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ショートメッセージ2018年8月

8月26日 聖霊降臨後第14主日(ヨハネ6:60〜69―印刷用PDFはこちら

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シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
(ヨハネによる福音書6章68節)

 ヨハネによる福音書6章を、少し振り返ってみたいと思います。まず5000人という群衆を、5つのパンと2匹の魚だけで満腹させる奇跡物語がありました。その出来事を見た群衆は、イエス様を王に担ぎ上げようとします。イエス様はそれを望まず、湖の向こう岸へ逃れます。そのときに、湖の上を歩くイエス様の物語がありました。
 そして群衆は、湖の向こう岸までイエス様たちを追いかけます。しかし彼らは、イエス様の言う「まことのパン」の話が理解できませんでした。さらに「わたしは天から降ってきたパンである」という言葉に眉をひそめたのは、ユダヤ人でした。
 そして今日の箇所に入ります。ここで不満を口にしたのは弟子たちでした。ここでいわれている弟子とは、いわゆる12弟子以外の弟子のようです。しかしイエス様に弟子として従っていた人たちが、イエス様の元を去ったということです。
 群衆が勘違いし、ユダヤ人がつぶやいた。ここまでは、わたしたちはどこか他人事のようにこれらの物語を捉えてしまうかもしれません。わたしたちはイエス様を信じ、イエス様のこともよくわかっている。でも群衆やユダヤ人は仕方がないだろう。そう言って、高みの見物をしていないでしょうか。
 今日の箇所は、そんなわたしたちに向けて語られているのかもしれません。自分は大丈夫、関係ないと思っているわたしたちに、弟子たちですら、イエス様の元を離れて行ったこの出来事は、何を意味するのでしょうか。
 弟子たちは、イエス様と寝食を共にし、イエス様の言葉をいつも聞き、イエス様がおこなう驚くべき業を一番近くで見、イエス様の喜びも、悲しみも、苦しみも、痛みも、間近で感じてきた、そんな一人一人でした。すべてを捨てて、イエス様と共に歩んで行った、そのような人たちです。しかし、「こんな話を聞いていられようか」と言いながら去っていったのです。
 わたしたちは知っています。わたしたちの周りにも弟子たちのように、一度はイエス様に従うという決断をしながら、様々な理由で離れ去ってしまった人たちがたくさんいることを。また自分自身にも経験があるかもしれません。どうしても礼拝に、神さまに心が向かない。陪餐を受けるときに、手がすっと前に出ない。これはわたしたちの誰にでも起こりうる物語なのです。そのときに、「あなたがたも離れて行きたいのか」と言われるイエス様。一体どのような表情をされているでしょうか。
 しかしイエス様は、それでもわたしたちを生かすために、この世に来られました。たとえ離れて行くことがあったとしても、必ず帰ってきてほしい。それがイエス様の願いであり、神さまのみ心です。そしていつも、手を差し伸べてくださるのです。

8月19日 聖霊降臨後第13主日(ヨハネ6:53〜59―印刷用PDFはこちら

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わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
(ヨハネによる福音書6章56節)

 今日の福音書の言葉を、何の抵抗もなく受け入れることができたでしょうか。イエス様の肉を食べ、またその血を飲むことによって、わたしたちは永遠の命を得、終わりの日に復活させられる。そう言われても、文字通りに捉えるととても恐ろしく感じます。実際イエス様の周りにいた多くの人は、このイエス様の言葉を聞いて離れて行ってしまいます。人の肉を食べるなどできるかと、考えてしまったのです。
 しかし教会に集っている人たちの多くは、このイエス様の言葉を違和感なく聞いています。それは聖餐式の場面を思い起こすからではないでしょうか。
 聖餐式では「あなたのために与えられた主イエス・キリストの体」と告げられながら渡されるパンを、アーメンと言いながらいただきます。そして「あなたのために流された主イエス・キリストの血」と告げられながら傾けられた杯から、アーメンと言いながらぶどう酒をいただくのです。
 文字通り、わたしたちは聖餐式がおこなわれるたびに主イエス・キリストの体をいただき、そして主イエス・キリストの血を飲む。まさに今日の福音書でイエス様が言われた言葉、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」という行為を、わたしたちは聖餐式の中で実践しているのです。教会ではこの聖餐式を、とても大切に守ってきました。ではこの聖餐式は、わたしたちにとってどのような意味を持つのでしょうか。
 わたしたちがいただくパンとぶどう酒は、特別なものではありません。しかし祈りによって、信じる人には特別な物になるのです。司祭はこのように唱えます。
 「どうかみ言葉と聖霊により、主の賜物であるこのパンとぶどう酒を祝し、聖として、わたしたちのためにみ子の尊い体と血にしてください」。
 イエス様は約束されました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と。ここを原文通りに正確に訳しますと、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしの内にいつもとどまり、わたしもまた、その人の内にいつもとどまる」となります。
 この体の中に、ずっといてくださるのです。とどまってくださるのです。わたしたちと共に歩き、共に泣き、共に笑い、共に痛み、そして導き、背負い、いつまでも寄り添ってくださる。そのために、「わたしの肉を食べなさい」とイエス様は言って下さるのです。
 「わたしを食べる者もわたしによって生きる」、これがわたしたちに対してなされた、イエス様の約束なのです。その喜びを感じながら、聖餐に臨みたいと思います。

8月12日 聖霊降臨後第12主日(ヨハネ6:37〜51―印刷用PDFはこちら

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わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
(ヨハネによる福音書6章39節)

 イエス様はガリラヤからついてきた群衆に対し、「わたしは命のパンである」と語ります。彼らはたった5つのパンと2匹の魚が5000人の人々を満腹させる奇跡を目の当たりにし、イエス様を王にしようとしました。湖の対岸へ舟で移動するイエス様たちを追いかけまわす群衆に対し、イエス様は、「いやいや、あなたがたはよくわかっていない。この世のパンのような朽ちるパンのためにではなく、朽ちることのない命のパンのために働きなさい」と言われます。
 さらに「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」と言われるイエス様に対して、そこにいたユダヤ人はつぶやき始め、こう言います。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」と。
 日本語で「つぶやく」と言いますと、「小さい声でひとりごとを言う」という意味です。自分自身に、あるいはすぐそばにいる人にしか聞こえないような声で話す、そのような状況を思い浮かべるでしょう。しかし聖書に「つぶやく」と訳された言葉の意味は少し違います。この「つぶやく」とは、あからさまに不平や不満を口にすることを意味します。つまりユダヤ人たちはイエス様に明らかに聞こえるような声で不平を言い、騒ぎ出したのです。彼らの不満は、「イエスはヨセフの子」なのに、というところにありました。
 イエス様が言った「天からのパン」という言葉を聞いて、ユダヤの人たちは連想する出来事がありました。それは自分たちの先祖がエジプトでの奴隷生活から解放され、40年間荒れ野をさまよっていたときにマナという天からのパンが彼らを養ったことでした。彼らが知る「天からのパン」は、神さまから与えられるものでした。しかし自分たちがよく知っている人物が、自分は天からのパンだと言う。それが許せなかったし、信じることができなかったのです。ユダヤ人たちは、色眼鏡でイエス様を見ていました。その結果イエス様の言葉を受けいれることができず、本当に大切なものを見失ってしまったのです。
 人間的なことが邪魔をして、大切なものが見えなくなってしまう。わたしたちにも経験があると思います。説教者を見ながら、その人の神学生時代、子ども時代、普段持っている主義主張、その人の性別、国籍、年齢、いろんなものが邪魔をして、福音が耳に届いていないことはないでしょうか。福音はこう語られるべき、このような祈りがなされるべき、自分の思いが優先してしまい、それと違うものを受け入れられないとしたら。それはまさに、ユダヤ人のつぶやきと何ら変わらないのではないでしょうか。イエス様の言葉を素直に喜び、受け入れる者となりましょう。

8月5日 聖霊降臨後第11主日(ヨハネ6:24〜35―印刷用PDFはこちら

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イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
(ヨハネによる福音書6章35節)

 わたしが命のパンである。今日の箇所で、イエス様はこう語ります。命のパン、それは一体、何なのでしょうか。
 イエス様は5000人の群衆を、5つのパンと2匹の魚だけで満腹させました。その光景を目の当たりにした群衆は、イエス様を王にしようとします。イスラエルの人たちにとって、このパンの奇跡は特別なものでした。出エジプトの物語の中で、彼らの祖先はマナというパンによって、40年間神さまに養われたからです。
 そして今、目の前にいるイエス様は、わずかなパンで自分たちを満たしてくれた。だから彼らはイエス様を捜し求めたのです。ガリラヤからやってきたイエスという男が弟子たちを引き連れ、病人を癒し、今まで相手にされなかった人たちを受け入れ、教えを語っていた。そしてわずかなパンと魚を増やし、大勢の人を満たした。イエス様に出会った群衆は、興奮状態だったことでしょう。しかしイエス様は彼らに、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と告げます。
 「朽ちる食べ物」とは、わたしたちが普段食しているようなものだと思います。では「永遠の命に至る食べ物」とは何でしょうか。命のパン、神のパン、そのような言葉が聖書に並びます。神さまは、わたしたちにそのパンを与えられます。そのパンとは天から降って来て、世に命を与えてくれるものです。わたしたちに命を与えるために天から遣わされたパン、それはまさしくイエス様のことではないでしょうか。
 わたしたちは礼拝の中で、聖餐式をおこないます。聖餐式は、み言葉と聖餐、その両輪からなっています。聖書のみ言葉に聞くこと、それはみ子であるイエス様の言葉に聞くこと、イエス様に従い、受け入れることに他なりません。そして聖餐の中で、わたしたちはキリストの体と血にあずかります。み言葉によって、そして聖餐によって生かされている。それがわたしたちなのです。
 イエス様はそのために来られました。わたしたちに命を与えるため、「命のパン」としてわたしたちを飢えや渇きから、わたしたちの心を襲う飢えや渇きから遠ざけるために、イエス様は自らをささげられたのです。
 わたしたちはいろいろな物を欲して生きています。しかし本当に必要なものは何でしょうか。イエス様という命のパンに生かされ、歩んで行くことができればと願います。

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