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ショートメッセージ2018年11月

11月25日 降臨節前主日(ヨハネ18:31〜37―印刷用PDFはこちら

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イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
(ヨハネによる福音書18章34節)

 今日は降臨節前主日です。教会の暦では、一年の最後の主日ということになります。一年の最後に、わたしたちはどのようなことを考えればいいのでしょうか。たとえば大晦日であれば、その一年に起こったことを思い出しながら、感謝したり、反省したりするでしょう。そして新たな一年にむけて、目標を定めます。同じように今日、一年最後の主日を迎えるわたしたちは、この一年に与えられたものを覚え、次の一年に向かっていければと思います。
 さて日本聖公会では降臨節前主日として今日礼拝をしていますが、カトリック教会では「王であるキリストの主日」と呼ばれています。今日の福音書の中にも、ピラトとイエス様の言葉の中に王という単語が出てきます。当時のユダヤの人にとって、王という言葉には特別な思い入れがありました。彼らにとって王といえば、ダビデ王でした。彼らは、ダビデのような王様が自分たちの前に現われて、今の苦しみから解き放ってくれるのを待ちわびていたのです。救い主と王の姿とは、重ねて考えてられていました。
 またローマの総督であったピラトにとっても、ユダヤの王が現れるということは大変危険なことでした。ユダヤの人々が王の元に一つとなって、反逆をおこされたらたまったものではありません。クーデターによって、今の支配関係がひっくり返ってしまったら、自分の身が危険にさらされてしまうのです。
 しかしイエス様は、群衆やピラトが考えるような王ではありませんでした。イエス様は言われます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。聖書の中で真理という言葉は、イエス様や福音と結び付けられます。イエス様が語った「真理に属する人々」とは、イエス様こそが真理であることを知り、イエス様を受け入れた人たちのことを言います。その人たちのために、王であるキリストは来られたのです。しかしそれは、わたしたちが思い描く王の姿ではありません。
 イエス様は王であるにもかかわらず、宮殿ではなく貧しい家畜小屋で生まれました。王であるにもかかわらず、立派な肩書を持つ学者ではなく漁師や徴税人を弟子にしました。王であるにもかかわらず、豊かな人たちと宴会をするのではなく罪人や娼婦と共に食事をしました。王であるにもかかわらず、触れてはならない病気の人に手を差し伸べ癒されました。王であるにもかかわらず、人々の罪を担い十字架へと進んでいかれました。
 これが聖書の伝えるイエス様の姿であり、この一年わたしたちが感じてきた恵みなのではないでしょうか。喜びのうちに、新しい一年に向かっていきましょう。

11月18日 聖霊降臨後第26主日(マルコ13:14〜23―印刷用PDFはこちら

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だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。
(マルコによる福音書13章23節)

 マルコによる福音書13章はしばしば、「小黙示録」と呼ばれます。それは書かれている内容が、「世の終わり」について言及しているからです。終末を強調している教派や教団は、この箇所を拡大理解して恐怖をあおることもあります。しかしイエス様が伝えたかったことは、果たしてどういうことなのでしょうか。
 「荒廃をもたらす忌むべきものが立ってはならない所に立つ」という意味不明な記述があったその後に、「読者は理解せよ」と書かれています。現代の日本に生きるわたしたちには、理解は難しいと思います。しかし当時のユダヤ人にとっては、「ああ、あの出来事か」と誰もが思い出すことがありました。
 紀元前168年に、その事件は起こりました。当時ユダヤはアンティオケアに支配されており、その王アンティオコス4世(通称エピファネス)はユダヤ教を禁止します。さらに彼は、エルサレム神殿にオリンピアのゼウス像を立てさせます。この出来事はユダヤ人にとって、耐えがたい屈辱でした。その後ユダヤ人はこの像のことを、「荒廃をもたらす忌むべきもの」と呼ぶようになります。ちなみにこの「忌むべきもの」は直訳では「吐き気をもよおすようなもの」ですから、その嫌悪感は相当なものだったようです。
 人々の心には、この出来事がトラウマのように残っていたのでしょう。だから「読者は理解せよ」と言われたときに、すぐに「あのような出来事のことか」と分かったのです。そしてそのような出来事が、これからも起きるとイエス様は言われます。
 終わりのときはいつなのでしょう。ダニエル書やヨハネ黙示録といった黙示文学に神さまの計画が隠されていると思い、多くの人がその謎に迫ろうとしてきました。しかし今日の箇所からもわかるように、「その日」は突然、何の前触れもなくやってくるのです。だから油断せず、福音を伝えることに忠実でいなければならないのです。
 マルコによる福音書13章は、読んでいてとても暗くなる箇所です。しかしここでイエス様は、たとえ今迫害されていたとしても、苦難の中に立たされていたとしても、耐え忍びなさい。そしていつも気をつけていなさい。なぜならあなたがたは、呼び集められるからだと言っておられるのです。
 今回の箇所が言わんとしていること、それはこのようなことではないでしょうか。「あなたがたも覚えているだろう。あの忌まわしい日のことを。終わりの日の出来事はそんなものではない。しかし恐れるな。わたしは天使を遣わして、あなたたちを集める」。その約束は今も続いているのです。
 「御国が来ますように」、イエス様に呼び集められるその日を待ち望みながら、祈り続けていきたいと思います。

11月11日 聖霊降臨後第25主日(マルコ12:38〜44―印刷用PDFはこちら

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皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。
(マルコによる福音書12章44節)

 イエス様は神殿の賽銭箱の向かい側で、人々がお金を入れる様子を眺めていました。まず、金持ちがやってきました。彼はたくさんのお金を投げ入れます。なぜそれが分かったかというと、賽銭箱がそのような作りになっていたからです。
 当時使われていた賽銭箱の口のところはラッパのように広がっており、お金を入れると大きな音を立てます。今の硬貨を思い浮かべてみても、価値の高いものの方が大きく、また重たくできています。金持ちは高額硬貨をたくさん入れたのでしょう。そしてその音は、きっと神殿中に鳴り響いたのだと思います。
 わたしたちにも、見栄をはり、人から良く見られたいという思いがあると思います。神殿で多くをささげた人は、その音によってたくさんの人の注目を集めることになります。それは金持ちにとって、とても気持ちのよいことだったことでしょう。
 一方、貧しいやもめはレプトン銅貨二枚を投げ入れました。レプトン銅貨とは、当時の貨幣のうちで一番価値の低い硬貨でした。軽くて小さなそのコインを投げ入れたところで、賽銭箱からはほとんど音は聞こえなかったと思います。しかしイエス様は「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」と言われます。金持ちとは比べ物にならないほど、わずかな額しか入れなかったにも関わらずです。
 彼女は持っているものすべてを、賽銭箱に投げ入れました。もう手元には何も残ってはいません。この「やもめ」と呼ばれる人たちは夫に先立たれた方のことで、とても貧しい暮らしを強いられていたそうです。今のように遺族年金や社会保障制度などもなく、生活すべがありませんでした。ではどうやって、これから生きていくのでしょうか。
 彼女は神殿で、持っているすべてを手放しました。それは、すべてを神さまにお委ねするということを示しています。海でおぼれている人がいたとしましょう。その人が助かりたければ、手を差し伸べてくれる人に自分の身を任せることが必要です。手足をバタつかせて自分の力で泳ごうとしたり、力を入れて体を硬直させてしまったりしたら、一緒に沈んでいくことでしょう。また、「これにしがみついていれば大丈夫」と思い込んでいる物から手を放さないと、安全な場所にはたどりつくことができません。
 神さまに委ねるとは、こういうことなのです。自分が大切にしているもの、執着しているもの、握りしめているものから解放されたときに、わたしたちは神さまの子として生かされるのです。
 わたしたちも貧しいやもめのように、神さまにすべてを委ねていけたらと思います。

11月4日 聖霊降臨後第24主日(マルコ12:28〜34―印刷用PDFはこちら

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第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。
(マルコによる福音書12章31節)

 今日、桃山基督教会では「オリーブまつり」を開いています。今年のテーマは、「みんなとの出会い、神さまとの出会い」です。周りを見渡すとすでに、「この人誰だろう?」って思う人がいるかもしれません。そして今日のイベントを通して、神さまを感じることができたらと思います。今日は「みんな」、そして「神さま」について少し考えてみましょう。
 今日の聖書の中で、律法学者と呼ばれる人がイエス様に質問をしました。律法学者は律法という掟を学び、きちんと守り、そして人々に教えていた人たちです。その人が聞きます。あらゆる掟、つまり決まりごとの中で、何が一番大事なものなのかと。わたしたちの周りにも、たくさんの決まりごとがあります。その中でこれだけは守らなければならないものとは、何なのでしょうか。
 イエス様の答えはこうでした。一つは神さまを愛すること、そしてもう一つは隣人、となりにいる人を自分のように愛すること、この二つより大切なものはないと。わたしたちは、このイエス様の言葉を今、この場で聞いたとしたならば、どのような反応をするでしょうか。今日は特に、となりの人を愛するということに目を向けたいと思います。
 みなさん、今となりにいる人を愛していますか。愛するっていうとちょっとむずがゆいかもしれません。言い方を変えましょう。今となりにいる人を、自分のように大切にしていますか。となりの人が泣いていたら自分も同じように悲しくなり、となりの人が笑っていたら自分もいつの間にか笑顔になり、そしてとなりの人と一緒に怒ることができますか。
 隣に座っているのが自分の小さな子どもだったら、心から「はい、愛しています」と言えるでしょう。では夫婦でとなりどうしになっていたら、どうでしょうか。それどころか、しゃべったこともなく初めて顔を見た人だったらどうですか。「愛していますか」と言われても、困るのではないでしょうか。
 しかしイエス様は、別の箇所でこう言われます。「あなたが普段、口を利かない人。一緒に食事をしない人。仲間だと思っていない人。あなたが嫌っている人。いろんな考えが違う人。触れたくもない人。そのような人も、あなたのとなり人だ」と。
 とても難しいことです。しかしわたしたちは、目の前にいる人だけでなく様々な人のことを思い、その人の痛みを自分の痛みとして受け止め、その人の涙を自分の悲しみとして感じたい、そう思うのです。
 そのときに、わたしたちは遠くにいる誰かと、そして神さまとも出会えるのではないでしょうか。

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