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ショートメッセージ2019年5月

5月26日 復活節第6主日(ヨハネ14:23〜29―印刷用PDFはこちら

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わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
(ヨハネによる福音書14章27節)

 今日の場面でイエス様は、ご自分が十字架につけられる直前に弟子たちに対して長いお別れの説教をします。しかし「別れ」というのは、正確ではないかもしれません。今日の箇所の中に、このような言葉があります。
 「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」と言ったのをあなたがたは聞いた。
 今から自分はあなたがたのもとを去る。しかし、いずれ帰ってくる。それまでの期間が短いのか、それとも長くなるのかはわからない。そのようにイエス様は、十字架が間近に迫ってくる中、弟子たちに対して語られたのです。
 わたしは幼稚園の園長として、毎朝門に立っています。例年4月の新学期に、親御さんと離れる子どもたちの不安な表情をみると、胸が痛みます。〜時ごろには必ず迎えに来るから。そのような言葉を掛けながら、後ろ髪を引かれるように去っていくお母さんがいます。その後ろからは、子どもの泣き叫ぶ声。
 日が経つにつれ、子どもたちの泣き声は少しずつおさまってきます。幼稚園や先生に慣れたというのもあるでしょう。でもそれよりも大きいのは、「必ずお迎えが来る」ということが分かったからです。今は寂しい。でも絶対に会える。必ず会える。その確信があったときに、少しずつ涙は消えていくのです。
 イエス様は、弟子たちのもとから自分が去った時に弟子たちがどうなってしまうのか、ご存知でした。言いようのない不安に駆られ、前を向いて歩くことができない。怯え、逃げまどう弟子たちの姿。しかしその姿は、救いの確信を得ることのできないわたしたちの姿と重なって見えるように思います。
 だからイエス様は天に昇られる前、わたしたちに聖霊を与えて下さったのです。その聖霊はイエス様がそばにいなくても、思い起こさせてくれます。それは単に、「そうそう、イエス様ってこんなことしていたなあ」という思い出ではありません。イエス様がまるで今もいるかのように、わたしたちの周りで何かが起こる。それが聖霊の働きなのです。働きによって、わたしたちは気づかされます。「そうだ、イエス様は一緒にいてくれると約束してくれていたんだ」と。そして、きっといつか来てくださるということをも、わたしたちに対して知らせようとされているのです。
 わたしたちは神さまの子どもです。それぞれの人生を歩んでいます。苦しいことも、悲しいこともあります。逆に楽しくてしょうがないこともあるでしょう。そのすべての出来事を、いつも支えてくれる存在があります。目には見えない。手に触れることもできない。でも確かに、聖霊がわたしたちに与えられています。
 そして再びイエス様が来てくださるその時まで、わたしたちの涙をぬぐってくれるのです。

5月19日 復活節第5主日(ヨハネ13:31〜35―印刷用PDFはこちら

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あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネによる福音書13章34節)

 今日の箇所に限らず、聖書には「愛」という言葉が非常に多く出てきます。しかし聖書で用いられている「愛」の意味は、日本語のイメージとは少し違っています。
 新約聖書の原語、ギリシア語には、愛を表す四つの言葉があります。一つは異性への愛、肉体的な愛を表す「エロース」、二つ目は家族間の愛情、特に親子間の愛を示す「ストルゲー」、三つ目は友情や夫婦間の愛に用いられ、「いつくしむ」とも訳される「フィリア」。 そして四つ目、新約聖書の中で最も多く用いられている「神の愛」を指す言葉が、「アガペー」です。「アガペー」は、相手の幸せを思う無償の愛であり、神さまの本性です。そして今日使われている愛も、このアガペーです。
 無償の愛とは、見返りを求めない一方的な愛のことです。神さまがわたしたちに与えられているシャワーのように浴びせられる愛を、あなたがたもお互いに与えあいなさい。それがイエス様の新しい掟だというのです。これをわたしたちはどのように受け取ればよいのでしょうか。
 この話をされる前、ヨハネ福音書13章の冒頭には、このように書かれています。
 イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
 そして愛する弟子たちにイエス様がなさったのは、弟子たちの足を洗うという行為でした。通常、人の足を洗うのは、奴隷がすることです。先生と呼ばれる立場にあったイエス様が弟子の足を洗うことは、考えられない出来事でした。しかしイエス様はそうなさった。愛するということはこういうことだと、自らの手を使って示されたのです。
 聖書の他の箇所には、「敵を愛しなさい」という命令もあります。わたしたちにとって、敵を愛することと互いに愛することとは、どちらが難しいでしょうか。ある人はこう言います。「敵を愛する方が簡単だ」と。わたしたちが「敵」だと感じている人がいたとしても、関わらなければいいのです。
 しかし「互いに愛し合いなさい」と言われたときに、わたしたちはイエス様がなさったように見返りを求めずに、今、となりにいる人に関わり、徹底的に大切にできるのかと考え込んでしまいます。それは日常の様々な場面で、そうできない自分の姿と出会ってしまうからです。わたしには愛することができない。それよりも憎んでしまう。悲しいけれども、そのような自分がいるのです。
 それでもイエス様は招かれます。愛の関係の中にいるように、わたしたちを導かれます。イエス様は足を洗うという行為を、わたしたちの愛の形として示されました。そのように互いに関わっていこう。それがイエス様の与えられた新しい掟なのです。

5月12日 復活節第4主日(ヨハネ10:22〜30―印刷用PDFはこちら

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わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
(ヨハネによる福音書10章27節)

 今日は親子礼拝ということで、礼拝のお話は人形たちを使って楽しくしました。
 あるところに、一匹の羊がいました。名前はショーンといいます。ショーンは毎日楽しく過ごしていました。でも一つだけ嫌なことがありました。それは羊飼いのおじさんに、いつもこう言われるからです。
 「ショーン、いいかい。君たち羊はとても弱いんだ。だから一人で勝手にいろんな所にいっちゃダメだよ。みんなでかたまって、みんなについて行って、みんなで助け合って」。そんなとき、ショーンはこう答えるのでした。「もう、わかった。わかった。わかったよ。おとなしくしておけばいいんでしょ」。
 ある日のこと、ショーンは我慢できずに冒険に出かけることにしました。心配する仲間の羊たちに言います。「いいかい、みんな。羊飼いのおじさんには内緒だよ。ちゃんと晩御飯には戻ってくるから。珍しいお花なんかあったら持って帰ってくるから、楽しみに待ってて」。そう言って、ショーンは山の方に行ってしまいました。
 山に出かけたショーンは、きれいなお花を見つけます。少し手を伸ばせば届きそうです。「よし、もう少しでお花が取れるぞ」、そう思った瞬間、足元の岩が崩れ、ショーンは崖の途中まで落ちてしまします。「羊飼いのおじさん、助けて〜」、その声を耳にしたのは、近くを通っていた恐ろしいオオカミでした。オオカミは羊飼いのおじさんの声をまね、ショーンに近づいていきます。しかしショーンは、いつも聞いているおじさんの声とは違うことに気づきます。
 オオカミは言います。「それなら力づくで、お前を襲ってやる。お前が待っている羊飼いなんか、捜しに来るもんか。お前なんて、たくさんいる羊の中のたった一匹。お前のことなんて忘れているさ。羊なんてみんな一緒。一匹いなくなっても一緒。誰も気づかないし、どうだっていいんだ」。
 それを聞いて、ショーンは悲しくなります。「確かにそうかもしれない」、でもそう思った瞬間、あたたかいあの声が聞こえてきます。「ショーン、大丈夫か」。あわてて逃げていくオオカミをよそに、羊飼いのおじさんはにっこり笑ってショーンに近づきます。「ねえ、何で僕がいないってわかったの?」、「そんなのすぐにわかるさ、わたしは君の羊飼いなんだよ」、「ねえ、怒らないの?」、「なんで怒らなきゃいけないんだ。それよりもおじさんはお前が見つかってとてもうれしいんだよ」。
 この羊のショーンの姿、誰かと似ていませんか。そう、わたしたちと同じかもしれません。わたしたちも自分勝手に歩き、辛いときや怖いときに「助けて〜」と叫ぶこともあるでしょう。でもわたしたちのことを全部知ってくださる方がいるのです。
 羊飼いであるイエス様がいつも一緒にいてくださる。このことに感謝していきたいと思います。

5月5日 復活節第3主日(ヨハネ21:1〜14―印刷用PDFはこちら

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イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
(ヨハネによる福音書21章14節)

 聖書はイエス様の復活を、様々な形で報告します。復活の朝にはマグダラのマリアの物語が語られます。その夕方にはユダヤ人を怖がり、部屋の中に閉じこもっていた弟子たちに、さらにその八日後にはトマスの元にも、復活のイエス様は来られました。それらの場面で復活のイエス様に出会う人たちは、悲しみや恐れ、疑いや戸惑いの中におりました。しかし今日の場面は、少し感じが違います。
 今日の箇所には、7人の弟子が出てきます。前回のように狭い部屋で隠れているわけではなく、彼らは漁をしていました。元々漁師だった彼らにとって、漁は日々の糧を得るための日常的なことだったのでしょう。そしてその場所に、復活のイエス様が来てくださったのです。そこにわたしたちも感じることができる大きな喜びがあるのです。
 イエス様が天に召された後、2000年の間、たくさんの人が復活のイエス様に出会ってきました。人生に疲れたとき、希望を見失ったとき、絶望の中に叩き落されたとき、その中に一筋の光が見えて、それがイエス様だと感じた人もおられると思います。しかしイエス様は、決してつらい時にだけ来られるのではありません。
 日常のふとした出来事の中で、となりの人の笑顔の中で、とてつもない喜びの中で、イエス様を感じ、復活のイエス様と出会うこともあるということを、今日の福音書は伝えています。それぞれが、それぞれの出会いをする。それが復活のイエス様との出会いであり、喜びなのです。
 わたしは教会で子どもたちに祝福のお祈りをするときに、このように言います。「悲しい時も、つらい時も、うれしい時も、楽しい時も、いつもイエス様がいてくださいますように」。どんなときでもイエス様がいてくださる。苦しい時も、喜びの時も、復活のイエス様が手を差し伸べてくださる。それがわたしたちに与えられた約束であり、希望です。その確信をもって、わたしたちは歩んで行きたいと思います。
 もしもまだ、復活のイエス様を感じていないという方がおられたとしても、どうぞ信じてください。みなさんの元にも、イエス様は常に手を伸ばし、声を掛けてくださっているということを。復活のイエス様はわたしたちのところに来て下さり、喜びを届けてくださるのです。
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエス様は約束されました。イエス様が必要なときも、自分の力で歩けると思いこんでいるときも、いつもイエス様がいてくれる。
 それが今日の福音です。わたしたちの日常の中に来て下さるイエス様を、わたしたちは感じていきたいと思います。

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