすごい人がいる」、「彼こそは救い主だ」といった思いを持たずに、イエス様に出会っているのです。
 わたしたちは聖書を通して、イエス様は救い主だと思っているからこの出来事にそれほど違和感がないかもしれません。しかし、実際はどうだったのでしょう。漁師はそれぞれ日常の仕事をしていました。そこにイエス様は突然やって来たのです。見ず知らずの30過ぎの男性が突然「ついて来い」と呼びかけたのです。みなさんだったらどうするでしょうか。
 四人の漁師にとって、「わたしについて来なさい」という言葉は、自分の舟を捨てろということです。舟を手放すと、彼らは生きていくことができなかったでしょう。家族を養うことすらできないのです。でもその舟を捨てて、わたしについて来なさいというのが、イエス様の招きなのです。舟を捨てたらこんなにいいことがあるとか、こういう未来が待っているとか、イエス様は何も言いません。ただ一言、「人間をとる漁師にしよう」という言葉を除いては。
 人間をとる漁師とは、人々をイエス様の元に招く人のことです。イエス様が何をするのか、また、何をしたのか。同じ道を歩む中で体験し、感じ、そしてイエス様に倣うのです。イエス様がなさったように行い、イエス様が生きたように歩むのです。
 すぐに網を捨てて従う彼らの姿は、周りから見たら滑稽です。しかし彼らはついて行きました。ただその声に従いました。それがイエス様の召命なのです。
 わたしたちも、イエス様に声をかけられています。どのようにかけられるのか、それは一人一人違うでしょう。しかし確かに「わたしについて来なさい」とイエス様は招き続けておられます。その招きに応じることは、傍から見たら馬鹿げたことに思えるかもしれません。しかしイエス様が共にいてくださいます。そのことがどんな苦しみも、悲しみも、乗り越えさせてくれるのです。
 そしてわたしたちもイエス様の弟子として、孤独で苦しく、救いを求めている人に伝えたいと思います。「イエス様が呼んでいるよ」と。イエス様が必ず一緒にいてくれるから、大丈夫。イエス様は共にいてくださいます。

1月14日 顕現後第2主日(ヨハネ1:43〜51―印刷用PDFはこちら

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その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
(ヨハネによる福音書1章43節)

 イエス様の弟子になるとはどういうことでしょうか。今日の福音書には、フィリポとナタナエルがイエス様の弟子になる場面が描かれています。そこからイエス様の弟子になることについて、考えていきたいと思います。
 誰かの弟子になるとは、技術だけを盗むということではありません。多くの場合、先生である人と共に過ごし、生き方もあわせて学ぶのではないでしょうか。イエス様と弟子たちはいつも一緒にいました。弟子たちは、言葉によって何かを伝えられただけではなく、イエス様の背中を見て学んだのです。そして自分たちはどう生きるべきか、知ったのではないでしょうか。
 わたしの持っているストラップに、WWJDと彫られたものがあります。WWJDとは「What Would Jesus Do?」の頭文字です。つまり、イエス様ならどうする?という意味になります。もしここにイエス様がいたらどうするだろう、そう思いながら行動するのです。イエス様の弟子とは、イエス様に倣って生きる人のことです。イエス様がそうであったように、どうしようもない貧しさの中にある人、涙の中で途方にくれている人、人として認められずつまはじきされてしまった人のところに向かうのです。そう考えると、イエス様の弟子になることは、とても大変なことです。イエス様のように今必要としている人々のそばに行き、手を差し伸べることなどできるのだろうかと思うかもしれません。あなたがイエス様の代わりをしなさいと言われているのであれば、そうでしょう。
 フィリポはイエス様の弟子になりました。しかしフィリポが努力してイエス様を見つけ、弟子にしてもらったのではありません。イエス様がフィリポに出会い、「わたしに従いなさい」と言われたのです。
 フィリポはただ一方的にイエス様に見つけられ、招かれ、そして従いました。イエス様はフィリポに、何も特別なことを求めていません。ただ自分に従うこと、それだけでした。「わたしと一緒にいなさい」、それがイエス様の招きでした。
 イエス様の招きに従い、イエス様と共に歩む。それがイエス様の弟子の姿です。独り立ちし、イエス様に代わって人々に接することが目的ではないのです。つらく、苦しいときには、イエス様が支えてくださる。「大丈夫、わたしがそばにいる」といつも約束してくださる。そのようなイエス様と出会うこと、それがイエス様の弟子となることです。
 そしてフィリポがナタナエルを呼んだように、わたしたちもまた、苦しむ人、悲しむ人のところに行って、「大丈夫、イエス様がいてくださる」と宣言する、それだけでいいのです。それがイエス様の弟子としてなすべきことなのです。

1月7日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(マルコ1:7〜11―印刷用PDFはこちら

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すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
(マルコによる福音書1章11節)

 今日は「顕現後第一主日・主イエス洗礼の日」です。イエス様が洗礼を受けた出来事を覚える日です。わたしはよく、どうしてイエス様は洗礼を受けないといけなかったのだろうと思うことがありました。振り返ってみると、わたしは自分の生き方を変えようとして洗礼を受けたように思います。水に入り、全身を洗い流されることで、新しい自分になれる気がしたのです。
 でもそれが洗礼の意味だとしたら、イエス様は洗礼を受ける必要はなかったはずです。イエス様は正しい人でした。そのイエス様がなぜ洗礼を受けたのでしょうか。
 今日の場面を想像してみましょう。洗礼者ヨハネが、「悔い改めなさい。神の国は近づいた」と叫ぶ中、たくさんの人たちがその声を聞いて集まってきました。彼らは自分たちの生き方を何とかしたいと思っていました。でもどうしようもない、そんな現実が彼らの前にはあったのです。
 悔い改めるとは簡単に言うと、神さまの方に心も体も向き直りなさいということです。神さまとはまったく違う方向を向いている人が、グルンと向き直って神さまの方を向く、それが悔い改めです。
 誰もが自分で悔い改めることができれば、何の問題もなかったでしょう。しかし実際はそうではありません。自分だけの力で心も体も神さまに向け、ずっと正しく歩んでいくことなど不可能です。わたしたちもそうではないでしょうか。ちょっとしたことで悪い考えが生まれ、口を開くと人の悪口が出ていき、隣の人さえも心から大切にすることができない。神さまにすべてを向けて生きていないのです。
 洗礼者ヨハネの元には、たくさんの人が集まっていきました。その人たちは、自分の弱さを、そして罪深さを知っていた人たちでした。そして自分を何とかしたいという思いで、ヨハネの元にやって来ました。
 その列の中にイエス様は来られたのです。しかしイエス様は、遠くで、「さあ、悔い改めなさい」と言われているのではありません。自ら人々の間に来られ、一緒に並ばれるのです。
 うつむき、ボロボロになっている人の間に来られます。明日が見えず、この先どうなるのかわからない、不安、恐れ、戸惑い、その思いに心が押しつぶされそうになっている人の間に、イエス様は来られ、共に歩んでくださる。その中に、わたしたちの姿もあるのではあるのでしょうか。
 イエス様の洗礼、それはクリスマスの出来事と同じように、イエス様がわたしたちの間に、そして一緒にいてくださるというしるしです。
 主は共にいてくださいます。

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