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ショートメッセージ2018年4月

4月29日 復活節第5主日(ヨハネ14:15〜21―印刷用PDFはこちら

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しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
(ヨハネによる福音書14章19節)

 神さまってどこにいるの。そう聞かれたら、みなさんだったらどう答えるでしょうか。この前、園児礼拝で子どもたちに聞いてみました。
 「お空!」と言う子、礼拝堂にある十字架像を指さす子、誰かが何かを言えば、同じように繰り返す子もいます。ある子が大きな声で言いました。「神社〜!」。「えっ、神社?」、思わず聞き返しました。「そうそう、神社」、「神社だ!」、他の子も続いて言います。みんな真剣です。先生たちはみなうつむいて、笑いをこらえています。「そうだね、神社にもいるかもしれないね」。少し顔を引きつらせながらも、にっこりと肯定してあげます。
 そのときに、一人の子が声をあげました。「僕たちのそば」。小さな声でした。でもはっきりと耳に届いてきました。「神さまは僕たち、わたしたちのそばにいてくれる」。だれかに教わって、そう覚えたのでしょうか。論理的に考えて、そのような結論になったのでしょうか。それともそう書いてあるものを読んだのでしょうか。わたしは、こう思います。その子は、感覚的に知っていたのだと。ふとした瞬間に、感じるものがあった。そこにはぬくもりがあったということではないでしょうか。
 今日の箇所で、イエス様は約束してくださいました。今日の箇所は、イエス様が十字架に掛けられる前日の出来事です。イエス様は自らが進む道をご存じであり、弟子たちにも伝えていました。弟子の一人が裏切ることも、一番弟子であるペトロが自分のことを「知らない」と三度言うことも、全部、弟子たちに話してきました。
 弟子たちの心は、ザワザワと騒いでいたと思います。「イエス様がいなくなってしまう」、そのことは、弟子たちに寂しさと恐れを抱かせました。しかし、イエス様はそんな彼らに、励ましの言葉を投げかけます。大きな約束を与えます。
 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」、つまり一人ぼっちにはしないという約束です。神さまは、わたしたちと関わろう、関わろうとしてくださいます。何とかしてわたしたちが生きる者となってほしい、神さまの前に立てる者となってほしい。神さまはそのためにイエス様を遣わされ、その血によってわたしたちの罪の身代わりとされました。そしてイエス様が再び来られるまで、一人ぼっちにしないという約束を守るために、霊を送られます。
 その姿は目には見えないかもしれない。けれども、あなたがたのそばにいる。そのことを、「僕たちのそば」と言った子は知っていました。そしてわたしたちのそばにも、神さまは手を差し伸べてくださっているのです。
 「神さまはわたしのそばにもいてくださる」、イエス様のこの約束を信じ、歩みましょう。

4月22日 復活節第4主日(ヨハネ10:11〜16―印刷用PDFはこちら

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わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
(ヨハネによる福音書10章14節)

 今週の福音書には「わたしは良い羊飼いである」から始まるイエス様の言葉がありました。羊と羊飼いといっても、日本ではなかなかピンとこないかもしれません。しかしその当時の人たちにとっては、とても身近なものでした。
 羊は弱い動物です。目が悪く、自分の力で草が生えている場所やオアシスにたどり着くことができません。また臆病で、ちょっとした物音でびっくりして逃げ回ってしまう。集団で行動しますが、狼や盗賊にいつも狙われています。そのような弱い羊たちには、羊飼いが必要です。
 羊飼いの仕事は、迷子になった羊がいたら探し出し、病気の羊がいたらお世話をし、お腹が空いた羊がいたら食べ物のところに導き、いつまでも元気であるようにと養い、震える羊に寄り添い憩わせます。そして「良い羊飼い」は、敵が来たら命がけで羊を守ります。
 イエス様は「わたしは良い羊飼い」という言葉で、わたしたちとそのような関り方をすると宣言されているのです。イエス様は神さまから離れてしまったわたしたちを尋ね求め、神さまの元に戻させ、傷ついたわたしたちをその手で包みこみ、わたしたちが弱ったときには強くしてくれます。そしてわたしたちが神さまの前に生きる者となるように、命を捨ててくださるのです。
 わたしたちは弱い羊です。自分の力では生きていくことのできない、しかしそんなちっぽけな羊を大切に思い、わたしたちを導いてくださる方の存在に感謝したいと思います。羊であるわたしたち、そのわたしたちをしっかりと守ってくださる良い羊飼いの姿をイメージしてください。そして自分の心が不安に陥った時には、寄り添ってくださるイエス様の存在を思い起こしてほしいと思います。
 良い羊飼いであるイエス様は分の羊を知っており、羊もイエス様のことを知っていると書いてあります。この「知っている」という言葉には、愛するというニュアンスも含まれます。イエス様はわたしたちを知っている、つまり愛しているから、わたしたち一人ひとりのことが大切なのです。だから羊飼いとして探し出し、導いて、養ってくださるのです。
 そしてわたしたちは、イエス様の声を聞いていきたいと思います。イエス様の導きを信じて、歩んでいきたいと思います。そのためにわたしたちは、聖書を読み、祈るのではないでしょうか。良い羊飼いであるイエス様は、いつもわたしたちに語り掛けてくださいます。その声に聞きましょう。わたしが、あなたの良い羊飼いだ。わたしがあなたを生かす。わたしがあなたと共にいる。
 その約束を、イエス様はわたしたちに語り続けておられます。

4月15日 復活節第3主日(ルカ24:36〜48―印刷用PDFはこちら

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こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
(ルカによる福音書24章36節)

 イエス様の復活という出来事は、わたしたちにとってなかなか理解しにくいことではないでしょうか。聖書には様々な復活物語が記されていますが、そのような衝撃的なイエス様との出会いがあるかというと、なかなかそうはいきません。
 ではわたしたちは、イエス様と出会っていないのでしょうか。イエス様はわたしたちのそばには来て下さっていないのでしょうか。
 ここである人が書いた詩を紹介したいと思います。「あしあと」という詩です。
 ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
 このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
 主はささやかれた。「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」
 わたしたちは知らず知らずのうちに、イエス様に出会っているのです。イエス様はわたしたちのそばにいて、苦しいとき、辛いとき、動けないときに支え、一緒に歩いてくださるのです。
 イエス様は目に見える形で来られるわけではありません。後から考えたら、あれはイエス様だったと思う。その繰り返しではないでしょうか。あの苦しいときを乗り切れたのは、イエス様の導きだったに違いない。偶然だと思っていた出来事は、よくよく考えてみると必然だった。辛く悲しい中、心を包み込んだ温もりは、イエス様がそばにいて支えてくれた、そのぬくもりだった。

 その一つ一つの出来事は、説明しようとしてもできるものではありません。復活のイエス様との出会いは、それぞれの人に、それぞれのときに、それぞれの形でおこなわれます。それがイエス様との出会いです。
 はっきりと目に見えないかもしれない。すぐには分からないかもしれない。でもわたしたちのそばに、必ずイエス様はいてくださいます。

4月8日 復活節第2主日(ヨハネ20:19〜31―印刷用PDFはこちら

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イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネによる福音書20章29節)

 先週、教会では復活日(イースター)のお祝いをしました。今日の福音書はイエス様が復活された日の夕方と、その八日後の日曜日のお話です。
 イエス様の復活のすぐ後ですから、さぞかし弟子たちは喜びであふれていただろうと思いきや、どうもそうでもないようです。彼らは家の戸に鍵をかけていました。「ユダヤ人たちを恐れて」とあるように、自分たちが危険な状況に陥るのが怖かったのでしょう。しかし彼らはこの日の朝、マグダラのマリアから復活のイエス様に出会ったということを告げられたはずです。その言葉が受け入れられなかったのでしょうか。
 わたしたちは先週の日曜日、復活日を祝いました。イエス様のご復活を心から喜び祝うことができたという方もおられるでしょう。しかし同時に、どこか引っかかっているという方もおられるかもしれません。イエス様のご復活が理解できない、自分にとって何の意味があるのかわからない、信じることができないという方もいたのではないでしょうか。マグダラのマリアの話を聞いても信じられず、戸に鍵をかけた弟子たちのように、自分の心を閉ざしてイエス様を受け入れることができない方も。
 今日の福音書は、その恐れや不安の真ん中に来て下さるイエス様の姿を描きます。復活の日の夕方に、そしてその八日後に、「あなたがたに平和があるように」と言われたイエス様を伝えます。この物語はわたしたちに二つのことを教えてくれているように思います。
 一つ目は、イエス様は必ず来てくださるということです。今どうしても心を開くことができなくても、自分のところになんか来てくれるはずがないと思っていたとしても、イエス様はその中に来てくださいます。
 そして二つ目は、イエス様は何度でも来てくださるということです。お墓でイエス様にであったという女性の話を、弟子たちは信じることができませんでした。しかしその弟子たちの元に、イエス様は現れました。さらにその場にいなかったトマスの元に、次の日曜日イエス様は現れました。同じように何度でも、イエス様は現れてくださいます。わたしたちの元にもまた、イエス様は来てくださるのです。
 復活のイエス様との出会い、それは一人ひとりにとって違った物語でしょう。しかしイエス様は、わたしたちのもとに来て、「あなたがたに平和があるように」と語り掛けてくださいます。そのことを信じて、歩んでいきたいと思います。
 わたしたちが信じない者ではなく、信じる者になるために、イエス様は来られます。

4月1日 復活日(マルコ16:1〜8―印刷用PDFはこちら

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婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
(マルコによる福音書16章8節)

 今日の福音書には、三人の女性が登場します。マグダラのマリアとヤコブの母マリア、そしてサロメの三人です。彼女たちの名前はイエス様が十字架の上で息を引き取る場面マルコ15章40節にも出てきます。
 彼女たちはガリラヤからずっとイエス様と一緒に行動しながら、ついてきた女性たちです。イエス様が逮捕された後も、ゴルゴダへの道を歩んでいるときも、そして十字架につけられたあとも、ずっと近くで、そして遠くからイエス様を見つめていたわけです。
 彼女たちは、イエス様と共に十字架の道行きを歩んできたと言えるでしょう。そのときにはイエス様の十字架の意味を考える余裕はなかったと思います。でもきっとイエス様の歩みは、まぶたに焼き付いていたのではないでしょうか。
 彼女たちは日曜の朝に、イエス様が葬られていたお墓に行きます。しかしそこで見たのは、長い衣を着た若者でした。肝心のイエス様はおられませんでした。彼女たちはその事実に震え上がり、正気を失いました。恐ろしくて誰にも何も言えませんでした。墓を出て、逃げ去りました。
 復活の朝に起こった出来事、それは恐れ、戸惑い、恐怖でしかありませんでした。そこに「イースターおめでとう」という喜びの声は聞こえません。でもこれこそが、この福音書が伝えたかった、イエス様の復活なのです。
 マルコによる福音書はもともとこの16章8節で終わっており、その後に続く数節は付け加えられたものだと考えられています。つまりマルコ福音書では、イエス様が突然あらわれて声を掛けてくれることも、扉を閉めていたのに真ん中にあらわれることも、傷のあとに指を突っ込むように言われることも、二人で歩いていたら一緒に歩いてくれるということも、何も書かれていないのです。
 イエス様は墓から消えました。しかしガリラヤで会えると言われます。ここが大切なところです。墓は死体が眠る場所です。ガリラヤは、生活の場です。つまりイエス様は、どこか特別な場所ではなく、わたしたちがいるところに、生きているところに、来てくださるのです。そして死にしばられることなく、わたしたちと共にいてくださいます。
 イエス様の復活物語、それはその人その人にとって全く違う物語です。一人ひとりにとって、復活のイエス様との出会いは特別な出来事です。イエス様は墓からおられなくなった。そしてわたしたちの元に来て下さる。それがイエス様の復活です。
 イエス様の十字架そして復活は、わたしたちを生かすためになされた、神さまの愛の業なのです。

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