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ショートメッセージ2018年6月

6月24日 聖霊降臨後第5主日(マルコ4:35〜41―印刷用PDFはこちら

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イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
(マルコによる福音書4章40節)

 時折ぼんやりと、礼拝堂の椅子に座り、天井を見上げていることがあります。心静かに、誰にも邪魔されずに、ただただボーっとする。すると何かホッとするような、そんな気持ちになります。
 ある日のこと、イエス様と弟子たちは舟に乗って湖の向こう岸に向かいます。しかしその途中、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになりました。弟子たちは慌て、うろたえます。そこで眠っているイエス様を起こし、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えるのです。
 教会はしばしば、舟にたとえられることがあります。わたしが勤務する桃山基督教会の礼拝堂の天井は、舟底をひっくり返したような構造になっています。イエス様を真ん中にして、わたしたちは一生懸命に舟をこぎます。しかし波風にあおられ、沈没しそうになることもあります。
 教会だけではありません。わたしたちの心の中も同じです。いくらイエス様が一緒にいてくれると信じていても、どうしようもない不安の中で、涙を流しながら叫ぶことだってあると思います。「イエス様、わたしがおぼれてもかまわないのですか」。
 わたし自身、イエス様に助けを求めながらも、返事が来ないことにいら立ちを覚えたことが多々ありました。家族が病気になったときに。何も手につかないほど落ち込んでしまったときに。自分の思い通りにならなかったときに。しかしそのたびに、わたしはイエス様に出会い、「なぜ怖がるのか」という言葉を聞いてきたように思います。しかし「イエス様に出会い」というのは正確ではありません。イエス様の声を聞いて、いつもそばにイエス様がおられたことを思い出した、というのが正しいのかもしれません。
 弟子たちは、一緒に舟にいるのが他でもないイエス様だということを忘れていました。イエス様がいるのに怖がり、イエス様を信じることができませんでした。この出来事は、何度も何度も繰り返し起こります。わたしたちも、幾度となく経験することです。そしてそのたびに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という声を聞くのです。
 わたしたちの信仰は、そこにあります。何度疑っても、何度恐れても、いつもイエス様がそばにいて下さる。わたしたちは一人ひとり違った形で、イエス様の声を聞き、イエス様に出会っています。なかなか風がやまなくても、暗闇から抜け出せそうになかったとしても、必ずすぐ横にイエス様がいて、導いてくださる。そのことを信じて、歩んでいきたいと思います。

6月17日 聖霊降臨後第4主日(マルコ4:26〜34―印刷用PDFはこちら

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夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
(マルコによる福音書4章27節)

 今日の箇所には二つのたとえが出てきます。一つは種の成長に関するもの、そしてもう一つはからし種に関するものです。農業の経験がある方はお分かりかと思いますが、農作物をきちんと育てるためには、それなりの作業が必要です。水をあげたり、雑草を抜いたり、実が出来そうな時期になったら鳥や動物から守ったり。でも同時に、まったく分からないような力が働いて、その種を成長させていることも良く知っています。いつの間にか知らないうちに成長する、神の国とはそのようなものだとイエス様は言われます。
 またとても小さなからし種が、どんな野菜よりも大きくなることも神の国にたとえられます。小指に乗るくらいのわずかなものが、人が見上げるほどのものになる。神の国とはそういうものなのです。
 神の国とは、神さまの支配のことです。神さまによる愛の支配です。知らない間に神さまの愛が満たされ、驚くほどたくさんの神さまの愛が注がれるのです。
 農夫は種を蒔いて、ただ寝て起きるだけでした。何もしていません。でも彼は、種が必ず成長することを知っていました。どんな野菜よりも大きくなることを信じていました。だから種を蒔いたのです。握りしめていた種を手放し、地に委ねたのです。小さな種でも大きく育つことを信じ、種を蒔いたのです。
 イエス様の周りには、自らを正しい者だと自負し、清くあり続けようとした人たちがいました。言い方を変えれば、自分の手で種を成長させることができると思い、種を大事に握りしめていた人たちでした。わたしたちにも、そのような一面はないでしょうか。わたしたちはただ一方的に与えられた大きな恵みによって、生かされています。でもそのことを忘れ、自分の力で生きようしてはいないでしょうか。種を握りしめてはいないでしょうか。イエス様は、手を離せと命じられます。手に持っているその種を、ばらまいてしまえと言われているのです。種を神さまに委ねて初めて、種は成長するのです。
 またイエス様の周りには、群衆もいました。彼らはイエス様を頼ってきました。彼らは自分の小ささを自覚し、自分の罪深さに気づいていました。神さまを頼らないと歩いていけない。でもその神さまに、顔を向けることすらできないのです。そのような思いを持つ人に、イエス様は語られます。ちっぽけなからし種のようなあなたがたも、驚くほど大きく育てられる。それが神の国なのだと。
 わたしたちが自分の小ささを感じたとき、このイエス様の言葉が響いて来ます。安心しなさい。大丈夫、神さまに委ねなさいという言葉が。
 神さまを信頼して、歩んでいきましょう。神さまはわたしたちと共におられます。

6月10日 聖霊降臨後第3主日(マルコ3:20〜35―印刷用PDFはこちら

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周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
(マルコによる福音書3章34〜35節)

 イエス様の周りには、彼を頼って多くの人々が集まってきました。しかしそこには、イエス様を受け入れることのできない人たちもいたようです。今日の箇所にはそのような人として、「身内の人たち」と「エルサレムから下ってきた律法学者たち」が登場します。
 まず身内の人たちが出てきます。彼らはどうしてイエス様を取り押さえようとしたのでしょうか。それはイエス様が「気が変になっている」と耳にしたからです。当時の社会で気が変になるのは、悪霊の仕業だと考えられていました。だから取り押さえなければならないと思ったのでしょう。イエス様は大工の家庭に生まれました。律法学者のように律法を学んだわけではありません。何の権威も持たないのに巡回して宣教し、いやしの業をおこなうイエス様。一番近くにいたはずの身内の人たちにとって、それは信じられない姿でした。
 またエルサレムから下ってきた律法学者たちも、イエス様に対して否定的な言動を繰り返します。宗教の中心地であるエルサレムで活動していた彼らは、エリートでした。彼らは律法を詳しく、丁寧に学んでいきます。それは良いことなのですが、自分たちこそ正しいのだという思いが強くなっていきます。だからイエス様の行動が、どうしても許せないのです。
 イエス様の周りには群衆が集まってきました。一番近くにいたはずの身内でもなく、また自分たちこそ正しいと思っていた律法学者でもなく、ただイエス様を頼ってきた群衆がそこにはいました。そしてイエス様は彼らに、関わっていかれるのです。聖書はイエス様が漁師や徴税人を弟子にしたこと、病気の人や悪霊に取りつかれた人たち、また罪人や娼婦といった、社会の隅で誰にも相手にされない人たちのところに行き、寄り添い、手を差し伸べられたことを報告します。
 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」。
 イエス様のこの言葉は、いわゆる血縁関係による身内に対してではなく、群衆に対して語られました。本当の家族がここにある、神の家族とはこのようなものだ。イエス様はそのような思いで、語ってくださっています。群衆は特別なことをしたわけではありません。彼らは、ただじっとそこにいて、イエス様のそばにいて、その声に耳を傾けていました。神さまにすがるしかない、その思いしかありませんでした。
 わたしたちは神の家族でしょうか。イエス様にすべてを委ね、頼り切っているでしょうか。イエス様のみ言葉に聞くということ、それこそが「神の御心」なのだと思います。

6月3日 聖霊降臨後第2主日(マルコ2:23〜28―印刷用PDFはこちら

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そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
(マルコによる福音書2章27節)

 今日の場面は簡単にいうと、イエス様の弟子たちが人様の畑の麦を勝手に摘んで怒られた、という出来事です。こういうと、怒られて当然だと感じるかもしれません。しかし当時の社会では、他人の麦畑の麦を手で摘んで食べることは許されていました。貧しい人が自由に食べてよかったのです。ではファリサイ派の人は、何に対して「けしからん」と声をあげていたのでしょうか。
 それは、安息日にしてはいけないことをしたからです。安息日には働いてはならないのに、穀物の収穫をしたというのです。ファリサイ派の人たちは、神さまから与えられた十戒の一つである安息日には、絶対に働いてはならないと考えました。そして何をすることが「働く」ことになるのか、細かく規定してきます。
 例えば移動してよいのは約800mだったり、火をおこしてはダメだったり、掃除もしてはいけないなど、39の禁止行為に付随した600を超える細かい決まりが作られていきました。その安息日は自分が守るだけではなく、他の人にも「ちゃんと守りなさい」と強要していきます。「これが正しいのだ」と強く思った彼らは、細かい決まりに無頓着で安息日だろうと普通の日のように過ごしてしまう無知な人たちを、軽蔑します。そして自分たちの周りから排除していったのです。
 さてイエス様は、そのようなファリサイ派に対し答えます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。そもそも安息日とは何だったのでしょうか。その本質は、7日目に労働から解放されるというものです。天地創造のときに、神さまは7日目に休まれました。その恵みを、わたしたちにも与えてくださったのです。さらに聖書は、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、町の門の中に寄留する人々も、みんなで休むようにと定めます。これが神さまの与えられた安息日です。神さまからの賜物なのです。
 ファリサイ派は細かい規定を定めて、人を束縛しようとしました。当時のユダヤには「地の民」と呼ばれる人がいました。彼らは律法をきちんと守ることができない人たちでした。彼らにとって安息日は、重荷以外の何物でもありませんでした。安息日は、自分が罪深い者であるということに気づかされるものでしかありませんでした。しかしイエス様は、人々をその重荷から解放し、生きる者とされました。そして「地の民」と共に歩んでいかれたのです。
 わたしたちには神さまから、様々な恵みが与えられています。大切なことは何なのか。神さまのみ心は一体何か。なぜ神さまはわたしたちに関わろうとされているのか。考えていきたいと思います。
 イエス様はすべての人を大切にされ、すべての束縛から解放してくださいます。

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