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ショートメッセージ2018年3月

3月25日 復活前主日(マルコ15:1〜39―印刷用PDFはこちら

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百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
(マルコによる福音書15章39節)

イエス様は十字架につけられ、息を引き取ります。イエス様の周りには、たくさんの人がいました。その中に、あなたもいたと想像してみてください。
 もしあなたが弟子の一人、ペトロだったとしたら、どうでしょう。これまでずっとイエス様に従ってきた。しかし、イエス様が祈っている間、一緒に起きていてほしいと言われたのに、寝てしまった。イエス様が逮捕されるとき、自分はイエス様を見捨てて逃げてしまった。イエス様が心配でついて来たけれども、自分も捕まるのが怖くて、イエス様のことを三度も知らないと言ってしまった。一番近くにいながら、一番そばについていながら、どうすることもできずに声を出すことすらできないペトロの姿がそこにはあります。あなただったらどうしましたか。
 もしあなたが群衆だったとしたら、どうでしょう。ガリラヤでたくさんの奇跡を起こしたイエス様。そのうわさを聞きつけ、エルサレムまでやって来た。でも彼は、自分が思っていた救い主とは違いました。自分たちだけを救い出したり、革命を起こしたりという姿は、イエス様には微塵も見られませんでした。それどころか、弟子たちにさえ裏切られてボロボロになっているイエス様。そのイエス様を見ながら、叫ぶ群衆の姿がそこにはあります。「十字架につけろ」と。あなただったらどうしましたか。
 もしあなたが祭司長や律法学者だったとしたら、どうでしょう。エルサレムにいながら、イエス様のうわさは耳に入ってきていました。安息日にしてはいけないことをし、罪びとや徴税人と食事をし、神さまを冒涜している。そのようにイエス様は彼らの目に映っていました。彼らにとって、イエス様はねたみの対象でした。自分たちが絶対的に信じてきたものを覆されたと怒り狂い、群衆を扇動してイエス様を十字架へと向かわせるのです。あなただったらどうしましたか。
 もしあなたがピラトだったとしたら、兵士だったとしたら、イエス様と一緒に十字架につけられた強盗だったとしたら、百人隊長だったとしたら、そのときあなたはどうしたでしょう。
 わたしたちはイエス様と共に、歩めたでしょうか。十字架に向かうイエス様の後を、自分の十字架を背負って、処刑場であるゴルゴダまで、進んで行けたでしょうか。わたしたちは気づかされます。わたしたちは、決して完全な人間ではありません。神さまの前に正しく生きることができないのです。
 イエス様は、誰のために血を流したのでしょうか。誰がイエス様を裏切り、誰が見捨て、誰が排除し、誰が引き渡し、誰が十字架につけたのでしょうか。
 イエス様は血を流されました。その血によって、誰が救われるのでしょうか。
 答えを知りたい方は、ぜひ復活日の礼拝にいらしてください。

3月18日 大斎節第5主日(ヨハネ12:20〜33―印刷用PDFはこちら

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わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。
(ヨハネによる福音書12章32節)

イエス様はこのような言葉を語られました。
 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
 はっきり言っておくという言い方は、ヨハネによる福音書にたびたび出てきます。直訳では、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。この言葉は、これから語ることをしっかりと覚えておきなさいというイエス様の思いを、強くあらわします。ではこの言葉はどのような状況で、誰に対して語られたのでしょうか。
 今日の場面は、何人かのギリシア人がフィリポの元に来た出来事です。ギリシア人とは、いわゆる「異邦人」です。彼らはイエス様に会いたいとフィリポに頼みました。そしてフィリポはアンデレに相談し、フィリポとアンデレは連れだってイエス様のところに行ったのです。
 ヨハネによる福音書によると、フィリポとアンデレの二人はイエス様が最初に声を掛けた弟子たちです。最初にイエス様に従ったのはアンデレでした。そして彼は兄弟であるシモン・ペトロをイエス様に会わせます。またその翌日にイエス様に声を掛けられたのはフィリポでした。フィリポもまた、そのすぐ後でナタナエルに出会い、イエス様と引き合わせます。つまりアンデレもフィリポも、イエス様と他の人とを引き合わせた、まさに伝道者としての働きをしたわけです。
 今回も、フィリポはギリシア人から「イエス様に会いたい」という依頼を受けました。そしてアンデレと共にイエス様の元に行った二人は、「アーメン、アーメン」から始まる言葉をかけられました。イエス様が直接ギリシア人に会ったかどうかはわかりません。しかしたとえ直接会わなかったとしても、イエス様の言葉は二人の弟子を通して、伝えられたのではないでしょうか。
 そして今、この福音を聞くわたしたちも、フィリポやアンデレと同じように、イエス様の言葉を伝えていくことが求められているのではないでしょうか。
 イエス様はご自身を一粒の麦にたとえられました。イエス様は多くの実を結ぶために、神さまからこの世に遣わされました。彼一人が立派な実をつけるためではありません。多くの実を結ぶために、彼は地に落ちる必要がありました。それがイエス様の十字架なのです。
 そのイエス様の血によってわたしたちは生かされています。わたしたちが多くの実なのです。その喜びを、わたしたちも伝えていきたいと思います。
 4月1日は復活日です。たくさんの人と神さまを賛美することができますように。

3月11日 大斎節第4主日(ヨハネ6:4〜15―印刷用PDFはこちら

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「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
(ヨハネによる福音書6章9節)

 今日の福音書には、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5000人の人たちを満腹にした記事が書かれています。ヨハネによる福音書には、そこに一人の少年が登場します。この時代、子どもは取るに足らない者として、数にも数えられませんでした。この少年は、誰かの奴隷だったと思われます。
 彼は大麦パンと魚を持って、イエス様の元に来ました。わざわざ大麦パンと書かれています。わたしたちが普段口にするパンの原料は、だいたい小麦です。大麦はパン作りには適していません。大麦で作ると、パンはふっくらと膨らまず、カチンコチンになってしまいます。
 ユダヤでは、大麦パンを家畜や奴隷に与えていたそうです。普通の大人は、大麦パンなど食べませんでした。しかしこの奴隷の少年は、そのような大麦パンと魚を、イエス様に差し出そうとしたのです。そして聖書は、少年とは対照的な二人の弟子の姿も描きます。
 一人目の弟子フィリポは、イエス様に「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねられ、答えます。「こんな大人数、食べさせることなんてできやしない。少しずつ食べさせるとしても、200デナリオン(200万円くらい)分のパンがあっても足りやしない」。またアンデレは、大麦パンと魚を抱えてやってきた少年を見てこう言います。「こんな大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。
 この少年は、イエス様の前に出るのに「ふさわしくない」と思われていました。また普段家畜が食べるような大麦パンなどイエス様には「ふさわしくない」。そのわずかな量も、この群衆には「ふさわしくない」。
 「ふさわしくない」。そのような思いを、わたしたちも持つことはないでしょうか。自分に、そして他人に対して。自分はこんなことをするのに値しない。あの人はそんなことするべきではない。わたしたちが自分や他人にそう思うこと、それは、神さまの力を信じていないことにもつながるのです。
 イエス様は、そんな大金はないとあきらめる弟子よりも、またこんなわずかなもの持って来ても意味はないという弟子よりも、今持っている全てを惜しげもなく差し出す少年を、「良し」とされたのです。人間の目には「ふさわしくない」ものを、イエス様は祝福し、人々を満たすものにかえてくださったのです。
 神さまを信じましょう。神さまはわたしたちがささげる小さな行い、わずかなささげもの、貧しい祈りを待っておられます。それらを神さまは受け取り、祝福し、用いてくださる。驚くべき力をもって、わたしたちの賜物を用いてくださるのです。

3月4日 大斎節第3主日(ヨハネ2:13〜22―印刷用PDFはこちら

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イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
(ヨハネによる福音書2章22節)

 わたしたちはイエス様に対して、様々なイメージを抱いていると思います。優しい、慰めてくれる、寄り添い歩んでくれる、あたたかいなど。しかし今日の福音書のイエス様は、ちょっと怖い一面を見せています。縄で鞭をつくり、神殿から商人を追い出していくその姿は、わたしたちが思い描くイエス様とは少し違うかもしれません。なぜイエス様は、そのようなことをしなければならなかったのでしょうか。
 神殿には牛や羊や鳩を売っている人たち、そして両替をしている人たちがいました。彼らはその仕事によって利ザヤを受け取っていたかもしれませんが、神殿には必要な商売でした。遠くから神殿に来る人たちにとって、犠牲のための動物を現地で調達できることは、大変ありがたいことでした。もしその商売がなければ、犠牲のための動物を連れて、何日もかかる道のりを歩かなければなりませんでした。
 両替も大事です。当時人々が使っていた貨幣は、ユダヤを支配していたローマ帝国のものでした。その貨幣にはローマ皇帝の像が刻んであり、偶像崇拝を禁止しているユダヤ人が神殿におささげすることなど、もってのほかでした。だから神殿で使うことのできるユダヤの通貨に両替することは、人々にとってとても大切な事でした。
 それではなぜ、イエス様は商売人を追い出したのでしょうか。それは神殿のあり方が、神さまの思いとは違ったからです。人々は神殿で祈ります。神さまにごめんなさいやありがとうと言うために、犠牲をささげ、献金をします。しかし神さまが目を留めようとされたのは、神殿に行くことすらできない、ささげものをしたくてもできない、神さまに目をあげることもできないような人たちだったのです。
 イエス様はこの出来事を通して、伝えて下さいます。神さまは、神殿にしかいないのではありません。神さまは、人々の間にいるのです。イエス様はまことの神殿として、わたしたちの間に遣わされたのです。
 商売人たちは、正しいことをしていると思っていました。しかしその行為は、人々を神さまから遠ざけるものであり、神さまのみ心とは違うものでした。そのことをイエス様は怒ったのです。
 わたしたちはどうでしょうか。教会の中にしか神さまを認めず、周りの人たちとの間に壁をつくってしまってはいないでしょうか。神さまを私物化し、他人を受け入れないでいることは、神さまの願うことではないのです。
 わたしたちの行いが、神さまのみ心に適ったものとなりますよう、お祈りいたしましょう。

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