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ショートメッセージ2018年2月

2月18日 大斎節第1主日(マルコ1:9〜13―印刷用PDFはこちら

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イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
(マルコによる福音書1章13節)

 先週の水曜日、教会の暦では大斎始日を迎えました。大斎節とはイエス様の十字架の出来事を思い起こしながら、心静かに、神さまに、そして自分自身に向き合っていく期節です。
 今日の聖書の前半には、イエス様の洗礼の場面が出てきました。イエス様は「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とあります。天を裂いたのは、他ならぬ神さまです。神さまがわたしたちとの間にある壁をこじ開けることで、神さまのみ心がイエス様を通しておこなわれることになるのです。
 つまり神さまは、わたしたちの間に介入してこられました。それは何故でしょうか。いつまでたっても神さまの言うことを聞こうともしないわたしたちを裁くためでしょうか。今、世界を見渡してみると、神さまが嘆き悲しみそうな出来事がたくさんあります。銃の乱射事件や肉親に対する殺人。核の恐怖や軍事力で相手を黙らせようとする権力者。そしてわたしたち自身も同じです。悪い思いばかりが先に出てしまい、人を傷つけてしまう。自分のことばかり考え、他の人を顧みない。神さまの前に、本当に正しい人などいないのです。それが聖書の伝える人間の姿であるし、わたしたちが日ごろ感じる現実です。
 しかし神さまはそのようなわたしたちを愛し、決して見捨てはしませんでした。わたしたちが神さまの前に生きる者となるために、救いの手を伸ばしたのです。それがイエス様を遣わした意味であり、イエス様の洗礼のときに天を裂いてまでおこなおうとされた、神さまのみ心なのです。
 わたしたちは無力です。神さまの前に正しくあり続けられない、そんな一人ひとりです。自分の思いとは裏腹に、弱く、罪深い者なのだろうか。自分と向き合い、神さまに向き合おうとしたときに、わたしたちはそのことに気づかされます。だからこそ、わたしたちはイエス様を頼り、すべてを委ね、祈るのではないでしょうか。
 今年の復活日(イースター)は4月1日です。それまでの間、心静かにイエス様の十字架の意味を思いながら、歩んでいければと思います。どうしてイエス様は十字架に掛けられなければならなかったのか。誰のために十字架につけられたのか。そしてイエス様を十字架に向かわせたのは、一体誰なのか。聖書のみ言葉に耳を傾けながら、過ごしていきましょう。
 神さまは罪にまみれたわたしたちを生かすために手を差し伸べられました。その愛に感謝しつつ、少しでも神さまのみ心のうちに生かされていきたいと思います。
 神さまはわたしたちに、愛のみ手を差し伸べて下さいます。

2月11日 大斎節前主日(マルコ9:2〜9―印刷用PDFはこちら

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ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
(マルコによる福音書9章5節)

 教会では今週の水曜日に大斎始日を迎え、大斎節に入ります。この大斎節をどのように過ごすか、それはわたしたちの信仰生活にとって、とても大きな意味を持ちます。
 この大斎節に、意識したいことがあります。それは、イエス様がどのように十字架への道を歩んでいかれたかを思い起こすということです。イエス様の十字架の苦難を思い、その歩みを心に留めていくのです。
 今日の福音書には、イエス様がペトロとヤコブとヨハネという三人の弟子だけを連れて、高い山に登った出来事が描かれています。その山の上でイエス様の姿が変わり、エリヤとモーセがあらわれてイエス様と語り合っていた場面を、三人の弟子たちは目の当たりにしました。三人の弟子たちは、自分たちもまた栄光に包まれていると思ったことでしょう。
 わたしたちは信仰生活の中で、イエス様の栄光の中に自分も包み込まれる、そのような体験を幾度となくしてきたかもしれません。聖書の描写のようなダイナミックなことはないにしても、光に包まれ、共におられるイエス様を感じたこともあったことでしょう。
 「わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです」とペトロは言いました。そして、ずっとこのままでいたいとペトロは考えます。なぜなら今日の箇所の直前に、イエス様はご自分が殺されることを予告していたからです。山を下ることは、十字架の道を進むことを意味しました。ペトロはそうであってはならないと願います。そこで仮小屋を建てようと提案したのです。
 しかしイエス様は、そのペトロの言葉には従いませんでした。イエス様は山を降ります。そして十字架の道を歩み続けます。栄光を捨て、山のふもとにいる人たちと共にいるために。自分の力で山に登ることなどできない一人ひとりの元に寄り添うために、イエス様は山を下りられます。
 わたしたちは幾度となく、神さまの栄光を見せられてきました。しかし聖書は、決してその栄光にとどまらず、イエス様と共に山を下りるようにと伝えます。それぞれ遣わされた場所に行き、イエス様に倣って歩んでいくのです。
 イエス様はどのように十字架に向かい、誰のために十字架につけられたのか。そしてその十字架の死は、わたしたちにとってどのような意味があるのか。そのことを考えたときに、わたしたちは何をすべきなのかが示されているように思います。
 栄光の中ではなく人々の間に下りて、伝えていきましょう。「大丈夫、イエス様はあなたのところにも来てくださいます」。

2月4日 顕現後第5主日(マルコ1:29〜39―印刷用PDFはこちら

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イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
(マルコによる福音書1章38節)

 イエス様のところには、大勢の人たちがいやしを求めてやってきていました。他の人に連れて来られた人もたくさんいました。イエス様はその人たちに関わり、手を差し伸べられました。町中の人が、イエス様がいた家の戸口にあふれていたそうです。
 ある日のこと、イエス様は朝早くまだ暗いうちに、人里離れたところに行き、祈られます。イエス様は祈りを通して、神さまのみ心を聞かれたのだと思います。そしてご自分がどこに向かえばよいのか、知ったのではないでしょうか。その場所とは、多くの人がイエス様を求めてやってきた場所ではなくて、近くの他の町や村でした。そしてそこで「宣教する」と言われるのです。
 ここでイエス様の宣教とは何なのか、少し考えてみたいと思います。今日の箇所の前半で、イエス様はペトロのしゅうとめをいやしました。人々から彼女が熱を出して寝ていることを聞いたイエス様は、彼女の元へと行きます。イエス様が自ら足を運び、手を差し伸べ、起こされたのです。
 日本聖公会ではこの日曜日を、ハンセン病問題啓発の日と定めております。わたしは数年前、熊本の菊池恵楓園という国立療養所に行くまで、ほとんどハンセン病に対する知識を持ちませんでした。しかしそこを訪ね、そこで入居者の方と話していく中で、どういうことがあったのか、どういうことをわたしたちはしてきたのか、少しずつ学んでいくことができました。
 その方はクリスチャンでしたが、彼から神さまとの出会いについての話を聞くことができました。彼は、自分が病気になったから、イエス様と出会うことができたのだと言われます。つまりイエス様は、人々に差別され、隔離され、人として扱われない。それどころか名前すら奪われた人のところに行かれました。
 「そこでも、わたしは宣教する」という言葉通りに、イエス様は、今何かを求めている人、何かにすがりたい人。まったく前を向くことができない人。そのような人たちのところに自ら行き、手を取り、起こされるのです。
 それが神さまのみ心です。すべての人が起こされるようにと、神さまは願っています。自分の元に来ることができる人たちだけではなく、歩くことすらできずにうずくまってしまっている人の元に、イエス様は遣わされたのです。
 わたしたちは、イエス様に出会っているでしょうか。イエス様との出会い、それはわたしたちにとって、どのようなことを意味するのでしょうか。わたしたちの元にも、イエス様は必ず来られます。そして手を差し出し、起き上がらせる。それがイエス様の宣教なのです。

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