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ショートメッセージ2019年4月

4月28日 復活節第2主日(ヨハネ20:19〜31―印刷用PDFはこちら

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そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
(ヨハネによる福音書20章25節)

 今日の箇所は、二つの場面に分けられます。前半が復活日の夕方の出来事、そして後半のトマスが出てくる物語は復活日の一週間後、ちょうど今日の物語と言ってもよいものです。復活日の朝、マグダラのマリアが「わたしは主を見た」と弟子たちに告げました。弟子たちはそれを聞いて、どう思ったでしょう。喜びに満たされていたでしょうか。
 彼ら弟子たちは、その日の夕方、ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたとあります。確かに今、ユダヤ人たちに見つかったら、「お前たちも仲間だった。捕らえてしまえ」となるかもしれません。そもそもそれが怖かったから、彼ら弟子たちはイエス様を見捨てて、逃げてしまったわけです。
 しかし彼ら弟子たちが恐れていたのは、ユダヤ人だけではなかったのかもしれません。弟子たちはイエス様を見捨てました。逮捕されるときも、十字架に架けられたときも、そしてお墓に葬られたときも、イエス様の元から離れていたのです。彼らは、扉に鍵を掛けました。それはユダヤ人たちが部屋に入ってこないようにするためです。でもさらに、弟子たちはイエス様をも恐れ、自分たちの心の扉にも鍵をかけていたのかもしれません。マグダラのマリアが何を言っても、その言葉は入ってこなかったかもしれないのです。
 マグダラのマリアは、イエス様の十字架の元にいました。そして真っ先に墓に向かいました。素晴らしいことです。イエス様に会いたい、その思いが伝わってきます。でもみんながマグダラのマリアのようになれるのではない。現に弟子たちは、部屋の外に出ることができずに震えていました。しかしその中にも、イエス様は来てくださるのです。すべてのものに鍵をかけ、心の扉も開かずに固まっているそのただ中に、イエス様が来て下さる。みなさんも経験がないでしょうか。不安で、悲しくて、どうしようもなく心がざわめくとき。怒りが止まらず、その思いが神さまにまで向いてしまうとき。孤独で、何もする気が起こらず、生きている意味が見いだせないとき。そんなときにふと感じる温もりがある。温かい物に包まれる気がする。そっと寄り添ってくれる存在を感じる。
 「あなたがたに平和があるように」、イエス様は言われます。まさに「主の平和」です。弟子たちにも、そしてわたしたちの心にも平安を与えてくださる、それがイエス様。そしてそれが復活のイエス様との出会いです。
 聖書は後半のトマスの物語と続きます。そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」、その言葉は何度でも、わたしたちの元にも届けられているのです。

4月21日 復活日(ルカ24:1〜10―印刷用PDFはこちら

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そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
(ルカによる福音書24章9節)

 イースター、おめでとうございます。先日、夜にきれいな月を見ていました。イースターは「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と定められていますので、毎年日が変わります。昨年は4月1日でしたが今年は4月21日、ちなみに来年は4月12日です。しかし毎年、イースターの頃には、月が明るく輝いているということは変わりません。
 イエス様の復活は、十字架の死の三日後の日曜の朝に起こりました。ユダヤでは、日曜日の三日前は金曜日になります。その日イエス様は十字架の上で、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と大声で叫ばれ、息を引き取られました。
 その後、イエス様の遺体はお墓に葬られます。聖書には「岩に掘った墓の中」と書かれていますが、遺体を土の中に埋めたり、火で焼いたりすることはなく、亜麻布を巻いて岩の中に出来た空間に遺体を置き、その入り口を大きな岩でふさいでいたようです。今日の福音書に出てくる婦人たちは、イエス様の十字架の死を遠くに立って見ていました。またお墓と、イエス様の遺体が納められるありさまとを見届けました。そして家に帰って、香料と香油を準備しました。
 安息日が始まる前にこれらすべてのことがおこなわれました。それは安息日が始まると、一切のことができなくなるからです。イエス様の遺体のそばに行くことも、触れることも、何もできない時間が始まるわけです。安息日は金曜の日没後から土曜日の日没後まで続きます。その時間、彼女たちは何を思っていたのでしょうか。空を照らす月明かりとは対照的に、彼女たちの心は沈み、暗闇の中に落とされていたのではないでしょうか。
 しかし彼女たちは、目の前が真っ暗になり、歩くことすらできないという状況を体験したからこそ、イエス様の復活という出来事が、一筋の光として飛び込んできたのでしょう。そのときに初めて、悲しみが喜びへと変えられたのです。
 わたしたちは何度も神さまを裏切り、神さまに背き、自分勝手に生きています。わたしたちは、神さまから見捨てられても仕方のない、そんな一人一人です。しかし神さまは、そんなわたしたち、罪にまみれたわたしたちが滅んでしまうことを望まれなかった。神さまの目から見たらちっぽけで、どうしようもない存在のわたしたちを、生かそうとしてくださった。暗闇にいるわたしたちを引き上げてくださる。
 そのために、神さまはイエス様をこの世にお与えになったのです。わたしたちの罪を背負い、十字架で死なれたイエス様。わたしたちの罪は釘となって、イエス様の手足を貫きます。イエス様に見捨てられても仕方のない。でもそのようなわたしたちの元にもイエス様は来てくださいます。それが復活の喜びなのです。

4月14日 復活前主日(ルカ23:1〜49―印刷用PDFはこちら

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するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
(ルカによる福音書23章43節)

 今日の聖書の中で、一人の人がイエス様に約束されました。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と。十字架にかけられている状態で、イエス様はその人に、あなたはわたしと一緒に楽園にいるのだと約束をされます。
 その人は一体どんな人で、何をした人なのでしょうか。イエス様を最後まで信じ、イエス様にずっとついて行き、裏切ることなく、見捨てることなく、最後の最後まで強くあった人だったのでしょうか。聖書にはこのように書かれています。
 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
 はっきり言っておく、そう訳された言葉は、原文通りでは「アーメン、わたしはあなたに言う」となります。「アーメン」という力強い言葉の後に、一緒に楽園にいるという宣言をされているのです。そしてその宣言の相手とは、犯罪人の一人です。
 イエス様の十字架の右と左には、一人ずつ、二人の犯罪人がつけられていました。一人はイエス様に言います。「本当にメシアだったら自分を救え。そしてわたしも救え」。それに対してもう一人はこう言います。「わたしたちは自分のやったことの報いで、今、十字架につけられているんだ。でもこのイエスという人は、何も悪いことはしていない」。そしてイエス様に対し、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言います。
 彼は犯罪人です。十字架につけられた人です。ローマに反逆したのか、多くの人を殺めたのか、それは書かれていませんが、彼自身、自覚しています。自分の罪のために、自分は十字架につけられたと。その上で、イエス様に言います。わたしをどうぞ、顧みてください。憐れみをお与えくださいと。
 イエス様はその彼を、救いへと導きます。彼はイエス様にずっとついて来た人ではありません。いつも正しい行いをしていたわけでもありません。しかしイエス様は手を差し伸べられました。愛のまなざしを向け、招き入れられたのです。
 わたしたちはその光に希望を見いだしたいと思います。イエス様は自分の罪を知り、憐れみを求めた罪にまみれた犯罪人を、十字架の上から顧みられました。イエス様の手は、血を流しながら、わたしたちを迎え入れるために広げられています。

4月7日 大斎節第5主日(ルカ20:9〜19―印刷用PDFはこちら

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そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。
(ルカによる福音書20章15節)

 「ぶどう園と農夫」というイエス様が語られたたとえ話を、二つの視点から見ていきたいと思います。まずわたしたちが、そこで働く農夫になったと考えてみましょう。毎日その日暮らしで、食べるのに精一杯だったときに、ぶどう園の農夫を募集しているという知らせを聞きます。安定した働き口が与えられることは、とてもうれしいことです。思い切って働くことにしました。「ご主人様は厳しいかなあ」、などと考えながら、そのぶどう園に行くわけです。そこで働きだしたある日、主人から、農夫たちにすべてを任せ自分は旅に出るという言葉を聞きます。
 農夫たちはびっくりします。広大な土地。たくさんのぶどうの木。すべてを農夫たちに任せて、自分は旅に出るというご主人様。どうでしょう。そんなこと言われたら、嬉しくならないでしょうか。自由が与えられ、任せられるのです。
 わたしたちは実は、この農夫たちと同じように、今、この世界を生きています。わたしたちは何も持たずに生まれ、何も持たずに天に帰っていきます。わたしたちが今、生きているのは、たくさんの恵みを与えられているからです。その恵みを受けながら、わたしたちは収穫を得ます。しかしそれは、神さまが与えられた土台の上で得たもの。ぶどう園の農夫が、与えられた土地で収穫を得たのと同じです。
 今日の物語の農夫の行動を客観的に見たら、とてもひどいと感じることでしょう。主人は何も、収穫を全部よこせと言っているのではありません。農夫たちの取り分も十分あるのです。しかし農夫たちは、とでもひどい仕打ちを主人にしました。
 しかしわたしたちが、自分たちの周りにあるたくさんのもの、家族や友達やお金などといったものを、自分の物だと勘違いしてしまうことと、このぶどう園の農夫姿は同じなのではないかと思うのです。
 そして、もう一つの視点です。農夫たちは、ぶどう園の管理を任されていました。それは主人のために収穫を得るだけではなく、ぶどう園で働くことのできない人のこともよろしくという思いがあったと思います。ぶどう園の主人(神さま)が、ぶどう園の農夫(宗教指導者)たちにぶどう園(イスラエル)のことを任せたものの、宗教指導者たちはイスラエルの人たちの中で弱くされた人、罪人とされた人、病気の人たちなどを排斥していきます。つまりぶどう園から追い出したわけです。
 豊かに実った収穫をみんなで分けることをせず、自分たちだけで独り占めしてしまう。神さまに恵みを返さなかったばかりか、今、その恵みを必要としている人に渡さなかった。そのことを、イエス様は悲しまれたのです。
 神さまから一方的に与えられたものを、神さまにお返しする。神さまからあふれんばかりに与えられたものを、みんなで分かち合う。その思いを持ちながら、歩んで行けたらと思います。

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