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ショートメッセージ2018年10月

10月28日 諸聖徒日(マタイ5:1〜12―印刷用PDFはこちら

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悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
(マタイによる福音書5章4節)

 毎年、諸聖徒日の礼拝では、山上の説教の冒頭部分が読まれます。ガリラヤで伝道を開始されたイエス様は四人の漁師を弟子にし、そしておびただしい病人をいやしていきます。そのイエス様の元には、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来て、従ったとあります。
 イエス様はこの頃、ガリラヤ湖のほとりのカファルナウムを中心に活動をされていました。そこから直線距離で約120qあるエルサレムまでそのうわさが広まっていたということになります。
 たとえば京都市から120q離れた場所というと、北の方では福井市。また西に行くと兵庫県の相生市ぐらいでしょうか。しかしこれは、2000年前のユダヤの話です。インターネットもなければテレビ、ラジオもない。そんな時代に一人の大工のせがれを見るために、遠くからやってくる。そこには理由があったはずです。
 なぜ人々は、イエス様の元に遠く離れた場所から、歩いて向かったのでしょうか。何日もかけて、足を痛め、お腹を空かせ、のどの渇きを我慢しながら、それでもイエス様の元に行こう、そう思った原動力は何なのでしょうか。
 「悲しむ人々は幸いである」。そう言って、今、打ちひしがれている人を抱きかかえてくれる、涙をぬぐってくれる、一緒に歩いてくれる、そのイエス様の姿を知ったから、自分もそうしてほしい、イエス様の元に行きたい、そう思ったのではないでしょうか。
 イエス様は今でも、悲しみの中から逃れられない、暗闇の中でもがいている、社会に居場所がない、そのような人々に無条件で手を伸ばし、「あなたはそのままでいい。そのままで幸いなんだ」と語ってくださいます。そのイエス様の姿が、すべての原点なのです。その言葉を聞きに、みんなやってきた。その手のぬくもりに触れるために、やって来たのです。そしてイエス様は今、十字架での死と復活を経て、わたしたちの元にやって来てくださるのです。「あなたたちは幸いだ、あなたたちは慰められる」。それがわたしたちに与えられた約束なのです。
 諸聖徒日の礼拝では、わたしたちよりほんの少し先に、天の御国へと、神さまのみもとへと旅立った愛するお一人お一人をおぼえ、お祈りをしています。イエス様の今日の言葉は、悲しみが癒えない人の心を慰め、死への不安におびえる人の心を勇気づけ、天に召された人々の魂を憩わせます。
 悲しみも、苦しみも、痛みも、決して一人で背負わせたりはしない。そのためにイエス様は来てくださいました。そして死に向こう側にある希望を信じて、お祈りを続けていきたいと思います。

10月21日 聖霊降臨後第22主日(マルコ10:35〜45―印刷用PDFはこちら

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人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
(マルコによる福音書10章45節)

 今日の箇所には、二人の弟子が登場します。ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。二人は早くから弟子になった、いわば古株です。この二人はペトロと共に、イエス様に特別なところに連れて行かれることもありました。
 さて二人はイエス様に、「わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願います。「あなたの右と左に」、わたしはこの言葉を聞いて、ひな飾りを思い出しました。それよりもピラミッドのような形でしょうか。上の方の人数が少なくて、下に行くほどたくさんの人がいる。上の人はきれいに着飾っているけれども、下の人たちは普段着のような恰好、もっと下に行くとボロボロの服を着ている。それは、わたしたちの社会と同じなのかもしれません。
 その情景を思い浮かべながら、先ほどのヤコブとヨハネの言葉を思い返してみたいと思います。「あなたの右と左に」、そういう彼らの頭には、頂点にイエス様がいる景色が浮かんでいたことでしょう。しかしイエス様は「あなたたちの間ではそうであってはならない」と言われるのです。
 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。つまり、一番底辺で、みんなを支え、そこにいる人たちと共に生きていきなさいということです。ピラミッドの頂上を目指すのではなく一番下、そこには社会から疎外され、生きていくのも大変で、病気に悩み、今、神さまから見捨てられていると思っている人がいるかもしれない。あなたたちはそこにいるようにと言われるのです。
 聖書はわたしたちに、何度も同じようなことを書きます。「仕えよ」、「しもべになれ」。なぜイエス様は何度も何度も、同じような話を繰り返すのか。答えは簡単です。わたしたちがそうなれないからです。
 今日の場面はイエス様の三度目の受難予告の直後でした。にもかかわらず、弟子の中でも一番イエス様に近い場所にいた人たちが、まだ理解できていない。何度イエス様が語っても、仕える者となることができないのです。
 わたしたちも同じです。「そうだ、仕えよう」、「みんなのしもべとして働くんだ」。できたらいいですよね。でもどうですか。わたしたちだって欲がある。見栄もある。立派になりたい。褒められたい。とてもではないが、縁の下の力持ちのように、自分を捨て、イエス様のように歩んではいけない。自分を振り返るたびに、悲しいけれどもそうなれない自分に気づかされる。だから神さまの憐れみが必要なのです。
 わたしたちはとても弱い。思いと言葉と行いによって、すぐに罪を犯してしまう。だからこそイエス様は十字架でわたしたちの代わりに血を流されたのです。

10月14日 聖霊降臨後第21主日(マルコ10:17〜27―印刷用PDFはこちら

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イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
(マルコによる福音書10章23節)

 今日、わたしたちはある人の物語を聞きました。彼はイエス様のもとに走り寄ってひざまずいて尋ねます。永遠の命を受け継ぐには、何をしたらよいのでしょうか」と。彼は「殺すな」という戒めなどを子どものときから守ってきたと言います。ところがそんな彼に、イエス様は言われます。「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」。それを聞いたこの人は、気を落とし、悲しみながら、イエス様の元から立ち去ってしまいます。なぜなら彼は、たくさんの財産を持っていたからです。
 わたしたちは「殺すな」という掟を聞いて、そんなことはしないというかもしれません。自分とは違う人や、関わると面倒な人とは距離を置き、何もせずにじっとしていれば肉体的にも精神的にも相手を攻撃し、「殺す」ことはないでしょう。しかし「殺すな」を、「生かせ」と置き換えてみるとどうですか。わたしたちが何もせずにほったらかしておけば、消えてしまう命があるとするならば、わたしたちが手を差し伸べないことは、その命を殺すことになりはしないでしょうか。
 インドのカルカッタで一人の女性が、道端に倒れ死にそうになっている人を見つけました。他の人たちがまったく関心を示さず素通りする中で、彼女は彼に手を差し伸べました。彼女の名はマザーテレサ。彼女は貧しい人々と共に生きていきました。マザーテレサの言葉とされるものの中に、「愛の反対は憎しみではなく無関心です」というものがあります。無関心でいることは、愛とは真逆のことです。
 わたしたちの周りにも、様子のおかしい人がいるかもしれない。困っている人がいるかもしれない。泣いている人がいるかもしれない。しかし、気づかない。目に入らない。関心が向かない。そんなことはないでしょうか。
 今日の聖書に出て来た人は、持っている財産を貧しい人々に施しなさいと言われ、肩を落としました。要はあなたが普段関わっていないような人のためにお金を使いなさい。一緒に飲み食いして、一緒に生きていきなさい。そういうことなのです。
 この言葉をイエス様は、彼を「慈しみ」ながら語ります。「慈しむ」という語は他の箇所では「愛して」と訳されている言葉です。つまりイエス様は彼をまっすぐにご覧になったとき、その心に愛が燃えたのです。イエス様はこの言葉を、愛情いっぱいに、じっと彼の目を見つめながら言われたのです。今、わたしがあなたに関わっているように、あなたもとなりにいる人と関わりながら、生きていきなさいと。
 でもそれは、人の力だけでできることではありません。そのために、イエス様は来られました。わたしたちはあらゆるものにしがみつき、頼ります。しかしそのわたしたちをも、生かそうと、関わり続けてようと、決意されたのです。イエス様はその愛のまなざしを、わたしたちにも向けられています。
 その愛をわたしたちは受け、そして周りの人と分かち合うのです。

10月7日 聖霊降臨後第20主日(マルコ10:2〜9―印刷用PDFはこちら

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従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。
(マルコによる福音書10章9節)

 今日の箇所には、ファリサイ派の人が出てきます。ファリサイ派は、一言で言うと真面目な人たちです。ユダヤ人に与えられた律法を真面目に解釈し、正しいこととそうでないことを明確にしていきました。そして自分たちは、その「正しさ」の中で生きていこうとします。さらに周りの人にも、その「正しさ」に入ることを求めていくのです。
 彼らの周りには、その枠の中に入れない人もいました。彼らはその人たちのことを「罪びと」と呼びました。彼らは罪によって汚れている。だから自分たちはその人たちとは絶対に交わりません。自分まで汚れてしまったら大変だから。
 それに対し、イエス様は平気で病人に触れ、徴税人を弟子にし、罪びとと一緒にご飯を食べました。だからファリサイ派の人にとっては、イエス様は罪びとの一人だったのです。だからイエス様を試み、その化けの皮を剥ごうとするのです。
 今日の箇所では、離縁状に対する問答が繰り広げられます。ファリサイ派は「離縁をすることは法的にOKか、否か」と聞いて来ました。しかしここで、そもそもなぜ離縁状が必要だったのかを考える必要があります。
 当時の社会は、男性中心でした。離縁状を出すのも男性から。妻が浮気をしたということだったらまだしも、子どもが出来ないから、他の女性の方がきれいだから、料理をいつも焦がすから、そんな理由で男性は妻を追い出していました。追い出された妻は、生きていくすべがありません。女性が一人で生活できる世の中ではありませんでした。また新しい夫を探そうにも、「重婚」のだとみなされていたのです。そこで「離縁状」を渡すようになったのです。つまり離縁状は、女性を守るためのものでした。ファリサイ派の頭には、その大事な部分が抜け落ちていました。
 イエス様は、そもそも結婚とは何だったのかを語ります。神さまはわたしたちを男と女に創造され、お互いを助ける者として結び合わせてくださった、それが結婚です。しかし「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と命じられた言葉を聞くときに、胸が苦しくなるのはわたしだけでしょうか。
 親しい人の中で、そしてわたしたちの中で、神さまが結び合わせたものを引き裂いてしまったことはありませんか。離縁状を出さなかったとしても、わたしたちは何度も、連れ合いを悲しませ、いらだたせ、見下し、苦しめてきました。何度もわたしたちは、引き裂いているのです。イエス様の目から見たら、わたしたちは何度も離縁状を出している、そんな一人一人なのかもしれません。
 神さまの視点に立ったときに、わたしたちは自分たちの弱さに、罪深さに気づかされます。だからこそ、神さまはイエス様を遣わされたのです。その弱さを知ってはじめて、神さまにすがり、すべてを委ねて生きていくことができるのです。

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