本文へスキップ

TEL. 075-611-2790

〒612-8039 京都市伏見区御香宮門前町184



ショートメッセージ2018年9月

9月30日 聖霊降臨後第19主日(マルコ9:38〜48―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
(マルコによる福音書9章40節)

 今日の箇所は、弟子の一人であるヨハネがイエス様に話しかける場面からスタートします。ゼベダイの子であるヨハネを、静かな人物だと思われている方も多いでしょう。しかしイエス様は、ヨハネのことを怒りっぽい奴だなあと感じていたようです。なぜならイエス様は彼とその兄弟ヤコブに、「雷の子」というあだ名をつけていたからです。
 雷は突然、光ります。鼓膜が破れるほどの大きな音を立てます。突然頭に血が上り、カッとなって大声でまくしたてるヨハネの姿をイエス様は何度も見たのでしょう。ヨハネはイエス様に言います。「あなたの名前を使って悪霊を追い出している者を見ました」。そして続けます。「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」。つまりイエス様の名前を使いたければ、イエス様の直弟子であるわたしたちに従うようにとヨハネは迫ったのでしょう。
 イエス様が十字架につけられて2000年、教会は分裂を繰り返してきました。同じようにイエス様の名によって人々に語っているのに、これはダメだ、あれは受け入れられないとお互いを排除していく。そして自分たちの正当性を主張していくのです。ヨハネが「わたしたちに従え」と言ったのと同じことを何度も繰り返してきたのです。時代を超え、人を変えて、何度も何度もこの言葉が語られて、自分たちの思いだけが主張され、人が別れていく。
 教会は何度もそのことを繰り返してきました。これは昔話なのでしょうか。今のわたしたちの教会ではどうでしょうか。わたしたちには自分たちが大事にしてきたことがあります。このスタイルのままでいると、心地いいです。とっても楽です。でも時々、自分たちの思いとは違う人たちがやってくることがあります。そのときに、わたしたちの思いに無理に従わせようとはしていないでしょうか。わたしたちが理解できないことはすべて、やめさせようとはしていないでしょうか。
 イエス様はヨハネに言われます。「やめさせてはならない」、そして「わたしの名前を使ったすぐそのあとで、わたしのことを悪くなど言えるか?」と言われるのです。さらに続けられます。「わたしに逆らわない人はわたしたちの味方である」と。
 味方として受け入れる。それがイエス様の姿勢なのではないでしょうか。自分たちの正当性や弟子としての地位などどうでもいいのです。イエス様はこの後、ガリラヤを去り、十字架への道を進まれます。その最後に語られたこと、それはあなたたちも受け入れなさいということです。
 わたしたち自身が、正当な弟子ではないかもしれない。しかしイエス様は味方として受け入れてくださるのです。

9月23日 聖霊降臨後第18主日(マルコ9:30〜37―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
(マルコによる福音書9章34節)

 弟子たちは「だれが一番偉いか」と議論していました。「議論する」という原語の本来の意味は、誰かに聞かれるとは思わなかった内緒話や私語のことだそうです。弟子たちはまさか、イエス様に聞かれるとは思っていなかったことでしょう。だからイエス様が「何を議論していたのか」と聞かれても、黙っていることしかできませんでした。
 弟子たちの「だれが一番偉いか」という会話、このような会話は当時の社会では頻繁におこなわれていたようです。例えばユダヤ教のラビと呼ばれる教師たちは、新しい時代にはだれが最も偉大なのかということを真剣に議論していました。また食事の上座や下座に対するこだわりもありました。しかし彼らの裕福になったり人から尊敬を集めたりしたいと思っていたのは、それが神さまに祝福された証だと考えていたからです。つまり弟子たちが偉くなりたいという思いは、人からどう思われるかというよりも、神さまにとって自分はどうなのかという気持ちからきたのです。
 イエス様は、そのような価値基準で議論をする弟子たちに、こう言われます。「仕える者となりなさい」。そして子どもの手を取り、抱き上げて言われます。「この子を受け入れる者はわたしを受け入れ、わたしを受け入れる者はわたしを遣わされた神さまを受け入れる」のだと。要は、子どもを受け入れなさいということです。それがイエス様を、そして神さまを受け入れることになるのです。これならできそうだと思うかもしれません。しかし今の子どもと当時の子ども、その言葉の持つ意味は全く違います。
 当時のユダヤでは、子どもには人格が認められていませんでした。価値がなく、取るに足りず、数にも数えられない存在でした。だからイエス様が「子どもを受け入れなさい」と言われた言葉をわたしたちは少し読み替える必要があると思います。わたしたちにとって、いわゆる「子ども」とはどんな人たちなのでしょうか。わたしたちが数の内にも入れてない人はどんな人でしょうか。わたしたちの目にも留まらない、そんな人はいませんか。もし今、自分のそばにいたとしたら不快感を抱いてしまう、そのような人はいないでしょうか。
 イエス様は、その見えなかった子どもの存在を受け入れるように命じられます。偉くなることが神さまに喜ばれることではありません。小さな一人を受け入れ、仕える者となることが、神さまを受け入れることになるのです。今までの価値観を覆したのです。
 そしてイエス様は、小さな者を受け入れる見本を見せてくださいました。社会の片隅にいる人たちの手を取り、人々に蔑まれた人と食事をされました。そして神さまから遠く離れた、わたしたち一人一人をも受け入れてくださったのです。

9月16日 聖霊降臨後第17主日(マルコ8:27〜38―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
(マルコによる福音書8章33節)

 イエス様の十字架の予告を止めに入ったペトロに対し、イエス様は言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。そこはあなたのいる場所ではない。前に立つな。わたしの後ろに回れ、そういうことです。ペトロはイエス様の受難の話を聞き、それはダメだと思いました。そんなことされても、みんなうれしくない、いやペトロ自身がハッピーになれない。神さまのご計画に思いを寄せるのではなく、自分の思いを優先させてしまった。それが、イエス様の前に立ってイエス様を自分の思う方向に導こうとするペトロの姿だったのです。
 わたしたちはどこに立っていますか。イエス様の後ろに立って、イエス様にすべてを委ねて歩もうとしていますか。それとも、「イエス様、こうしてください」、「イエス様、あれが必要です」、「イエス様、それはいけません」。ああしてくれ、こうしてほしい、そればかりで、神さまのみ心は何なのか、心にとめようともしない、そんなことはないでしょうか。
 イエス様はご自分に従うにはどういうことか、わたしたちに示されます。それは「自分を捨て、自分の十字架を背負う」ということです。自分を捨てると言っても、自分自身を拒絶し、憎むことではありません。自分勝手な思いや、自分を正当化する心を手放す、これが自分を捨てること。そして自分の十字架を背負うのです。十字架を背負う、想像してください。痛みはないでしょうか。苦痛は感じないでしょうか。でもそれが、イエス様の歩まれた道を歩くということです。
 では自分の十字架を背負うとはどういうことでしょう。人を愛することと十字架を背負うこととは同じようなことかもしれません。本当に人を愛するならば、そのためには自己犠牲が必要なのだと。たとえばおかあさんは、子どもが生まれたとき、いろいろなものを犠牲にします。時間、お金、趣味。「お母さんなんだから我慢しなさい」って人に言われたら嫌なものですが、子どもを愛するがゆえに、自分が大切に思っていたものがどうでもよくなることがあるのではないでしょうか。
 神さまの愛は、それ以上のものです。何の見返りもない、得もない。でもただ一方的に愛してくださる。神さまはわたしたちに、そう接してくださっています。だからわたしたちも、今となりにいる人を愛するのです。
 愛することで、多くのものを失うかもしれない。大切にしていたものを手放すこともあるでしょう。でも自分の思いを一番に考えていたら、他人に目は向きません。
 周りの人に手を差し伸べることで、自分が痛い思いをするかもしれない。傷ついた人の傍らに立つことで、自分も苦しみの中に落とされるかもしれない。でもそれが、自分の十字架を背負うことなのです。それが神さまのみ心なのです。

9月9日 聖霊降臨後第16主日(マルコ7:31〜37―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
(マルコによる福音書7章34節)

 2000年前ユダヤの人たちは、救いのみ手を待ちわびていました。旧約の預言者も、その約束を記します。たとえばイザヤ書35章には、こうあります。
 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
 そしてそのときには一体何が起きるのか。こう続けられます。
 そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。
 イエス様は今日の箇所で、耳が聞こえず舌の回らない人をいやされました。聞こえない人の耳が開く、そのことが実現した瞬間でした。これはユダヤの人にとって、神さまが救いの業を開始されたことを告げる大きな出来事でした。
 今わたしたちは、このユダヤの人たちのように、心おののいているかもしれません。自然災害や恐ろしい事件など、わたしたちの周りには、「神さま、助けてください」と叫ばざるを得ないことが数多くあります。その状況は2000年前のユダヤから何も変わっていないともいえるでしょう。本当に大切なものが見えず、神さまの呼びかけも聞こえない。しかしそのわたしたちの目と耳を開かせるために、神さまはイエス様を遣わされたのです。
 今日の聖書の中で、イエス様は「エッファタ」と命じます。これは「開け」という意味で、イエス様が使っていたアラム語の言葉です。おそらく人々は、この「エッファタ」という言葉はずっと大切にしていたことでしょう。最初は耳の聞こえない人だけに掛けられた言葉だったかもしれません。しかしイエス様の十字架と復活を経て、たくさんの人が「エッファタ」という声を聞いたのではないでしょうか。
 そして、「エッファタ」という言葉を掛けられるその姿に、イエス様はわたしたちにどのように関わってくださるのか、気づかされます。イエス様は指をその人の両耳に差し入れます。ここで両手はふさがります。それから唾をつけてその人の舌に触れられるのですから、おそらくご自分に舌を重ねられたのでしょう。これがイエス様の関り方なのです。熱を出してしまった子どもを見て、思わず自分のおでこを相手のおでこに重ね合わせたことはないでしょうか。痛みに震える人の体を、優しく、しかししっかりと抱きしめ、一緒に震えたことはないでしょうか。
 イエス様は、そのようにわたしたちに関わってくださるのです。わたしたちの弱い部分を感じ、身体ごと包んでくださる、それがイエス様なのです。
 暗闇の中、心が沈んでいるときには、どうぞ「エッファタ」という声に耳を傾けてください。「大丈夫、そばにいるから」というイエス様を感じてください。

9月2日 聖霊降臨後第15主日(マルコ7:1〜8、14〜15、21〜23―印刷用PDFはこちら

○○○○○○○○イメージ

そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
(マルコによる福音書7章5節)

 「食事の前には手を洗いましょう」。わたしたちは子どものときから、そう教えられてきました。確かに手を洗わないでご飯を食べると、外でついたバイ菌が体内に入ってしまう危険性はあるでしょう。また汚い手で大皿のサラダを取り分けられても、食べるのに躊躇してしまうというのも本音だと思います。
 イエス様の弟子たちの中に、汚れた手のままで食事をする人たちがいました。ファリサイ派や律法学者です。しかし彼らは、「そんな食べ方をすると身体を壊すかもしれないよ」と注意したくて、イエス様の抗議したのではありませんでした。
 彼らファリサイ派や律法学者たちは、旧約聖書に書かれた教えを忠実に守っていました。そして今日出て来た「昔の人の言い伝え」には、「汚(けが)れ」から身を守りなさいというものもありました。
 「洗う」という行為は、「けがれ」を清めるおこないです。それは、ほこりや泥などの「よごれ」ではなく、宗教的な「けがれ」を身に帯びないためのものでした。当時のユダヤでは、罪を犯した人や徴税人、娼婦、また汚れた霊に取りつかれた人など、けがれたとされた人たちに触れると、自分もけがれてしまうと考えられていました。また食べ物などにも、清い物とけがれた物があり、彼らはけがれた物を避けて食べていました。
 そのことで彼らは、自分を神さまの前に立てる清い者にしようとしたのです。その結果、彼らは自分たちがけがれていると判断した人たちを排除していきました。
 しかしイエス様の弟子たちは、イエス様のおこないを間近で見ていたのでしょう。イエス様は、罪人や徴税人たちと食事をし、病人に手を置き、当時の社会では相手にされなかった女性や子どもたちと関わっていました。けがれた者としてではなく、一人の大切な人間として接していかれました。だからイエス様は、食事の前に手を洗う必要がなかったのです。イエス様は、けがれた者になど触れてはいないのです。そして弟子たちも、イエス様のそのおこないに倣ったのではないでしょうか。
 わたしたちは自分の力だけで、神さまの元に行くことなど出来ません。それはわたしたちが清くない、けがれた者だからです。自分の心の中をのぞくことができたとしても、わたしは怖くて見ることはできないでしょう。それは心の中が真っ黒で、深い闇に包まれていることを知っているからです。
 だからこそ、イエス様が必要なのです。けがれたままのわたしたちでも、イエス様が包んでくださる。「大丈夫」と声を掛けてくださる。手を差し出してくださる。
 その愛に感謝しましょう。

バナースペース

日本聖公会 桃山基督教会

〒612-8039
京都市伏見区御香宮門前町184

TEL 075-611-2790
FAX 075-611-2790