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ショートメッセージ2019年1月

1月27日 顕現後第3主日(ルカ4:14〜21―印刷用PDFはこちら

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そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(ルカによる福音書4章21節)

 「イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られた」。今日の箇所は、このような言葉からスタートします。ルカによる福音書には、この「霊」による働きがしばしばみられます。まずイエス様が洗礼を受けた場面では、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える形でイエス様の上に降って来たと書かれています。さらに4章の最初にあるイエス様が誘惑を受けられる場面では、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」という記述があります。そして今日の場面と続いていくのです。
 つまりイエス様は聖霊に満たされた状態で、ガリラヤへと行かれ、働かれたのです。これはイエス様は自分の力だけではなく、霊の力によって、人々の間に立たれたということを示しています。
 それでは霊とは、一体何なのでしょう。霊はギリシア語でプネウマ、霊の他に風や息とも訳される語です。息といえば、神さまが最初の人アダムを造られたときに、最後に鼻から息を入れられたことを思い起こします。
 わたしたちが意識して息を吐くときのことを考えてみましょう。たとえばお母さんは、小さな子どもが夢中で遊んでいたために手が氷のように冷たくなってしまったら、「はぁ〜」と息を吹きかけて手を温めるでしょう。「この子の手が早く、温もりますように」、その思いで息を吐きかけるのです。
 また子どもがケガをして、血がでてしまったときにも、お母さんはその患部に息を吐きかけると思います。「痛いのが飛んでいくように」、「早く血が止まりますように」、その思いが息には込められているのです。
 子どもに対する思いや愛情がおかあさんの息に込められているのだとしたら、神さまから与えられた息には、イエス様を通してわたしたちに届けられる思い、そして神さまの愛が込められているのだと思います。
 イエス様はその神さまの思いに包まれて、ナザレの会堂で語られました。その言葉は、簡単に言うとこのようなものでした。
 窮屈で、真っ暗闇で、前も見えず、縛り付けられている人たちがいる。そのような人たちはその苦しみから解放される。それもいつかそうなるだろうという約束ではなく、今、実現したのだと。
 この言葉は決して2000年前だけに語られたものではありません。生きるのに疲れ、生きる意味を見い出すことができずに迷っている。イエス様はその人たちの心にも響くように、語り続けているのだと思います。そしてその背後には、わたしたちに対する神さまの愛があるのです。
 神さまの息吹を感じながら、見守りの内に歩んで行きましょう。

1月20日 顕現後第2主日(ヨハネ2:1〜11―印刷用PDFはこちら

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イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
(ヨハネによる福音書2章11節)

 ガリラヤのカナでおこなわれた婚礼に、イエス様と母マリア、そして弟子たちが招かれたときの話です。その婚礼の途中で、ぶどう酒が足りなくなりました。わたしたちの感覚では、それじゃあこの辺でお開きにしましょうで済みそうですが、そうもいかなかったようです。
 というのも当時の婚礼は、七日間ほど続くのが普通だったそうです。またある程度出入りは自由だったので、後から来る人に振る舞うぶどう酒を途中で切らさないようにしないといけなかったのです。
 その状況を目にして、イエス様の母は、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と伝えます。その言葉を聞いたイエス様は母とのやり取りのあと、召し使いたちに外に置いてあった水がめに水を満たすように告げます。そして召し使いたちは、言われた通りに水を満たしました。この水がめのサイズですが、聖書には2ないし3メトレテス入りと書いてあります。1メトレテスは30〜40リットルですから、60〜120リットル入りの石でできた水がめが、6つも並んでいたということです。ちなみに120リットル入りのポリバケツの大きさは、直径60cm、高さは66cmほどもあるそうです。子どもたちがかくれんぼで使えそうな大きさです。
 この大きな水がめに満たされた大量の水が、ぶどう酒に変わる。しかし聖書を読んでいますと、イエス様が水に対して何か言ったり、手をかざしたりといったことは書かれていません。また水がぶどう酒に変わった瞬間についても言及がありません。つまり、この物語が一番伝えたかったことは、水がぶどう酒になったという単なる驚きの奇跡行為ではないのです。
 この話は、飲み水をぶどう酒に変えた奇跡物語ではありません。水は水でも、変えられたのはユダヤ人が清めのために用いる水でした。「清め」という言葉によって、中にいる人たちと外の人たちを分離する、外の人たちに対して壁を作る、自分たちとは違う人たちを排除する、清めの水はそのような役目を果たしていました。
 それがぶどう酒に変えられたのです。それも水がめ6つ分という大量の水が、良質のぶどう酒に変えられたわけです。あふれんばかりの喜びに、恵みに満たされる。ついさっきまで人と自分たちとを分け隔てするために用いられていた水が、すべての人を招きにっこりとさせるぶどう酒にかえられる。イエス様はその恵みの賜物を与えるためにやってきた。これがイエス様がおこなわれたしるしなのです。
 すべての人に、このぶどう酒はふるまわれました。イエス様に信仰を告白したかどうか、悔い改めたかどうか、まったく関係ありません。尽きることのない恵みがまず、すべての人に与えられたのです。そしてその祝宴は今も続いているのです。

1月13日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(ルカ3:15〜16、21〜22―印刷用PDFはこちら

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すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
(ルカによる福音書3章22節)

 顕現日の後の最初の主日である「顕現後第1主日」は、「主イエス洗礼の日」とあるとおり、イエス様が洗礼を受けられたことを記念して礼拝をする日です。
 わたしが洗礼を受けたのは18歳のときでした。そのときにわたしはこう思っていました。「これで罪がなくなる」と。というのも、毎週の礼拝の中で、いかに自分は悪いことばかり考え、また自分中心に生きてきたのかを意識してしまったからです。
 洗礼を受けた次の日、わたしは愕然としました。昨日洗礼を受けたばかりなのに、もう嫌な思いが頭の中に渦巻いていることに気づいたからです。洗礼を受けても罪は消えることはありませんでした。
 イエス様が洗礼を受けられた、わたしにはこの出来事が不思議でなりませんでした。なぜ神さまの子であるイエス様が、洗礼を受ける必要があったのだろうか。もしかすると聖書には書かれていないけれども、少年時代にとてつもなく悪いことをされたのではなかろうか。
 わたしが考えた洗礼の意味とは、「洗礼=罪の赦し」というものでした。確かにその一面もあると思います。しかしイエス様の洗礼に関しては、そうであるとは言えないように思います。
 イエス様は本来、罪の赦しの洗礼は受ける必要はなかったはずです。しかしあえて受けられた。その大きな意味は、「わたしたちと同じ場所に立つ」ということなのではないでしょうか。
 わたしたちが立っている場所は、罪の泥沼とでもいうべきところなのかもしれません。沼地の泥水のように罪がまとわりつき、自力で抜け出そうにもどうしてもできない。イエス様が来られる前、神さまは人間に「それでもわたしのところに来なさい」と命じられていました。しかし誰一人として罪が全くない姿で神さまの前に立つことなどできないのです。そこで神さまはイエス様を遣わされました。
 そしてイエス様は、わたしたちをきれいに洗うのではなく、罪に汚れたままの姿で受け入れてくださるのです。そのために、自らも罪の泥の中にその身を投げ入れられたのです。
 そしてそれが、神さまのみ心なのです。天が開け、聖霊が鳩のようにイエス様の上に降って来たという事実。それは神さまのみ手が、イエス様を通してドロドロに汚れたわたしたちに差し出されたことを意味します。
 イエス様のご降誕のあと、神さまはご自分の思いを顕現されていかれます。その思いの先には、わたしたち一人一人の姿があるのです。
 神さまに感謝します。

1月6日 顕現日(マタイ2:1〜12―印刷用PDFはこちら

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彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
(マタイによる福音書2章9節)

 クリスマス、おめでとうございます。1月に入ってこう言われると、何か違和感があるかもしれません。クリスマスツリーはとっくの昔に片付けられ、すでにお正月飾りになっているのにと思われることでしょう。今日、1月6日は顕現日です。多くのキリスト教国ではこの日までをクリスマスシーズンとして、お祝いしています。ではこの顕現日とは、どういった日なのでしょうか。
 顕現とは、神さまが人間の前に現れることをいいます。そして新約聖書の中では特に、神さまがイエス様を通してご自分を現された出来事を指します。今日の福音書では、東方の占星術の学者(博士の方がなじみがあるかもしれません)が星を頼りにイエス様に贈り物を届ける物語が読まれました。イエス様の誕生が、聖書の中では異邦人と呼ばれる外国の人たちに対して伝えられたという出来事です。
 クリスマスの出来事は、まず野原にいる羊飼いたちに伝えられました。そして今、東方の博士たちに知らされました。このことを通して、神さまの思いがあらわされているのです。
 それは、選ばれたわずかな人だけが救いにあずかれるのではないということです。羊飼いは主の天使から、真っ先にイエス様の誕生を知らされました。羊飼いといえば楽しそうなイメージがあるかもしれません。しかし現実はそうではありませんでした。彼らは貧しく、虐げられていました。その理由の一つは、神さまから与えられた律法を守ることができないからです。たとえば安息日。週の一日は神さまにおささげして、すべての労働から離れなさいと命じられていました。しかし羊という動物を相手にしている彼ら羊飼いに、休める日などありません。火をおこすなとか、何歩以上歩くなとか、無理な話です。また汚(けが)れるとされている血や死骸にも、日常的に触れなければなりません。だから彼らは汚れている人間だと、後ろ指を指され、誰も相手にしてくれませんでした。しかし神さまは、そんな彼らに真っ先に救い主の誕生を知らされました。
 そして東方の博士たち。彼らは遠くからユダヤの国にやってきました。ユダヤの人たちは、神さまの救いにあずかるのは自分たちユダヤ人だけで、そのほかの人たち、いわゆる異邦人と呼ばれる人たちには、救いは来ないと思っていました。ところが神さまは、遠く離れた異邦人に、イエス様の誕生を知らされたのです。
 世間の中で弱くされている人たち。神さまの救いなど来ないと言われている人たち。そこに、救いがやってきた。これがクリスマス物語です。今、神さまなんて関係ない、必要ない、自分は見捨てられた、そのように思っている全ての人の元に、「あなたのために救い主は生まれた」という知らせが届けられているのです。

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