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ショートメッセージ2018年12月

12月30日 降誕後第1主日(ヨハネ1:1〜18―印刷用PDFはこちら

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律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
(ヨハネによる福音書1章17節)

 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」から始まるこのヨハネ福音書の冒頭ですが、何回読んでも何のことかよくわからないという方も、正直多いのではないかと思います。「ことば」とは何でしょうか。聖書では、「言」という一文字を使って「ことば」と読ませています。通常あまり用いない読み方です。この単語はもともと「ロゴス」というギリシア語ですが、どのような日本語にするか、大変苦労したようです。
 1837年に聖書を日本語に翻訳したギョツラフという人は、この「ロゴス」を「賢い者」と訳しました。さらに「言霊」や「道」、「み言葉」などなど、様々な翻訳が登場していきます。
 さて、「ことば」に関して、もう一つわたしたちが心に留めておかないといけない箇所があります。それは創世記の最初の部分です。神さまはこの世界の始まりに、「光あれ」と言われたとあります。つまり「ことば」によって、天地創造は開始されたのです。ある人はこの「ことば」とは、神さまの思いなのだと言いました。
 つまりこういうことです。神さまの思いは天地創造のとき以来、世にありました。しかし世は神さまの思いによって完成したにもかかわらず、世は神さまの思いを認めなかったのです。神さまの思いは自分の民のところに届けられていったのですが、民は受け入れなかったのです。
 これがわたしたちの現実なのです。わたしたちは神さまの思いに背を向けて生きてはいないでしょうか。神さまはモーセを通して律法を与えられました。そこには神さまの思いがありました。その律法を守って、自分の前に清い者であってほしい、そのように神さまは思っていたことでしょう。しかし結果的に、人間は律法を守ることはできませんでした。形式的には守っていると思っていたかもしれません。でも神さまを愛し、隣人を自分のように愛すること、それができないのです。
 それどころか、この人は隣人ではないと排除したり、周りの人が苦しんでいたり悲しんでいたりする姿から目を背けてしまう。自分を大事にし、他の人のことはどうでもいい。それがわたしたちの姿なのではないでしょうか。
 しかし神さまのみ心は、わたしたちが誰一人として滅びることなく、生きること、神さまのみ前に生きる者となるということです。わたしたちがどんなによごれていても、思いや言葉やおこないによってよくないことばかりしていても、受け入れる。それが神さまの思いなのです。
 ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。神さまはそのために、わたしたちの間にイエス様を与えてくださいました。

12月23日 降臨節第4主日(ルカ1:39〜45―印刷用PDFはこちら

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主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
(ルカによる福音書1章45節)

 降臨節第4主日となりました。今日、わたしたちに与えられた聖書には、二人の女性の「あいさつ」の場面が描かれています。イエス様の母になるマリアと、洗礼者ヨハネを半年前に身ごもったエリサベトです。二人には共通点がありました。それは二人とも、常識ではありえない妊娠をしたということです。
 エリサベトは高齢で、不妊の女と言われていました。当時の社会で赤ちゃんを授かることは神さまの祝福のしるしとされていたのですが、彼女には子どもが出来ず、夫であるザカリアも諦めていました。しかしそのザカリアの元に天使ガブリエルが現れ、エリサベトが身ごもることが予告されたのでした。
 一方マリアは、まだ10代後半だったと思われます。ヨセフという婚約者はいましたが、結婚はしていませんでした。もし結婚前に妊娠してしまったら、不貞の女として石打ちの刑にあってもおかしくありません。そんな中、マリアの元にも天使ガブリエルが来て、聖霊によって彼女が身ごもることを告げたのです。
 マリアの心には、恐れや葛藤が生まれたでしょう。何で自分なんかに。周りの人たちのことはどうしよう。それは当然のことです。それでも彼女は「お言葉通り、この身になりますように」と天使の言葉を受け入れます。そして自分と同じように神さまの力が働いたエリサベトの元に行き、挨拶をするのです。
 日本語で挨拶というと、人と人との関係が中心になります。お互いを知り合ったり、絆を深めたり、そのようなものです。しかし聖書で言うところの挨拶には、それ以上の意味があります。間に神さまの存在があるのです。神さまがわたしたちの間にいて、平安を与えてくださる。そのことを喜び合いながら、挨拶をするのです。
 もう間もなくクリスマスを迎えます。クリスマスはイエス様の誕生を記念する日です。しかしイエス様の誕生は、2000年前にたった一度だけ起こった出来事ではありません。今もわたしたちの心の中に、イエス様は生まれてくださいます。しかしわたしたちはそのことを、なかなか「お言葉通りになりますように」と受け入れることができません。わたしたちを遮っているものは何でしょうか。今までの経験や自分の姿、神さまになんか頼らなくても生きていけるという自信、手放したくないものがある、こんなわたしを神さまが大切にしているはずがないという思い、などなど。
 「お言葉通りになりますように」、その言葉を神さまは求められています。神さまは、わたしたち一人一人にも呼びかけ、手を差し伸べ、そして関わろうとされているのです。自分の思いに背を向け、神さまに向き直るそのときに、わたしたちはイエス様の誕生を心から受け入れることができるのではないでしょうか。
 そしてお互いに、神さまを感じながら挨拶をしていければと思います。

12月16日 降臨節第3主日(ルカ3:7〜18―印刷用PDFはこちら

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そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
(ルカによる福音書3章10節)

 洗礼者ヨハネは洗礼を受けに来た人々に対し、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と語ります。洗礼者ヨハネは厳しく裁く人で、イエス様は優しい救い主という印象を持つことがあります。しかし洗礼者ヨハネは自分に降った「神の言葉」によって人々に語っていることをわすれてはなりません。つまりこの「悔い改めにふさわしい実を結べ」という言葉は、神さまの思いなのです。
 ヨハネは洗礼を受けさせて欲しいと自分の元に来た人たちに対して、このように言います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」。彼らは今の罪からただ逃れるために、洗礼を受けようとしていました。しかし悔い改めの実を結ぶことなく洗礼を受けたところで、神さまの怒りを逃れることなどできないと、ヨハネは言うのです。そこで彼らは聞きます。「わたしたちはどうすればよいのですか」と。
 彼らに対してヨハネが返した答えはこうでした。群衆には、下着を二枚もっていたら持っていない人と一枚ずつ分け合いなさい。食べ物も同じようにしなさいと言います。あり余った中から誰かに施すのではなく、となりの人と同じ分だけ分け合いなさいというのです。徴税人や兵士に言った言葉には、自分の与えられたもので満足しなさい、他人の物をむさぼるなと言います。一見するとこれらの命令は、そんなに難しくはないと感じるかもしれません。でも果たしてそうでしょうか。わたしたちにはよく言えば向上心、悪く言えば貪欲なところがあります。人より多くの果実を得ようと、やっきになってしまうのです。また、一度手にしたものは、自分のものだと握りしめてしまう。あり余っているときならばいざ知らず、自分の手の中にあるものを他の人と分かち合うことなど、なかなかできない。それがわたしたちの現実ではないでしょうか。
 しかしここでもう一度、悔い改めという言葉に戻ってみたいと思います。悔い改めとは、自分のことばかり考えている状態からグルンと方向を変え、神さまに向き直ることです。なぜ神さまの方に向きを変える必要があるのでしょうか。それは、そうするしかないからです。わたしたちはいくらがんばっても、神さまが喜ばれる人になれない自分を知っています。だから向きを変えるのです。自分の今の姿を見て、自分の罪を認め、神さまの赦しがなければどうしようもないその現実に気づく。だから、神さま何とかしてくださいと、神さまの方を向く。それが悔い改めなのです。
 クリスマスを前にして、自分と向き合いましょう。今、わたしたちには何が必要なのかでしょうか。神さまはそのようなわたしたちに、大きなプレゼントを与えてくださいます。

12月9日 降臨節第2主日(ルカ3:1〜6―印刷用PDFはこちら

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そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
(ルカによる福音書3章3節)

 洗礼者ヨハネはイエス様がこの世に来られる少し前に生まれ、そしてイエス様が活動を開始する直前に聖書に登場します。彼にはイエス様の前に道を備えるという重要な役割がありました。それは人間的な思いではなく、神さまのご計画に沿ったものでした。
 聖書にはこのように書かれています。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と。この降ったという言葉の本来的な意味は、ヨハネに与えられた神さまの言葉が、ヨハネを通してこの世の現実に深く関わる出来事となるということです。
 神さまの言葉は、それまでにも何度も与えられてきました。イザヤやエリシャ、エレミヤといった旧約の預言者にも、そして洗礼者ヨハネにも、神さまの言葉はずっと与えられてきました。彼は罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えたとあります。この「悔い改め」という言葉について、少しだけ詳しく見ていきたいと思います。
 わたしたちは日常生活の中で、取り返しのつかないことや、反省しないといけないことをしてしまうことがあります。でも聖書の悔い改めとは、日ごろの自分の過ちを悔いるということとは少し違います。そうではなく、神さまに背を向け自分の思いだけで生きてきた今までと決別し、それこそグルンと方向を変え神さまの指し示す方に向き直る。神さまに立ち返り、神さまの意思に従う者として生きていくことです。
 簡単に言いますが、これがなかなかできないのです。聖書には、神さまがイスラエルの民に向かって、「あなたたちはかたくなな民だ」という場面が何度もあります。神さまは何度も預言者を送り、人々を悔い改めに導こうと、つまり神さまの方を向かせようと試みられました。しかし結果、どうだったのか。人々は神さまのみ心を見失い、自分の信じていることから、自分の思いから離れられなかったのです。それはわたしたちにも通じることではないでしょうか。
 洗礼者ヨハネは言います。「悔い改めよ」と。しかしわたしたちは、どこを向いていいのか分からない。分かったとしても、どうやったら向けるのか、果たして自分の力だけで向けるのか、まったくわかりません。
 だからわたしたちには導き手が必要なのではないでしょうか。わたしたちの心に寄り添い、手を差し伸べ、そして共に歩んでくださる方が必要なのです。
 わたしたちは今、アドベントを迎え、イエス様の降誕を待ち望んでいます。なぜ神さまはわたしたちの間に、イエス様を遣わされたのでしょうか。
 それはイエス様によってわたしたちを、神さまへと導いてくださるためなのです。そしてこれこそが、神さまの思いなのです。

12月2日 降臨節第1主日(ルカ18:25〜31―印刷用PDFはこちら

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このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
(ルカによる福音書21章28節)

 降臨節を迎えました。降臨節第1主日は、教会の暦の上では一年の始まりです。しかし今日読まれた福音書は、少し恐ろしさも感じてしまいます。地上では海がどよめき荒れ狂う、天体が揺れ動かされる。そのように書かれたところだけを心に留めてしまうと、心がどんより暗くなってしまいます。しかしイエス様はこの話の中で、このような言葉も語られておられます。「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」。
 解放の時とは何でしょう。この言葉を理解することで、今日の箇所の意味が少しわかってくるのかもしれません。解放という言葉を調べてみました。「代価を支払って奴隷や捕虜を買い戻し、自由にすること」という意味で、この時代には使われていました。この時代、借金のために、また生きるために、奴隷になってしまった人もいたようです。その人が代価と引き換えに自由になることを、解放と言いました。
 そして新約聖書の中では、「イエス様によってもたらされる罪からの解放」という意味が加わっていきます。イエス様はわたしたちの罪を贖うために、十字架につけられました。イエス様という代価が支払われたことで、わたしたちは罪の中から解放されたのです。
 今日から始まる降臨節では、紫の祭色の中、礼拝をおこないます。紫という色の中で、心を静め、自分と向き合い、降誕日を待ち望みます。現実の世界に目をやると、とても不安になります。世界各地で起こる地震などの自然災害。大きな山火事もありました。テロや紛争も終わることを知りません。子どもたちが大きくなったときに、果たして彼らは笑顔の中で生きていくことができるのか、とても心配です。毎日のように起きる殺人事件、交通事故。なぜこんなことが起こるのか、問い続けるたびに、心が深い闇に覆われてしまいます。
 自分自身を振り返ってみてもそうです。神さまの前に正しく生きることのできない日々。ちょっとしたことで怒り、孤独を感じ、生きるのに疲れ、そして闇の中をさまよってしまう。様々な出来事の中で、わたしたちは暗闇に落とされてしまいます。そのときに、人々はおびえ恐ろしさのあまり気を失うだろうとイエス様は言われます。しかし、「でも」とイエス様は続けます。でも、あなたがたは身を起こして頭を上げなさいと命じられているのです。
 暗闇の中にいると、怯えます。うろたえます。しかしそのようなわたしたちを暗闇から解放するために、イエス様は来てくださいます。身を起こして頭を上げ、目を向けたその先に、小さな光がきっと見えます。わたしたちに与えられた確かな約束であるその光は、必ずわたしたちを包み込んでくれるのです。

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